放蕩息子の譬え<2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書15章11-32節
旧約聖書 詩編145編
前回の復習
 今日は「放蕩息子のたとえ」の二回目のお話です。ある父親に二人の息子がおりました。長男は真面目で優等生タイプの人間でした。しかし、次男は奔放で飽きっぽい遊び人タイプの人間だったようです。

 ある日、次男はお父さんにこう言います。「お父さん、あなたが死んだ時にもらえる遺産を、今分けてください」お父さんは不愉快だったと思いますが、だまって二人に遺産を分けてやりました。遺産と言っても、農業や牧畜を生業としていたようですから、土地や家畜などの名義を分けてやったということでありましょう。ところが、次男坊は自分の名義になったとはいえ、先祖から受け継いできた大事な土地や家畜をさっさと他人に売ってしまい、お金を手にすると家出同然に遠い国へ旅立ってしまったというのです。

 前回は、彼のこの家出に焦点を絞ってお話しをしたのです。遠い国に旅立ったということは、物理的な遠さだけではなく、内面的な遠さを意味しています。つまり、彼はお父さんやお兄さん、あるいは田舎での暮らし、農業や牧畜という辛い仕事から逃げ出したかったのです。少しでもそこから離れて別世界に行きたかったということなのです。

 誰にでも、このような誘惑にかられることがあるのではないでしょうか。ある人はこう言います。「うだつが上がらないのは職場のせいだ。上司が悪いんだ。職種が合わないんだ。仕事を変わればきっと何もかもうまくいく」また、ある人はこう言います。「こんな人と結婚したのが間違いだったのだ。もっと違う人と結婚すれば、わたしはもっと幸せになれる」 他にも「親が悪い」「家が悪い」「学校が悪い」「先生が悪い」「教会が悪い」・・・確かに、自分を取り巻く環境に問題があることもありましょう。改善できることは勇気をもって改善する努力が必要です。しかし、何もかも問題のない世界というのはないのです。

 ですから、その問題に満ちた世界の中で、自分がどうやって生きていくのか、自分の生き方や考え方の問題ということを忘れてはならないでありましょう。ラインホルド・ニーバーという人の有名な祈りがあります。

 「神よ、変えることのできないものを受けいれる潔さ、変えることのできるものを変える勇気、そして両者の違いを見分ける知恵を、私たちにお与えください」

 この祈りは、私たちに必要なこと、つまり神に祈るべき事はなにか、それは現実から逃げ出すことではなく、現実にきちんと向き合って生きるための勇気や柔軟性であるということを教えてくれるのです。

 そうでなければ、どこに逃げ出しても結局は同じ結果になるからです。この次男坊もそうなのです。「下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」と書かれています。彼はお金と自由を手に入れましたが、それを無駄遣いしてしまったというのです。

 この点につきまして、先週は、彼が無駄遣いをしてしまったのは、単に財産だけではなく、神様によって造られた特別な存在である自分自身というものを傷つけ、損ない、自分をまったく無価値なものに貶めてしまったのだということをお話ししました。

 これは2000年前に、イエス様がお話し下さったお話しであります。けれども、決して昔の話でありません。それどころか、これは現代人に対する預言ではないかと思えるほどに、私たちの問題を鋭く指摘していると思うのです。今日はこの点から、お話しを進めていきたいと思います。
精神的飢餓
 1980年、WHOは、人類はすばらしい偉業を成し遂げたことを宣言しました。それは天然痘の根絶です。天然痘は、エジプトのミイラの中にもその痕跡が見られるという、大昔から世界中の人間を苦しめてきた恐ろしい病気でした。しかし、1796年に種痘という予防方法が発明されまして、それから約200年をかけてやっと完全な根絶に成功したのでした。

 ちょうどその頃、もう一つ素晴らしいニュースが世界を駆けめぐっていました。それはマザー・テレサのノーベル平和賞の受賞です。マザー・テレサは、天然痘の根絶に関連してこのようなメッセージを語りました。

 「世界にはまだ最悪の病が残っています。それは天然痘でもなければ癌でもありません。インドに蔓延しているハンセン病でも結核でもありません。それは生きていなくても同じだと考える精神的な孤独、精神的貧困と呼ばれる病気です」

 まったくその通りです。今日の私たちは一見豊かで文明的な満喫しているように見えます。しかし、本当に豊かな人間になっているのでしょうか。日本では年間3万1千人の自殺者が出るといいます。一口に自殺といっても原因は色々あります。ただ非常に現代的な問題だなと思うのは、過労自殺といわれるものです。学校の校長先生や、お役所や大企業の管理職などの自殺がしばしば報じられています。ニュースで報じられるのはごく一部ですが、長時間労働による精神的疲弊や、過剰に重い責任を科せられた負担が原因となって自殺に追い込まれる人が増えているのです。

 これは単に個人の強さとか弱さの問題でしょうか。そうではありません。この世の中の仕組みや目的が、どこかで歪んでしまっているのです。世の中というのは、人間の願望を叶えようとして、試行錯誤をしながら作りだしてきたものだと思います。それだったら、人間にとって良いものになるはずだと思うのです。しかし、実際は世の中が高度に発展すればするほど、逆に非人間的で住みにくい世の中になってしまっているような気がするのです。

 あるお医者さんがマザー・テレサの所を訪ねてこう言ったそうです。「ここには見るべき医療はないが、真の看護がある」この言葉の意味は、日本の病院には設備もあり、薬もあり、知識と技術を身に付けたお医者さんや看護士さんがたくさんいるけれども、そういう巨大化した病院には失われているものが、マザー・テレサのところにはあったということです。それは何でしょうか。死にかけている病人の手をしっかり握って、その名前を呼んでいる姿。脱脂綿に水を含ませて唇にもっていく優しい手、優しいまなざしだというのです。

 世の中に失われているものも、これと同じなのではないでしょうか。携帯電話は非常に便利な品物です。しかし、ペースメーカーをつけている人のために電車の中では電源をきってくださいと書いてあるのに、平気で携帯電話をいじっている人々がいます。人への思いやりというものが欠けてしまっているのです。だいだい優先席などというものをわざわざ設けなくてはならない世の中というのが、優しさや思いやりのない世の中を象徴しているとも言えます。そんなものがなくても席を譲り合うことができるのが、健全な人間の世の中なのではないでしょうか。一人一人を大切にできない世の中に生きていたら、自分の大切さというものが分からなくなってしまう人が出てきてもまったく不思議はないのです。

 問題は、人間の欲望を叶えようとするばかりの世の中を作ってしまったことにあります。そういう世の中は、みんなが自分のことばかりを追い求め、人への優しさを損なうばかりになるのです。いったい優しさのない世の中に、本当の安らぎがありましょうか? 安らぎのない世の中に、本当の幸せがありましょうか? お金があろうと、名誉があろうと、こういう世の中の人間は本当の安息というものを持つことができない世の中なのです。

 イエス様のたとえ話の中では、放蕩息子は飢饉に遭い、しかも「食べ物をくれる人は誰もいなかった」と書かれています。ひもじいだけではなく、誰も助けてくれなかった、つまり誰も彼を愛していないし、必要としていないという精神的な孤独、精神的な貧困、精神的な飢饉が、彼を絶望の淵へと追いつめているのです。
本心に立ち帰る
 しかし、人間には絶望もある意味で大事なことであります。絶望を経験すると、自分がいかに弱く、無力で、知恵のない、惨めな人間であるかということが身に沁みて分かります。しかも、それは何かを失ったから急にそうなったのではなく、はじめからそういう存在だったのだけど、今まではうまく誤魔化してきたに過ぎないのだということが分かるのです。

 誤魔化しというのは、自分の惨めさを忘れさせるような諸々のことです。ショッピングもそうですし、趣味もそうですし、旅行もそうですし、仕事でも、ボランティアもそうです。それ自体が悪いことではありませんが、それが自分を誤魔化していることがあるのです。

 マザー・テレサは、ノーベル平和賞を受賞した後、通常行われるパーティーの中止を申し出ました。そして、その費用をもらって2000人の人々にクリスマス・ディナーを食べさせたのです。本当に素晴らしい行いです。しかしそれにも関わらず、彼女は自分の胸に手を当てて考えてみると、私が愛していたのは他人ではなく自分自身ではないか、人に与えると思っていたけれど自分を受けていたのではないか、貧しい人の友となろうとしていたけれど思い上がりにふくれあがっていたのではないか、こういう誤魔化しから自分を解放してくださいと、次のように祈っているのです。

 主よ、私は信じ切っていました。
 私の心が愛に漲っていると。
 でも心に手を当ててみて、
 本音に気づかされました。
 私が愛していたのは、他人ではなく、
 他人の中に自分を愛していた事実に。
 主よ、私は自分自身から解放されますように。
 主よ、私は思い込んでいました。
 私は与えるべきことは何でも与えていたと。
 でも胸に手を当ててみて、
 真実がわかったのです。
 私の方こそ与えられていたのだと。
 主よ、私が自分自身から解放されますように。
 主よ、私は信じ切っていました。
 自分が貧しい者であることを。
 でも胸に手を当ててみて、
 本音に気づかされました。
 実は思い上がりと妬みとの心に、
 私がふくれあがっていたことを。
 主よ、私が自分自身から解放されますように。

 もう少し卑近な例を話をしますと、三浦綾子さんの本に、ボーリングに打ち込んでいて、毎日が楽しくて楽しくて仕方がないという青年の話があります。「むなしくない?」と聞いても、「ちっとも」と晴れ晴れとして答えていた彼が、ある日、肩を痛めてボーリングができなくなってしまいます。するとたちまち暗い顔をして「毎日が退屈でならない、空しくてならない」としょげかえってしまったというのです。三浦さんはこの青年を見て、「これが人生の真相だ、彼は人生の空しさをボーリングで紛らわしていただけなのだ」と感想を語っています。

 このように一時の楽しさや熱中に自分を忘れていられる間は分からないけれども、健康を損ねたり、財産を失ったり、パートナーを失ったり、そんなことを楽しんでいられないような事態が発生すると、惨めな自分がはっきりと見えてくるのです。そのように誤魔化しが聞かなくなったときに見えてくる自分、それが本当の自分の本当の姿なのです。

 絶望することも大事だというのは、誤魔化しが利かなくなることによって、はじめて誤魔化しのない自分の姿を見つめ、誤魔化しのない生き方への道が開けてくるからです。そういう意味では、絶望は希望への入り口なのです。イエス様のお話しではこのように言われています。

 「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」

 「彼は我に返って」と言われていることが大事です。偽りの人生を生きていたことに気がついて、本当の自分に立ち帰るということです。そして、それは、自分が逃げるように飛び出してきたわが家に帰ることでもありました。すると、そこには自分のすべての過ちをゆるし、抱きしめて、新しい着物や履き物を与えてくれる素晴らしいお父さんがいたのです。

 私たちも、本当の自分に立ち帰るということが必要なのです。それはただ惨めな自分に気付くということだけではありません。それだけであったら、ただの絶望で終わってしまいます。しかし、その絶望というのは、そもそも自分が本当にいるべき場所から逃げ出してしまった結果なのですから、その絶望から自分の本当にいるべき場所に立ち帰るということが必要なのです。別の言い方をすれば、神様のもとに立ち帰るということです。

 アウグスティヌスは、神様に向かって「あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになりました。ですからわが魂はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ません」と祈りました。これは本当のことです。たとえ絶望をしてでも、人間はこのことに気づかなければなりません。そして、このことが本当に分かったとき、人間は本心に立ち帰ったと言えるのです。そして、その次に来るのが、本当に愛に満ちた、、恵みに満ちた神様との出会いなのです。

 今回は前回の補足のような話しになってしまいました。しかし、この物語は、ある意味で救いとは何か、福音とは何かということを非常によく表している素晴らしいお話しなので、次回もまたこの続きをお話しして参りたいと思います。
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