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今日、お読みしました譬え話は、昔から「放蕩息子のたとえ」と言い習わされておりまして、数あるイエス様の譬え話の中でも最もよく知られたものの一つとなっています。しかし、「放蕩息子のたとえ」という言い方がいいかどうかは、よく注意したいと思うのです。つまり、果たして「放蕩息子」のこの譬えの中心があるのかどうかということです。
実は、この譬え話には放蕩息子だけではなく、そのお兄さんと、これら二人の息子をもつ父親が登場します。それぞれに興味深い人物像をもっているのですが、この譬え全体の中で中心となっているのは、放蕩息子でもなく、まじめな長男でもなく、父親だといえます。ですから、この譬え話は放蕩息子の話ではなく、「二人の息子をそれぞれに愛しておられるお父さんの話」という方が正しいのではないかと思います。昔から「放蕩息子のたとえ」として知られていますから、それはそれでいいのですが、内容的には父親が中心なのだということを理解しておいてほしいと思います。
さて、比較的長い譬え話ですから、最初に簡単に内容をご説明しておきたいと思います。ある父親に二人の息子がありました。しかし、ある日、次男坊は父親から遺産の分け前(生前分与)を受け取って遠い国へと出ていってしています。そして、お金と自由を得た勢いで放蕩の限りを尽くし、とうとうすべてを失ってしまうのです。墜ちるところまで墜ちたとき、彼は初めて自分の過ちに気づきます。そして、合わせる顔がないと思いつつも、謝罪の気持ちと救いを求めて、かつて飛び出したお父さんの家に帰ってきたのでした。
彼はどんなに叱られても仕方がないと思っていたでありましょう。しかし、父親は帰ってきた息子をしっかりと抱きしめて、「死んだ息子が生き返った」と喜んで、盛大な祝宴を開いてくれました。この譬え話で最も感動的な部分がここにあります。
ところが、それを聞いた長男は釈然としない気持ちにかられます。自分は何年もお父さんの言うとおりに忠実に働いてきたけれど、あんな風に祝宴を開いてもらったことは一度もないことを思うと、怒りのようなものさえこみ上げてきます。この長男の様子を聞いた父親はすぐにとんで行き、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、長男を宥め、二人の息子がそれぞれに父の愛を受けていることを諭したというのです。 |
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さて、いくつかのポイントがあると思うのですが、まず家を飛び出した次男の話から考えて参りたいと思います。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」(11-13節)
当時ユダヤの国では、長男は他の兄弟の二倍の遺産を受け取る権利がありました(申命記21:17)。逆に言えば、弟はどんなにがんばっても、お兄さんの半分しかもえなかったのです。「それならば」ということで、弟はお父さんに遺産の生前分与を願い出ました。お父さんの家にいつまでいても、どうせお兄さんを越えることはできないのですから、いっそ独立して、自分の力を試してやろうという野心があったのかもしれません。
しかし、それだけではなかったようにも思えます。彼は要するに今までの生活から抜け出し、逃げ出したかったのではないでしょうか。この家族は農業や牧畜を営んでいたようです。したがって財産というのはお金ではなく家畜や土地だったと思います。しかし、弟はそれで牧畜や農業をやるつもりはさらさらありませんでした。何日もしないうちにそれを売り払ってお金に換えてしまいます。そして、お金を手にすると、荷物をまとめてさっさと家を出てしまったというのです。
「遠くの国に旅立ち」と書かれています。これは距離的な遠さだけではなく内面的な遠さ、つまり少しでもお父さんの影響の及ばないところへ行こう、今までの生活とまったく違ったところを目指して行こうという、この次男坊の気持ちを暗示していることだと思うのです。
土まみれ、汗まみれになって働く牧畜や農業のきつい労働を嫌い、もっと都会的でクールな仕事をしたいと思ったのかもしれません。あるいは単純にお父さんの厳しさから逃げ出したいとか、お兄さんと比較される生活から逃げ出したいとか、そういうことだったかもしれません。いずれにせよ、今の生活には自分の幸せはないと思い込み、逆に都会に行けば簡単に素晴らしい生活が開けてくると安直に信じていたのだと思います。
カール・ブッセの「山の彼方」という有名な詩があります。
山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。
ああ、我ひとと尋め行きて、涙さしぐみ帰り来ぬ。
山のあなたになお遠く、幸い住むと人の言う。
今の生活から抜け出し、逃げ出して、どこか遠い国へ行けば幸せがあるのではないかという淡い希望は誰にでもあるのではないでしょうか。夢や希望を持つことは大切です。それがどんなに遠くにあろうとも、くじけることなく、たゆむことなく、前進し続けるということは素晴らしいことです。そのために故郷を捨てて、遠い国に旅立つことも意味のあることだろうと思います。
しかし、単なる現実逃避であってはならないと思うのです。現実というのはどこにいっても必ず陰のようについてくるのでありまして、それから逃げることはできないのです。しかし、現実を乗り越えて新しい現実に生きる者となることはできます。
たとえば以前にもお話ししたことがあります田原米子さんという方は、若いとき人生のむなしさを覚えて鉄道に飛び込み自殺を図りました。幸い一命を取り留めましたが、両足と左腕を切断されてしまいました。残ったのは右腕と指三本だったのです。果たしてこれを幸いといっていいのでしょうか? 両手両足がないまま一生を生きるよりも、そのまま死んでしまった方がずっと救いがあったのではないかと思うでありましょう。彼女自身、こんな状態では生きていけないと、ますます絶望を深くして、その後も何度も自殺を図ろうとしたといいます。
しかし、そんな絶望のどん底にある彼女のもとに、キリスト教の宣教師が訪れるようになりました。最初は聞く耳を持たなかった田原さんですが、ある時、その宣教師が田原さんにキリストの復活の話をしました。それを聞いた時の田原さんの気持に変化が起こります。田原さんの言葉をそのまま引用してお読みします。
「ところが、『そのキリストは、三日目に墓からよみがえったのです』と聞かされた時『ん?』と思った。今までも宗教の話は聞いたことがあったが、死人が復活したなんて聞いたことがない。『あなたがこのことを信じて受け入れた時から、神の愛が心の中にあふれ、新しい命が注がれて生きていくことができるのです』。こう言われた時に思った。この人たちは生き生きしていて、心から人生を楽しんでいるみたいだ。キリストを信じることであんなふうになれるものだったら、私も信じてみようか。もし、神が本当にいるのなら、死からよみがえるくらいたやすく出来るだろう。神がいるのに、知らずに死んでいくとしたらつまらない。キリストは命を懸けて私を愛していて、信じる者に新しい命を与えると言っている。自殺するのはいつでもできるのだから、キリストが神かどうかわからないけれど、この人たちの言うことが嘘か本当か賭けてみよう。そう思って、生まれて初めてお祈りをして眠った翌朝、窓から差し込む朝日も、すべての情景が輝いて見えたことに驚いた。それまでは指が3本しかないと思って絶望していたのに、3本も残っていることに気が付いた。その指で字が書けた時、幼児のように嬉しかった。その日、病院内で会う人ごとに"おはようございます"と自分の方から無意識に挨拶していた」
現実というのは目に見える現実と、目に見えない現実があるのです。目に見える現実というのは両足と左腕の切断、そして残されたのは右腕とたった三本の指ということです。しかし、田原さんは、それだけではなく目に見えない現実、つまり神様の存在、イエス様の愛を信じてみようと思った。するとその途端、目に見える現実に新しい光が差し込んだのです。「それまでは指が3本しかないと思って絶望していたのに、3本も残っていることに気が付いた」というように、絶望が希望に変わってくるのです。そして、現実と向き合って、現実を乗り越えて、新しい現実に生きる者に変えられていったのです。
だいぶ話が逸れてしまったように思いますが、お父さんの財産をもって遠い国へ旅立った次男坊にも、似たような経験が起こります。最初は現実逃避だったと思うのです。いやいやでたまらないお父さんの 家から逃げ出したいという一心だったのです。しかし、カール・ブッセの詩のように「涙さしぐみて」戻ってきます。そして、そこで本当に素晴らしいお父さんの愛にふれ、彼はあんなに嫌いだった家にいることを本当に幸せに思ったに違いありません。それは家が変わったからではありません。お父さんが変わったからでもありません。彼自身が変わったのです。 |
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さて、少し先を急ぎすぎましたが、もう少し丁寧にその辺りを見て参りたいと思います。やっとお父さんの家を離れることができたとき、彼は目の前に自由で新しい世界が限りなく広がっていると思ったに違いありません。しかし、現実から逃げ出せば、簡単に幸せを手に入れることができるのではないことは今お話ししたとおりです。
彼は「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」と言われています。酒や女遊び、賭博などにうつつを抜かして、財産を使い果たしてしまったということです。これは、現実と向き合って生きようとしない彼の生き方からして、至極当然のことだったと思います。
ところで、この「財産を無駄遣いしてしまった」という言葉が意味深なのです。「財産」は、原語では「本質」とか「存在」という意味をもった言葉です。つまり、単にお金を無駄遣いしたということではなく、自分自身というものを無駄遣いしてしまった、自分を大切にせず、自分を傷つけ、自分を損なうような生き方をしてしまったということをも思わせるような言葉なのです。
逆に自分を大切にする生き方とは、どういう生き方なのでしょうか。神様が私たちに与えてくださっている賜物があります。たとえば健康であるとか、能力であるとか、家族であるとか、自分が築きあげたものではないけれども、自分に属しているものというのは、すべて神様が私たちに与えてくださった財産であり、またそれは私たちの本質でもあるのです。それを、私たちの人生の資本として、財産として、大切に、つまりそれを与えてくださった神様の御心に添うような形で、有効に用いていくということが、自分を大切にする生き方に結びついていくのではないでしょうか。しかし、彼は「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」というのです。
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こうして、何もかも失って困っているところに、追い打ちをかけるように飢饉がおそいます。
「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」
空腹で満たされない人生、家畜にも劣る惨めさ、誰も助けてくれる者のない孤独、彼は本当に惨めな人間となってしまいます。
最近、イラクの人質事件に関連して「自己責任」ということが言われています。自己責任というのは、要するに自分で後始末をつけなさいということです。みなさんがどういう意見をお持ちか分かりませんが、私は「自己責任」というのは大事だと思うのです。放蕩息子が何もかも失って惨めな人間になりさがってしまうのは、まったく自己責任としかいいようがありません。自分が悪いのだから、自分で後始末をしなさいということが、当たり前なのです。
しかし、私などは「自己責任」だと突き放されてしまったら、本当に救いのない人間になってしまうなと痛感します。ところが、こんな者をも哀れんで、なおも救いの手を差し伸べてくれる方がいる。それが、天の父なる神様であるということなのです。イエス様はそのことをこの譬え話で教えてくださろうとしているのです。
今日はここまでにしておきます。次週、またこの譬え話からご一緒に学びましょう。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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