放蕩息子の譬え<3>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書15章11-32節
旧約聖書 詩編84編
まことの友
 今日は「放蕩息子のたとえ」の三回目のお話です。前回は、放蕩息子の回心ということをお話ししました。彼は、父親に財産の分け前を要求し、それを受け取るとそれが大事な嗣業であることも弁えずに他人に売り払い、大金を手にするや否や、父親から逃げ出すように遠い国に家出をしてしまいました。しかし、人間というのはどこに逃げ出しても自分が変わらない限り人生を変えると言うことはできません。彼も同じで、彼は手に入れたお金と自由をまったく無駄に使い果たしてしまい、気がついた時にはお金もなく、仕事もなく、食べるものもない状況に陥ってしまったのでした。

 しかし、彼にとってもっとも一番の欠乏感は何かというと、自分を助けてくれる友達の一人もいないという現実ではなかったでしょうか。16節に「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」とあります。羽振りのいいときには、きっと彼の周りには大勢の人が集まっていたことでしょう。しかし、それは本当の友ではありませんでした。

 聖書には、ダビデとヨナタンという有名な友情の物語があります。二人の友情について、聖書はこう語ります。

 「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(1サムエル18章1節)

 聖書で「魂」というのは、霊魂のようなふわふわとしたものではありません。心とか、精神というのとも違います。聖書で「魂」というのは、その人の存在そのもの、全人格的存在を意味します。友達というのは、お金や物で結びついたり、仕事の利害によって結びついたり、同じ趣味によって結びついたりする友達がありますけれども、真実に友達といえるのは人格と人格が引き寄せられ、愛し合い、結びつくものなのだというのです。分かりやすく言えば、どんな時にも一緒にいてくれる友であります。羽振りがいいときだけではなく、落ち目に成ったときにも、一緒にいてくれる。健康な時だけではなく、病める時にも一緒にいてくれる。喜びだけではなく、苦しみや悲しみをも一緒にしてくれる。それが本当の友だというのです。

 しかし、私たちは主に感謝しましょう。さきほど讃美でも歌いましたように、イエス様が私たちの真の友となってくださったからです。イエス様は、喜びの日にも悲しみの日にも、盛んなときにも衰えていくときにも、変わることのない友として、私たちを慰め、助け、励まし、共に歩んでくださるのです。

 今日の週報にレーナ・マリアさんのことを書かせて頂きました。レーナさんは両腕が肩から無く、左足が右足の半分しかないという重い障害をもって生まれました。しかし、かつては水泳選手として、そして今は歌手として素晴らしい活躍をなさっている御方です。レーナさんがそのように重い障害を持ちながらも、明るく活発に、何事にもチャレンジ精神をもって生きることができたのは、一つにはご両親の深い信仰に基づく愛があってのことでした。しかし、それだけではなく、これは週報では書かいてありませんが、彼女の生まれたスウェーデンという国が社会福祉に非常に進歩的な国であったということがあります。

 たとえばレーナさんの場合、幼稚園に入園から高校卒業するまで、公費でヘルパーがつけられました。このヘルパーさんが登下校や授業中でも、友達と遊んでいる時でも常に彼女の側にいて、洋服の着替えやトイレや、また遊んでいる時にも、いろいろと助けてくれる仕組みができているのです。それだけではなく、親とはまた違った精神的な支えともなってくれたようです。

 レーナにはアンナさんというヘルパーがつきました。アンナさんは、レーナさんが小学校に入る時、みんなと一緒にうまくやっていけるかどうか、いろいろと心配し悩みました。ヘルパーとはいえ一人の弱い人間ですから、いろいろ悩みながら、心配しながらレーナさんの助け手となる努力をしていたのです。

 そんなある日のこと、アンナさんは、イエス様の「空の鳥をみなさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは鳥よりももっとすぐれた存在ではありませんか」という言葉が心に響き、レーナを誰よりも一番愛して助けてくださるのは神様だということが分かって、心配事をすっかり神様に委ねたのでした。そして、レーナさんに対しても、「困ったときにはいつでもあなたと一緒にいてくださる親友を思い出しなさい。神様はレーナのベスト・フレンド。レーナの助け主ですよ」と祈ることを教えました。

 私たちも、自分が本当に小さく、心細い存在に思えたり、すべての人に見捨てられたような寂しさを覚えたりするときがあるかもしれません。しかし、一羽の雀さえ大切に思ってくださるイエス様が、私たちの本当の友達であるということを忘れないならば、イエス様の慰めと助けによって私たちは絶望から救われることでありましょう。
天に対する罪
 さて、聖書の話しに戻りますと、何もかも失い、自分には助けてくれる真の友の一人もいなかったという現実に気がついた放蕩息子は、そこではじめて目を覚まし、「自分はなんてくだらない生き方をしてきたのだろう」ということに気がつきます。

 この「気づき」ということが、私たちの人生においてとても大事なことになってくるのです。よく「目から鱗が落ちる」と言いますが、実はこの言葉の出典は聖書にありまして、キリスト教迫害の急先鋒であったサウロという人が、イエス・キリストに出会って自分の過ちに気づいた時に、「目から鱗のようなものが落ちた」と聖書に書かれてあるところから取られた言葉です。そして、サウロは今までの名誉も地位も、意地もプライドも、何かもかもかなぐり捨てて、一転してキリスト教の伝道者となり、その名もパウロと呼ばれるようになったのです。

 さて、放蕩息子の「気づき」におきまして見落としてはならないことは、「わたしは天に対して罪を犯しました」と言っていることです。自分のくだらない生き方を反省しただけではありません。お父さんに対して申し訳なかったと思っただけでもありません。天に対して、つまり神様に罪を犯していたのだということに気づいたというのです。

 よく色々な人が心配してくれていることをよそにして、「自分の人生だから好きなように生きる」という人もあります。しかし、人間というのはつながりの中で生きているわけですから、生きるにしても死ぬにしても自分勝手にすれば必ず人に心配をかけたり、悲しませたり、迷惑をかけたりすることになるのです。しかし、それ以上に、私たちのことを心にかけていてくださる神様がいらっしゃるということに気づくことが大事なのです。自分の人生とは言いますが、私たちに命を与え、その命を祝福し、私たちに幸せを与えようとしてくださっているのは神様です。その神様の愛を裏切るような生き方をしていたことに気づく、それが「天に対して罪を犯しました」という言葉なのです。

 そのことを、聖書は、「彼は我に返って」と言っていますが、それは本当の自分を取り戻すということです。逆に言えば、本当の自分というのは、神様に愛され、祝福されている存在であるということなのです。現実がそう思えないのは、自分が価値のないくだらない人間だからではなく、神様の愛を認めず、その祝福を拒むような勝手さの中に生きていたからなのだ、ということに気づくことが大切なのです。
父の愛
 さて、そのように我に返り、罪深い生き方を悔いて、お父さんのもとに帰ってきた放蕩息子は、思いも寄らぬ歓迎を受けます。

 「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」

 「まだ遠く離れていたのに」という言葉から、このお父さんが遠くからいつも息子のことを案じて胸を痛めていたということが想像されます。「走り寄って首を抱き」という言葉からは、息子を見つけた時の喜びの尋常ではない喜びが感じられます。イエス様は、あなたがたの天の父もこんな風に、あなたが帰ってくることを待ちわびており、あなたが帰ってくるならば、何一つ問うことなく、無条件に抱きしめてくださるのだということを教えてくださっているのです。

 「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」

 着物というのは私たちの裸を覆うものですから、象徴的に言えば私たちの恥を覆うものだと言うことができます。神様は私たちの罪深さや愚かさや過ちを追及して私たちに恥で真っ赤にしたり、真っ青にしたりさせるような御方ではありません。アダムとエバの裸を皮の衣で覆ってくださったように、またセムとヤフェトが酔っぱらって裸で寝ている父親の姿をみないように後ろ向きにちからより、そっと着物をかけてやったように、私たちの恥を覆ってくださる御方なのです。何をもって覆ってくださるのかと言えば、義の衣であるイエス・キリストを私たちに着せてくださることによってであります。

 また、指輪というのはその人の地位を証明するものでありまして、父親が息子に指輪をはめてやったのは、これは正真正銘の息子であるということを内外に保証するしるしを与えてくれたということです。また履き物をはかせるということは、当時、奴隷というのは裸足で生活させられていましたから、彼は僕ではなく自由人であるということ保証するためでありました。

 このように彼は本当はすべてを失って、もはや父の家には自分のものは何もないはずなのに、すべての罪を赦され、すべての地位を回復し、完全に回復させられたのです。それはただ一重に父親の愛によるものだったというわけです。

 みなさん、私たちもこのような愛を神様から戴いているのです。かつて私たちは神様を知らず、好き勝手に生きていました。今も、罪深い人間であるかもしれません。しかし、神様は私たちを常に子供達として愛し続けてくださっています。その愛を、私たちは知っているでしょうか。ぜひとも、この愛を知って、私たちも心から神様の子どもとして新しく生きる決意をしたいと願うのです。
放蕩息子の兄
 ところが、この放蕩息子にはお兄さんがいました。お兄さんは、いつものように畑仕事を終えて家に向かっていましたが、家の近くまでくると何やら賑やかな音楽や踊りの音が聞こえてきます。いったい何をしているのかと、下僕にわけを聞いてみますと、弟が無事に帰ってきたことを祝して宴が開かれていると言います。それを聞くや、お兄さんの心に不満と憤りがこみ上げてきました。

 弟が勝手に家を飛び出して、遊びほうけて身上を食いつぶしている間、お兄さんは、ずっとお父さんの家で真面目に働き続けていたのです。自分を犠牲にしてお父さんに仕えてきたと言ってもいいかもしれません。このお兄さんが、帰ってきた弟を叱りもせずに許し、家に入れたばかりか、祝宴まで開いているとはいったいどういうことなのか。これは正しいことなのか。お兄さんは憮然として家の中に入ろうとしませんでした。父親が出てきて色々と宥めてみますが、彼の憤りはおさまりませんでした。

 「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

 私は、このお兄さんの怒りは尤もなことだと思うのです。お兄さんは、悪くもない人を悪いと言っているのではありません。このお兄さんは被害者なのです。弟が勝手をしたためにずいぶんと我慢をさせられてきたに違いないのです。そういう弟が何の罰も受けないで、何のけじめもつけないで、ただ可哀相だからというだけで赦されていいのでしょうか。それでは愛はあるかもしれませんが、正義がないではありませんか。真面目に一生懸命に生きている人間には、それはまったく我慢がならないことなのです。私がお兄さんの立場であっても、きっと怒ることでありましょう。

 この譬え話は、多くの人が放蕩息子と自分を重ね合わせて読みます。その方が分かりやすいし、私もそうです。しかし、私たちは放蕩息子の人生を生きているばかりではなく、しばしばこのお兄さんの立場を生きていることもあると思うのです。たとえ、このお兄さんほど真面目に生きていたと言えない人間であったとしても、それにも関わらず自分を被害者だと感じたり、自分だけが我慢をしていると思ったり、不公平だと思ったりしたことはないでしょうか。人が愛され、祝福されるのを見て、「何であんな身勝手な人が」と妬んだことがないでしょうか。そういう人ならば、このお兄さんの気持ちがきっとよく分かると思うのです。

 そして、そういう気持ちから考えると、このお父さんの弟息子に対する愛はまったく異常なものに思えてくることがあるのです。素晴らしい愛と感動するよりも、間違った、偏った、分別のない愛に思えてくるのです。しかし、それも当然のことではないか、なぜなら、あの弟は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかったのだから、と言うのでした。

 私は、怒りは尤もだと思いながらも、自戒も含めて言えば、このお兄さんには二つの過ちがあったのではないかと思います。

 一つは、お兄さんの考え方は、息子としての考え方ではなく、僕としての考え方であるということです。僕ならば、よく働いた者が祝福されて、怠けたり逃げ出した者が罰を受けるというのは、まったく当然です。きっとこのお父さんもそのようにしたでありましょう。しかし、彼は僕ではなく息子なのです。それはよく働いているから息子なのではありません。それは、父親にとって働こうが怠けようが変わることのないことなのです。そのことを忘れていたということが、このお兄さんの間違いの一つであったと言えましょう。

 もう一つは、自分の中にある悪い部分、自分もまたお父さんの愛と赦しの中にあるのだということを忘れていたことです。この譬え話ではお兄さんと弟が非常に対照的に描かれていますが、実は世の中には善人と悪人というような二種類の人間がいるのではありません。ある人は「人の心の中には多少とも善人が住み、同じ程度で悪人も住んでいる」といっています。ですから、善人も、悪人もよくつき合ってみると「それほどでもない」のです。善人であっても何か醜い部分が見えてしまったり、悪人であっても何かきらりと光る魅力的な部分をその中に見つけたりするということは、皆さんにも経験があるのではないでしょうか。

 大切なことは、自分の中の善人と悪人とも、両方を無視しないでうまくつき合うことができることなのです。自分は正しいとか、間違いがないとか言う人は、自分の中にある悪人を無視しています。だから、どんなに立派なことをしていても、ファリサイ派の人間のように謙虚さのない鼻持ちならない人間になってしまうのです。逆に、自分は極悪人だと開き直っている人も問題です。どんな人も神様が愛をもって造られた貴いものを持っています。それを無視して、自分は悪人だと開き直ったり、卑下したりするのは、神様への冒涜なのです。ですから、自分の中には善人だけではなく悪人も住んでいることを、悪人だけではなく善人が住んでいることを、自覚をもって生きるということが大切なのではないでしょうか。

 この放蕩息子の譬え話というのは、第一回目のお話しの時に申しましたが、本当は放蕩息子の話ではなく、二人の息子を持つ父親の話なのです。一人は一見真面目にそつなく生きています。反対にもう一人は自分の弱さ、愚かさのゆえに自堕落な生き方をしています。しかし、どんな生き方をしていようと、自分の子であるがゆえに変わることのない愛をもって愛し続けている父親の話なのです。

 そして、それは私たちを造り、愛し、ささえて下さっている天の父なる神様のお話なのです。みなさんは、このお話を読んで弟息子に自分を重ねたり、兄息子に自分を重ねたりするかもしれません。でも、本当はどちからではなく、両方の姿が私たちのうちにあるのです。そのような私たちが、神様の愛と忍耐と恵みによって祝福されていること覚え、感謝をいたしましょう。
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