見失った羊の譬え
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書15章1-7節
旧約聖書 エゼキエル書34章11-16節
大切なものを見出す喜び
 今日はこの礼拝で伊藤文さんの洗礼式が行われました。教会は洗礼を安売りはしません。伊藤さんにとって、洗礼を受けるということは人生の一大決心であるはずでありまして、そうであればこそ教会は、この姉妹を心から祝福し、この洗礼を授けたのであります。

 教会学校に、この春小学校を卒業したサキちゃんという女の子がいます。私は、彼女が最初に教会に来た日のことを非常によく覚えているのです。最初に教会に来た時、サキちゃんは小学校2年生でした。午後には餅つき大会がありました。その餅つき大会の最中、サキちゃんは私の側に寄ってきて、「ねえ、教会って一生行くの?」と聞くのです。この子は何でこんなことを聞くのだろうかと、ちょっと不思議に思いながら、「そうだよ、死ぬまで行くんだよ」というと、サキちゃんはとてもうれしそうな顔をして、「じゃあ私、これからずっと教会に行く」と元気いっぱいに答えたのでした。

 私は不意をつかれたような思いでした。「教会って一生いくの? じゃあ、私は教会に行く」という理屈が、まさか小学校2年生の女の子の口から出てくるとは思わなかったのです。ですから、私は子供たちを教会に誘うときにはいつも「教会って楽しいよ。行事もたくさんやっているよ。先生たちも優しいよ」と誘っていました。けれども、そうやって楽しさだけを与えようとして教会に子供を集めていたら、やがて5年生や6年生になってもっと他に楽しいことがいっぱいできた時、子供達が教会を離れていってしまうことは仕方がないことかもしれません。

 教会というのは、私たちが人生の一切を携えて神様と出会う場所です。教会にあるのは楽しさだけではありません。生きる喜びも生きる辛さも、善い心も悪い心も、人生の希望も失望も、すべてのことを携えて神様に祈り、すべてを赦して清めてくださる神様の愛に触れ、新しい人間として生まれ変わって御心に生きる者とされていく場所なのです。ですから、教会には卒業はありません。神様の御許に帰っていくときまで、私たちは教会に連なり続け、神様と共に人生を生き続けるのです。

 「教会って一生いくの? じゃあ、私は教会に行く」といった小学校2年生のサキちゃんがそれだけの理屈を考えていたとは思えませんが、楽しさだけではない何か、重みのある大切なものが教会にあるということを、子供ながらに発見をしたのではないでしょうか。それが「教会って一生いくの? じゃあ、私は教会に行く」というサキちゃんの言葉だったのではないかと思ったのです。

 教会というのは人生の一切を携え神様と出会う場所だと申しましたが、そういう意味では、伊藤さんは、今日、人生の主なる神を見出したのです。もちろん、突然今日見出したというわけではありません。一生懸命に教会に通われ、そして毎週月曜日の夜に赤ちゃんを抱っこしながら信仰入門のための勉強会勉強をされました。そのような熱心な求道生活を経て、人生の主なる神を見出したと言える日に漕ぎ着けたのであります。
見失った羊のたとえ
 しかし、今日イエス様が私たちに教えてくださるのは、洗礼の恵みに与るということには、熱心な求道生活の末に神を見出したという人間の思い以上のことが行われているのだということなのです。イエス様は一つの譬え話をもって、そのことを私たちに分かりやすく教えてくださいます。

 羊飼いが野原で100匹の羊を飼っておりました。イスラエルにおいて羊というのは非常に大切な家畜でありました。ところが、羊飼いが羊を数えてみますと99匹しかいなかったのです。何度数えても1匹足りません。羊飼いは慌てて見失った1匹の羊を探しに行きました。99匹は野原においたまま、羊飼いは見失った羊を見出すまで決して諦めることなく捜し回りました。そして、とうとう羊を見つけだしたのです。羊飼いは喜び、羊を抱き上げ、担いで家に連れて帰りました。そして、その喜びを友達や近所の人たちに話して回ったというのです。

 100匹の羊とは、神の子供らのことです。羊飼いとは、神の子供らを養い育て給うイエス様です。しかし、1匹の羊がそこから迷い出てしまった。羊飼いであるイエス様は、一生懸命に見失った羊を探し歩き、ついにこれを見出して群に戻してくださったということが言われています。この譬えで語られているのは、あなたがたの熱心さが神を見出したのではなく、神の熱心さがあなたがたを見出し、そして神様の家である教会に連れ帰ってくださったのだということなのです。

 イエス様はこのような譬えをお話しになったのには、一つの背景がありました。1-3節にこう記されています。

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」

 徴税人というのは、同じユダヤ人でありながらローマの手先となって人々から税金を取り立てていた人たちでありました。しかも、無法に取り立てて私服を肥やすのが常でありましたから、売国奴として人々から嫌悪されていた連中です。

 それから罪人というのは法律上の犯罪者というよりも宗教上の理由で罪人とみなされた人たちです。宗教戒律を守らない人とか、売春婦とか徴税人、冒涜者であるとか、障碍をもって生まれてきた人、精神病の人、重い皮膚病の人も神様の罰を受けている罪人とみなされました。それから、外国人も神様を信じない人として罪人とみなされていました。

 罪人とみなされるということはユダヤ人のコミュニティーから排除されるということで、こう人たちとつき合う人々もまた罪人の仲間だとされたのでした。ところが、イエス様はこういう人たちを決して差別なさらなかったのです。どんな人にも分け隔てなく神様の教えを語り、神様の愛と救いを伝えました。ですから、今まで宗教的には見捨てられた人々であった者たちは、心からイエス様を慕い、イエス様のお話しを聞くことを楽しみしていたのです。

 ところが、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、そういうイエス様と罪人たちとの交わりを苦々しく思っていたというのです。彼らは一点一角までも厳密に律法を尊び、徹底した律法の実践をもって人々から尊敬されていた人々です。しかし、それだけに罪人たちには厳しくありました。罪人を罪に定めることによって、自分たちの義を保持しているようなところがあったのです。ですから、イエス様が罪人たちと分け隔てなくつき合っているのを見て、本当に汚らわしいことをしていると思ったわけです。

 それに対してイエス様が話されたのが、この見失った羊の譬え話です。あなたがたは自分の努力や熱心によって神様を見出したと思っているかもしれないが、本当はそうではないのだ。神様の熱心があなたがたを探し求め、見出したのだということをイエス様は教えてくださっているのです。

 クリスチャンも同じです。私たちが真の神様を知っているということはまぎれもない事実です。しかし、素晴らしいのは私たちの知恵や熱心や努力ではありません。大切なものを見出そうとして、それを手に入れようとして、一生懸命に努力をし、頑張って生きている人は、クリスチャンではなくてもたくさんいます。努力や熱心という点で比べたら、私たちなど恥ずかしく思うぐらいです。

 けれども、そのような努力においても、熱心にもおいて足りないような者にさえ、神様の大きな愛が注がれているのです。その大きな愛をもって、イエス様は世に来てくださいました。そして、神様の失われた羊らを見出し、神様のもとに連れ戻すために、熱心に探し求め、尋ね歩き、私たちを見出してくださったのです。讃えられるべきは、この神様の愛、イエス様の熱心さなのです。
ひとりの重さ
 イエス様は「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」と仰いました。何か当たり前のようにさらりと言ってのけておられますが、これはよく考えてみますと、決して誰にとっても当たり前という話というわけではありません。

 たとえば「99匹を野原に残して」と言われています。もしかしたら、1匹を捜しているうちに99匹が狼に襲われるかもしれませんし、その中からまた迷い出す者がいるかもしれません。そう考えたら、ここで99匹と1匹を秤にかけて、どちらが大切かと考えるのではありませんでしょうか。そして、99匹を守るために1匹を犠牲にするという選択肢だってあるだろうと思うのです。

 しかし、真実の愛においてはそのような選択肢はありません。当然、99匹を野原に残してでも1匹を探しにいくだろうと言うのです。これが商売ならば話は別です。当然、99匹を守るでありましょう。あるいは99匹に勝る1匹であれば、99匹を置いて1匹を捜すということもあるかもしれません。しかし、愛の問題として考えた時には、決して1匹よりも99匹の方が大切だとは言えないのです。100匹すべての羊が、その一匹一匹がかけがいのない価値をもっていて、どの1匹とて決して失ってはならない羊だということなのであります。

 それから、「見つけだすまで捜し回る」ということが言われています。これも決して当たり前とはいえないのでありまして、そこまでして探し求めるものというのは自ずと限られてきます。それは本当に失っては成らない大切なものでなければなりません。しかし、それだけではなくて、必ず見出すことができるという希望がなければ、このように見つけるまで捜し回るということはできないでありましょう。

 この見失った羊の譬えは、イエス様は私たち一人一人を数では計れないかけがいのない存在として愛してくださっている。自分自身のように私たちを愛し、私たちの一人でも失うということを耐えられない悲しみとしてくださる。そして、私たちがどこに遠く離れていようとも、複雑なところに迷い込んでいようとも、他の人がみな失望していても、決して失望せず、忍耐をもち、希望をもって、見つけるまで探し続けてくださる。このような大きな大きな愛について語ってくださっているのです。そして、そのようなイエス様の愛の根本にあるのが、造り主なる天の父なる神の愛なのです。イエス様は、神様の失われた羊を一匹残らず見つけだして、神様のもとにお返しするために世にきてくださった真の羊飼いなのです。

 羊というのはたいへんな近眼なのだそうです。山羊などは高いところに立って遠く見渡し、自分で良い草のあるところが捜したりするそうですが、羊というのは下を向いて目の前の草を無心に食べるだけだそうです。だから知らない内に群から離れて迷ってしまうということもありますし、一度迷ったら自力で帰るということができないのです。

 私たちも羊によく似ているのではないでしょうか。自分の目の前にあることだけしか見えません。今という時を精一杯生きるということはたいへんいいことなのですが、どこに向かっているかも知らないでがむしゃらになっていてもどうしようもないのです。たまには山羊のように人生を少し高いところから見渡して、自分のいる場所を確かめたり、自分の進むべき方向性というものを見極めるということが必要だと思うのですが、私たちは本当に自分の行き先というものを自分の目で見極めることができるのでしょうか。私たちはやっぱり山羊ではなく、羊なんだと思うのです。

 そして、だからこそ羊飼いが必要です。私たちの人生を大きな所から導いてくれる羊飼いがいなければ必ず自分ではどうすることもできない所へ迷い込んでしまうのです。イエス様は、私たちのそのような弱さを知り、また危険を知り、私たちを捜し回り、私たちを見出して、神様のもとに連れ帰る羊飼いです。そのような羊飼いを見出した喜び、いやそのような羊飼いに見出された喜びを喜びつつ、主のみ声に聞き従って、信仰の歩みを続けて参りたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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