不正な管理人の譬え
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書16章1-13節
旧約聖書 詩編50編8-15節
不正な管理人の譬え
 今日は「不正な管理人」と言われる譬え話について御一緒に学びたいと思います。

 ある金持ちのもとで、一人の管理人が働いていました。管理人とは日本流に言えば番頭のことでありまして、主人に代わって商売や事務、また財産の一切を取り仕切っていました。ところが、この管理人は任せられていたことをいいことにして、日頃から主人の財産を着服して、勝手に使い込んでいたというのです。

 しばらくは見つからずに上手いことやっていたのでありましょうが、次第に調子にのって、彼の不正は目に余るようになってきました。とうとう内部告発によって、管理人の横領は主人にバレてしまったのです。主人はすぐに管理人を呼びつけ、「お前について聞いていることがあるがどうなのか。会計報告を出しなさい。事実が判明すればお前はクビだ。覚悟をしておけ」と、管理人の不正を厳しく追及し、解任の予告をしたのでした。

 彼は青ざめました。とても「ご免なさい」と謝って済むような金額ではなかったのでありましょう。「ああ、どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。この職を失ったら、いったい何をして生きていったらいいのだろう。土方をするような体ではないし、物乞いになるのは恥ずかしい。」

 こうお話ししますと、彼は窮地に立たされて、「万事休す、一巻の終わり、もう死ぬしかない」と、パニックに陥っているように聞こえるかも知れませんが、実は聖書はそういうことを言っているのではありません。「管理人は考えた」とあります。ここがミソでもありまして、冷静に、自分の置かれた状況を考え、自分の生きる道を必死に考えたというのです。

 管理人の仕事というのは信用が第一でありますから、横領でクビになったら、いくら能力があった男でも、もはや管理人として雇ってくれる主人を見つけることはできません。彼に残された道は日雇い人夫か、物乞いしかありませんでした。しかし、ソロバンは一流でも、肉体労働の力はありません。元管理人のプライドを捨てて物乞いをするということもできません。他に何かいい道はないだろうかと、ピンチを切り抜ける方法をしたたかに考えるのです。

 そして、ついに彼はある方法を閃きました。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」そう思い立つやいなや、彼はすぐに主人に借金がある人たちを次々に呼び寄せました。そして、「あなたは幾らの借金があるのか」と聞き、「油百樽です」と言えば、それを五十樽と証文を書き換えてやり、「小麦百石です」といえば、それを八十石に書き換えてやったのでした。その変わりに、自分が困った時には助けてくれるようにと、恩を売ったわけです。こうして、この管理人は、不正の上に不正を重ねて、身の保全をはかったのでした。

 この管理人は相当のワルだったと言えましょう。このとんでもない管理人のせいで、気の毒なことに、主人は、財産を横領された上に、油と麦まで大損をさせられるはめになってしまったのでした。ところが、この譬え話は驚くべきと言いますか、唖然とするような結末を迎えます。8節を読んでみましょう。

 「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」

 それだけではありません。イエス様もまた、この不正な管理人の利口なやり方を称賛して、「あなたがたもこの不正な管理人を見習いなさい」とまで仰るのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。
お金の使い方は生き方の問題
この譬え話を解く鍵は、「お金の使い方は人間の生き方の問題である」ということにあります。

 実は、イエス様は15章からずっとそのことをテーマに譬え話をなさっていると言っても良いのです。まず15章の最初に「見失った羊のたとえ」があります。これは一匹の羊の掛け買いのなさということですが、家畜という財産の話でもあります。次に「無くした銀貨のたとえ」が続きますが、これは一枚の銀貨の持つ意味を思わせる話ですが、要するにある婦人のへそくりの話でもあるのです。それから、「放蕩息子のたとえ」があります。二人の息子を持つ父親の話であり、息子という何にもまさる宝の話しです。しかも、父親の遺産がらみの話しでもあります。そして、今日お読みしました16章の「不正な管理人のたとえ」がありまして、さらに19節からは「金持ちと貧乏人ラザロ」という、これまたちょっと不思議な話しなのですが、貧富の差にまつわる譬え話が続いています。

 要するにすべて財産やお金、あるいは宝物に関する話です。少し極論に聞こえるかも知れませんが、人間の人生というのは、いつだって財産やお金の問題がからんでいるということではないでしょうか。イエス様は、そのことを真正面から取り上げておられるのです。

 お金の話というのは非常に生臭い話であって、「人生はお金だ」なんていう話は宗教的ではないと思う人も多いと思います。しかし、それは間違いです。確かにお金には人間の利己心とか、虚栄心とか、貪欲さとか、邪悪さ、あるいは富の性質として儚さとか、惑わしというものが染み付いています。しかし、それがすなわち私たちのこの世の生活というものを、よく表しているのではないでしょうか。利己心のない人がいましょうか? 虚栄心のない人がいましょうか? 富に惑わされない人間がいましょうか? 利己心もあり、虚栄心もあり、貪欲もあり、儚い富に惑わされ、振り回されている、そういう私たちの生活や人生と無関係なところで、神様がどうだ、こうだ、正しい信仰は何だという議論しても、それは決して宗教的だとは言えないのです。

 宗教というのは、きれい事ではありません。道徳や理想でもありません。では何かと言ったら、宗教は祈りだと言っても良いかもしれません。そして、祈りのというのは特別な場所である教会から生まれるのではなく、日常の場である生臭い生活から生まれてくるものなのです。あるいは罪一つ犯したことのない立派な人間から生まれるのではなく、自分の中にある邪悪さや、弱さ、脆さに振り回されながらも、その中で一生懸命にもがきながら生きようとしている人間から生まれるのです。

 今年度の荒川教会の標語は、「わが家は祈りの家と称えられるべし」でありますが、教会が祈りの家となるためには、いくらこの中で宗教的な香りのする美しい言葉を連ねて祈っても無駄でありまして、「神様、助けて」の一言でもいい、「神様、ご免なさい」の一言でもいい、私たちが自分の生活の中から切なる生々しい祈りを携えてきて、それをもって教会で礼拝をし、御言葉を聞き、また共に祈り合うことが必要なのです。

 ですから、イエス様は生臭い話を決して低俗だとは思われません。イエス様は現実主義者なのです。お金の使い方にこそ人間の生々しい生き方が表れること考えて、だからこそお金の使い方ということを極めて大切な人間のテーマとして、真っ正面からお語しくださるのです。
不正な富
 しかも、今日、イエス様がお話し下さっているのは、不正にまみれたお金です。イエス様は、そのことを強調しておられます。

 「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(9節)

 「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」(11節)

 これだけを読みますと、一瞬、イエス様が仰っておられるのは、横領でも、詐欺でも、泥棒でも、不正でも、何でもいいから、お金を稼ぎなさい、お金がなければ友達もできないし、価値あるものを持つことができないのだということのように聞こえてきてしまうのです。

 もちろん、イエス様が言わんとしているのはそんなアナーキーなことではありません。しかし、過剰な清潔さということでもないのです。イエス様は、これは汚れたお金だから駄目、これはきれいなお金だから良いということを言われないということなのです。

 イエス様にしてみれば、先ほども申しましたが人間の利己心や虚栄心や貪欲や、人間を惑わす魔力のようなものが染み付いているものでありまして、いずれにせよ、あまりきれいなものではないのだということなのです。不正をしても良いということではありません。しかし、不正をしようがしまいが、お金というのはある程度不正さが混じりながら動いているのだという現実の部分が語られているのです。

 それだけではありません。13節には「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われています。つまり、お金というのは人間にとってたいへんな誘惑でありまして、しばしば人間は神ではなくお金を主人として、お金に仕える人間になってしまう、そのために神様を捨ててしまうことがある、そういう悪魔的なものだということを警告しているのです。お金には、そういう誘惑や危険がつきまとうのです。

 しかし、だからといってお金を悪いものとして、お金を無視して生きていけるわけではありません。そういうことを弁えた上で、お金に使われることなくお金を有益に用いる人間になりなさいと、イエス様は教えてくださっているわけです。
抜け目なさ
 その点、この不正な管理人は抜け目がなかった、つまりお金に使われるのではなく、お金を自分のために有効に使う知恵をもっていたと、イエス様は言われるのです。

 それは友達を作るということです。友達を作ると言っても、前回お話しをした放蕩息子のように、お金がなくなった途端に、見向きもしてくれなくなる友達ではありません。自分が職を失い、窮地に陥った時に、「わたしのところに来なさい」と言ってくれる友達であります。

 そういう友達を得るために、この不正な管理人は何をしたかというと、人々の負債を少しずつ免除してやり、彼らの人生の重荷を軽くしてやり、彼らを助け、彼らに感謝される人間となったのでした。ここに私たちの見習うべき部分があると、イエス様は仰ったのです。

 ただ釈然としないのは、彼のやり方であります。これはキリスト教的な愛の話、つまり捨て身の、報いを求めない、愛の業とは質的に違う話です。彼は我が身を守るためにそれをしたのであり、しかも不正の上塗りをして、不正のまみれた富で、それをしたということです。そういう点からすると、人を助けたとか、人から感謝される人間になったというけれども、決して誉められた話とはいえないでありましょう。動機や手段が正しくなくても、結果さえ良ければそれでいいのかという疑問が残る話なのです。

 しかし、敢えてイエス様は美しい話ではなく、不正にまみれた男の、不正にまみれた富の使い方というものを、ここで引き合いに出されました。そして、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」と、光の子らを自負する者たちに対して、つまり自分は正しい人間だと思っている人たちに対する辛口の批判までなさているのです。これは、どういうことかと言いますと、きれい事ばかりを言って、結局何もしない人になってはいけないという警告なのです。

 私たちは、不正な管理の不正なやり方に疑問を持っています。しかし、これほどあからさまではないにしても、私たちは親切や愛の業に何の見返りも求めていないと言えるでしょうか。親切にしたのに感謝されなかったと、腹を立てたりすることがないでしょうか。自分のしたことを人に認めてもらいたいために、遠慮がちにそれとなく人に知らせたりはしていないでしょうか。私たちはクリスチャンとして出来る限り報いを求めない純粋な愛を行うと願い、努力もすると思いますが、それでも人間である限り、そういう気持ちになるのは仕方がないことだと思うのです。

 ただ、自分がそういう欠けのある人間であることを忘れて、他人のしていることを、あの愛は本物だとか、偽物だとか、あの信仰は本物だとか、偽善だとか、そういうことをとやかくいうのは慎まなければならなりません。そういう原則論のようなことばかりを言っていますと、何だか偉そうな気がしますが、結局は人々の信仰を弱めたり、愛を冷やしたりするような忠告しかできないのです。

 イエス様の話は、譬え話としていささか極端なものになっていると思いますが、どんな人間も、この不正な管理人が現金と帳簿があっているかと追及された途端に窮地に立たされたように、「あなたの信仰と行いは帳尻があっているか? あなたの言葉と行いは帳尻があっているか? あなたの人への批判と自分の行いは帳尻が合っているか? あなたの不満の大きさと、神様と人から受けた恩恵の大きさは帳尻があっているか? ちゃんと計算書を提出しなさい」と神様に追及されたら窮地に立たされてしまうのです。身も蓋もない言い方でありますが、所詮、私たちの為す善い業や、愛の業というのは、どこか不正や偽善にまみれているものなのです。

 しかし、イエス様は、動機が純粋でないから駄目、やり方に偽善があるから駄目とは言わなかったのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とは、利己心や虚栄心や偽善というものが混じっていたとしても、それでもいいから、少しでも人から喜ばれるような事を、人から感謝されるような事をして、自分を愛してくれる友達を作りなさいということなのです。原理原則ばかりを称えて、何もしない人間より、その方がずっと賢い生き方であるということなのです。

 イエス様は、光の子とこの世の子らを区別なさっています。信仰に生きる者と、神なく望みなく生きる者とは、決して同じではありません。何よりも価値観というものが違ってきます。ちょっと抽象的な言い方になりますが、この世の子らが友にしたい相手はこの世の君であるサタンであり、光の子らが友にしたい相手は天の父なる神なのです。これは非常に大きな違いです。

 けれども、神様を友にするために必要なのは信仰です。しかし、信仰とは何でしょうか。きれい事を並べ立てていることではなく、神を敬い、人を愛して生きることなのです。ある人が、信仰とは泥の中に咲く蓮の花だと申しました。不完全で、破れの多い人間が、やはり不完全で、問題に満ちた世の中にあって、決して完全とは言えないけれども一生懸命に神様を敬い、人を愛することによって、神様に喜んでいただく花を咲かせることなのです。

 「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」

 泥で汚れることを気にしていたら、田植えもできません。私はイエス様が弟子たちの足を洗われたという話を思い起こすのです。イエス様は、私たちが足を汚しながら、手を汚しながら生きていくほかないことをご存知だったのです。そして、それでいいから、神様のために、人のために、できることを一生懸命にやりなさい。あなたがたの汚れた手や足は、私が清めるからと、あの洗足を通して語りかけてくださっているのではありませんでしょうか。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp