|
|
|
今日は「金持ちとラザロ」と言われる譬え話について御一緒に学びたいと思います。この譬え話も、前回の「不正な管理人のたとえ」に引き続きましてお金に関わる話となっております。前回申しましたように、お金の使い方、あるいはお金に対する人の態度というのは、その人の人生観や、価値観や、生き方というものを見事に物語っています。お金を無駄に使えば、その人の人生も無駄に浪費されることになってしまいますし、賢く使えば、お金では買えないものをも手に入れることができるのです。極端な話、永遠の命だって手に入れることができると、イエス様は仰るのです。
けれども、それは多額の献金をすればいいというような単純な話ではありません。イエス様は、レプトン銅貨二枚を献金した貧しいやもめをご覧になって、「あの人は誰よりもたくさんの献金をした。金持ちたちは皆、有り余る中から献金をしたが、あの婦人は持っている生活費のすべてを献金したからである」と言われました。あるいは、イエス様が五千人の聴衆にパンを与えなさいと弟子たちに命じたとき、弟子たちは200デナリオンがあってもとてもまかない切れませんと言いましたが、一人の少年がわずか五つのパンと二匹の魚をイエス様に差し出すと、それをもって、イエス様は五千人の人々を満腹させられました。
このように、お金で買えないようなものを手に入れるためには、お金の多少よりも、如何にそれを用いるか、誰のために、何のためにそれを用いるかということが大事になってくるのです。そのような霊的な賢さをもって、あなたがたのお金を、富を、才能を、神様のために、人のために用いなさいと、イエス様は不正な管理人の譬えをもって教えてくださったのです。 |
|
|
|
|
しかし、お金や富というのは使い方以前の問題として、お金が有るか、無いか、というたいへん重要で無視できない問題があるわけです。今日の譬え話も、うらやましいほど豊かに、有り余るほど持っている人と、非常に惨めで哀れなほどに何ももっていない人がいた、ということから始められています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(19-20)
ある金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていた、と言います。金持ちがどうして金持ちなのか、ラザロがどうして貧乏であるのか、その理由は何も記されていません。理由などないのです。金持ちは豊かにあるところに生まれたから金持ちなのであり、貧しいラザロは何もないところに生まれたから貧しいのです。
イエス様は、この二人の境遇の違いを非常に強調して対比させています。金持ちは柔らかい麻布を着て、その上に紫の衣をまとっていました。「紫の衣」といえば、受難のイエス様が総督官邸の中で兵士たちに侮辱されたときに、茨の冠と紫の衣を着せられて、「ユダヤ人の王、万歳」とからかわれたという事を思い起こします。紫の衣は王様や貴族の衣であったのです。というのは、当時の衣服というのは羊毛でおられていたようですが、染色技術というのはさっぱり発展しておらず、紀元300年頃までは漂白も染色も刺繍もない地のままの毛織物がほとんどでした。ただ一つの染色が地中海沿岸のテュロスで巻き貝の一種からとれる色素を用いて紫とも緋色ともいえる色を染めたものがこの貝紫でした。したがって「紫の衣」は、高貴な人のステイタス・シンボルになっていたのです。
一方、ラザロがどんな衣服を着ていたのかは記されていません。その代わり、全身ができもので被われていたと言われています。全身を被う出来物と言えば、旧約聖書のヨブを思い起こすことができます。ヨブはかゆさに耐えきれず、灰の中に座り、素焼きのかけらで全身を掻きむしったと言われています。そのためにできものは乾くことなく、膿や血を流し続けました。ラザロの場合、その出来物を犬がなめたとも言われています。牧羊犬を用いなかったイスラエル社会では、犬は野蛮で汚い動物として嫌われていました。ラザロはその犬にも劣る人間であったということなのです。
また、金持ちは毎日贅沢に遊び暮らしていました。しかし、ラザロはその金持ちの食卓から落ちる残飯で空腹を満たしたいと思いながら、お屋敷の裏口に身を横たえ、犬にできものをなめられても追い払う気力も、体力もなく、生きる屍の如く生きていたというのです。
二人は、同じ国に生まれ、同じ時代に生まれ、同じ神を信じる、同じ人間であるのに、しかも隣り合わせて生きているのに、これだけの違いがあったのでした。
よくお金がないことを「先立つものがない」と言いますが、お金がある人は、それだけ色々な使い方、つまり生き方の可能性があるわけですが、逆にお金のない人は自ずと使い方が限られてくることになります。そして、それはとりもなおさず、その人の生き方の不自由さ、限界ということにもなるわけです。イエス様もこういうことを言われました。「誰でも持っている者は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタイ25:29) しかし、これではラザロのように貧しく生まれ、家もなく、健康もなく、才能もなく、最初から何も持たない人間には、まるで救いがないではありませんか。
お金の使い方は人生の使い方の問題であるというのは、確かにそう言えると思うのですが、それならばもう少し公平な世の中でなければ、と皆さんも思うのではないでしょうか。お金だけの話をしているのではありません。ある人は才能や、健康や、家柄など、あらゆるものを併せ持っています。しかし、ある人はどう見たって足りない物の方がずっと多いのです。
神様は、どうしてこのような不公平な世の中をゆるしておられるのでしょうか。神様が私たちの人生の主であられるならば、もう少し平等にチャンスを与えてくれてもよさそうなものなのにと、皆さんはお思いになりませんでしょうか。 |
|
|
|
|
人間の苦しみは、このような人生の不平等によることが多いのでありまして、実は、これをうまいこと説明しようとする二つの代表的な思想があります。
一つは因果応報という思想でありまして、幸せは善い行いの結果であって、不幸せは悪い行いの結果だというものです。なるほど、本当にその通りなら納得できるのです。しかし、実際は違います。善い人が苦しみ、悪い人が人生を謳歌しているということがあるわけです。すると、因果応報ですべてを説明するには、生まれる前の話まで造りだして、それはお前が前世で悪いことをしたのだとか、今は善くても来世には不幸になるとか、子孫に不幸が訪れるとか、そういうことを言わなければならなくなるわけです。
確かに、人生というのは一人一人別々に存在しているのではなくて、先祖や親、子供や子孫などの人生とのつながりの中にあります。ですから、幸せというのも、自分一人のことばかりを考えて生きていたらいけないのであって、親や子供たちの幸せのこと、世の中の幸せということまで考えて生きなければなりません。因果応報というのは、そういう意味では聖書にもありますし、前世がどうのこうのという迷信めいた話は別にしましても、真理の一部を言い当てているし、私たちが生きていく上で子孫のことまでしっかりと考えて生きていかなくてはいけないということは本当だと思うのです。
しかし、因果応報だけでは説明しきれない人生や苦難というものもあります。それに対して、もう一つの思想がありまして、それが善悪二元論です。これは、この世界には善い神様だけではなく、悪い神様とその勢力というものがあるのだという考えです。たとえば神様に対してサタン、天使に対して悪霊がいるという考え方です。
この二元論が便利なところは、神様に悪の責任を負わせないで済むということにあります。「この世が悪いのは神様のせいじゃない、サタンが悪いのだ。私を不幸にしたのは神様ではない。サタンなのだ」と、このように考えれば一応は「なぜ神様は?」というような人生の理不尽の問題からは解放されます。そして、自分が不幸なのは、信心が足りないからであるとか、悪いものに取り憑かれているからであると考えて、もっと熱心に信心をするとか、お祓いをするとか、修行をするとか、そういう努力によって悪いものから解放されると信じるわけです。
この二元論というのは因果応報より多くの問題を含んでいます。まず、神様にも手に負えない力(サタン)があるということを認めることになります。また、何でも自分に都合の悪いものを何でもサタンのせいにして、罪の問題を軽視する傾向もあります。さらに自分は神様の側の人間で、相手はサタンの側の人間であると、自分の正義を絶対化したり、相手の悪を絶対化して裁いたりすることがあるのです。
聖書はこういう二元論を否定しています。サタンや悪霊の存在というものを認めていますが、それさえも神様の御手の中にあり、すべてが神様から出たものだと考えるわけです。 |
|
|
|
|
因果応報でもなく、二元論でもないとすれば、いったい金持ちとラザロのような不公平の問題を、聖書はどのように説明してくれるのでしょうか。難しい問題ですが、敢えて言えば「摂理」ということができると思うのです。金持ちが豊かさの中に生まれたのも神様の摂理であり、ラザロが貧しさの中に生まれたのも神様の摂理であるということです。
以前にお話しをしたことがありますが、イエス様と弟子たちが歩いていると、生まれつき目の見えない盲人が乞食をしておりました。それを気の毒に思った弟子が、「先生、彼が生まれつき目が見えないのは本人の罪ですか、それとも両親の罪ですか」と聞きました。弟子たちの質問は因果応報論に基づいています。しかし、この時、イエス様は「神の栄光が表れるためである」とお答えになったというのです。つまり、弟子たちの「なぜ」という質問には答えないで、「何のために」という目的についてお答えになったわけです。
摂理というのは、罪を犯したからとか、サタンのせいであるとか、そういうことではなく神様の御計画によって定められた私たちの人生ということです。それを「運命」とか「定め」と言ってしまうと、救いのない悲観的な思いで人生を捉えることになってしまいますが、摂理と運命が決定的に違うのは、「摂理」には神の目的があるということです。私たちがこの人生において持って生まれたものや、背負って生まれてきたものには、すべて目的があり、意味があるのだということなのです。しかも、それは神様の人間に対する愛に深く根ざした目的であり、意味なのです。 |
|
|
|
|
そういう神様の目的という観点からしますと、金持ちとラザロというのは決して不平等ではないのです。なかなかすぐには納得できないことであるかもしれません。しかし、イエス様は人生というのは死んで終わりではない、第二幕があるのだということをお教え下さるのです。物語の続きを見て参りましょう。
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」
まず、ここでハッとさせられるのは、死というのは誰に対しても平等に訪れるということです。
ただラザロの死については「この貧しい人は死んで」とありますが、金持ちの死について「死んで葬られ」とあります。ラザロは野垂れ死にをし、金持ちは盛大な葬儀をして葬られたという違いがあるように感じられます。しかし、身分の高い人であろうと、金持ちであろうと、死を免れることはできません。死は第一幕の終わりです。盛大に葬られようと、野垂れ死にであろうと、第一幕はそれで終わりなのです。金持ちの贅沢に遊び暮らしていた人生もそれで終わりですし、ラザロの惨めで哀れな人生もそれで終わるのです。
そして第二幕が開かれます。そこで驚くべきどんでん返しが起こると、イエス様は言われるのです。ラザロは、天使たちによってアブラハムの膝元に連れ、大いなる慰めを得ます。一方、金持ちは陰府の炎に苛まされ、苦しみ悶えることになったというのです。
なぜ、こういうどんでん返しが起こったのでしょうか。この物語の中で、アブラハムは憐れみを乞う金持ちにこのように答えました。
「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』」
ここで言われていることは、善いことをしたから天国に行き、悪いことをしたから地獄に行くというのではありません。この物語を見る限り、金持ちが悪い人間だったとか、不信仰であったとか、そういうことは強調されていないのです。逆にラザロが善人だったということも書いてありません。これは善悪の問題ではないのです。調整の問題です。金持ちは生前贅沢に遊び暮らしていたから、今は悪いものを受け、ラザロは生前慰めのない悲惨な人生を生きてきたから、今は慰められるのです。生前の不公平の調整が行われるということなのです。
私は、ここまでのお話しで二つのことが言えるだろうと思うのです。一つは、神様は、この世で貧しく生きる者、病を負う者、苦難を受ける者の苦しみや悲しみを決して忘れ給うことなく、「彼らは生前悪い者を受けた」と言ってくださり、彼らに天国で最上のものをお与え下さるというのです。ですから、イエス様は「貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである」と言われました。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められるであろう」と言われました。この世の苦難を受けた人は、「どうして、私はこんな苦しい人生を生きなければならないのだろう」と思うかも知れませんが、それは人生の第二幕において神様が必ず調整し、帳尻を合わせてくださるのです。
もう一つのことは、神様は、豊かな人が貧しい人々に分かち与えることを強く望んでおられるということです。先ほども申しましたように、豊かな人は、立派だから豊かな人生を与えられたのではありません。それは摂理なのです。神様の目的のあることなのです。それは自分のために贅沢に遊び暮らすことではなく、持っていない人に与えるためです。持っていない人は、持っていないということによって神様の祝福が約束されていますが、持っている人は持っている者を与えることによって神様の祝福が得られるのです。
この譬え話で、金持ちには名前がありませんが、貧しい者にはラザロという名前があります。ラザロという名前は「神はわが助け」=エレ・アザルというヘブライ語の名前をギリシャ語風にしたものです。つまり、持ってない人はそのままの姿で「神はわが助け」という祝福を頂いているのです。しかし、金持ちは違います。金持ちはそのままでは、ラザロのような祝福はありません。彼が「神はわが助け」という祝福を得るためには、持っているものを貧しい人々のために与え、自分を貧しい者にしなくてはならないのです。
みなさん、そのように考えますと、人生というのはやはり平等にできているのであります。私たちの中には、この金持ちほど豊かな人はおりませんし、このラザロほど貧しい人はおりません。言ってみれば、豊かさもあるし、貧しさもあります。譬え話と違って、それが現実だと思うのです。では、どう考えれば良いのでしょうか。神様の祝福は、私たちの貧しさの中にあるのです。この貧しさにおいて、私たちは神様をより頼む者(=ラザロ)とされましたし、神様の愛を受け、恵みを受けるのです。一方、私たちの豊さは、神様に仕え、人に仕えるための奉仕の力なのです。多く与えられている人は、多く与えることができるという人生の喜ばしい務めを、神様から頂いているのです。
どうか、貧しさにおいて神様と共に生き、豊かさにおいて隣人と共に生きる者になりたいと願います。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|