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今日は、この礼拝のはじめに長森仙子さんの転入会式が行われ、私たちも大きな喜びを神様から戴きました。今日は人生の転機ということから、少しお話しをしたいと思うのです。長森さんにとっては、今日という日が人生の転機となって、イエス様と共に生きる人生をきっと新たにしていただけると、私は信じておりますけれども、このような転機というには決して自然に訪れるものではありません。
誰でも、自分の人生を変えたいとか、もう一度仕切り直して新しく出発したいと願うことがあります。けれども、そのためには二つの用件が必要なのだと思うのです。一つは、「時」であります。人生というのはいつでも自由に、思いのままに変えることができるものではありません。しかし、まったく変えられないものでもなくて、「今なら変えられる!」という「時」というのが巡ってくるのです。
私ごとで恐縮ですが、先日、長女の卒業式がありました。春には高校入学も許されまして、皆様のお祈りのお陰と感謝をしております。たとえば、このような時というのは、自分を変えることができるチャンスだと言えるのです。皆様の場合でありましたら、新しい仕事を始める時とか、新しい仲間と出会った時などが、自分を変える一つのチャンスであろうかと思います。
しかし、私たちがもっと「時」について考えなくてはいけないのは、喜ばしい時よりも悲しみに暮れる時であります。幸せを感謝している時よりも、人生の試練に遭遇しているときです。たとえば大切なものを失ったとき、愛する人との別れを経験するとき、病気になった時、仕事を失ったとき、このような人生の試練の時も、考え方によっては、自分を変えるためのまたとなきチャンスになるのです。
山口博子さんというゴスペル・フォーク・シンガーの「時を忘れて」という歌があります。
目を閉じなければ 見えない世界がある
口を閉じなければ 言えない言葉がある
耳をふさがなければ 聞こえない言葉がある
歩みを止めなければ 会えない人がいる
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて
試練の時というのは、神を信じる者はもちろんのこと、神を信じなかった者も祈る時です。祈りの言葉も知らず、神のいかなる方かも知らないでも、祈らざるを得ないのが試練の時なのです。逆にいうと、それしかできないと言えるかも知れません。しかし、人生において、これだけ祈り深く生きるチャンスというのは他にないのです。山口さんの歌は、このような祈りの時を生きているのでなければ、決して見出すことができない人生の大切なものがあるのだと訴えているのです。
自分を変え、新しい人生を生きるための第二の用件というのは、人生に前向きであることです。自分を変えるには「時」が必要です。しかし、「時」がくれば自動的に自分が変わるのではなく、それを神様があたえてくださった時として捉え、祈りの時として過ごすということが必要なのです。
この祈りの時は、空しく過ぎることは決してありません。その祈りが嘆きであろうと、叫びであろうと、あるいは声なき声であろうと、神様はかならずその祈り声に応えて、私たちに出会ってくださることでしょう。人生において、「ああ、神様がいらっしゃる!」「イエス様はわたしを愛してくださっている!」そのような思いに打たれるときほど、救いを感じ、幸せを感じ、勇気に溢れるときはありません。目を閉じなければ見えないもの、足を止めなければ出会えないものとは、このような神様の存在であり、神様との出会いなのです。
この神との出会いによって、人は新しく生まれることができます。神なき望みなき人生を生きていた者が、「神われらと共にいます」という信仰に生きるように成るとき、私たちの人生はまったく変わるのです。それは病気や、悲しい出来事がなくなるということではありません。けれども、神の愛を知り、神の救いを知るならば、不思議と恐れは消え、悩みは去り、神様と共にどんな十字架をも背負って生きていこうという力が湧いてくることを、必ず経験するでありましょう。
このような人生の転機を、新しく生まれるという経験を、私たちたちは是非とも経験したいものであります。そのために、私たちたちの人生にある「神の時」というものを知り、祈りをもって生きることから始めたいと願うのです。 |
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さて、イエス様のご生涯におきましても、このような人生の転機というものがありました。その一つは30歳の時、ユダヤの荒れ野でヨハネから洗礼をお受けになったことです。
それまで、イエス様はガリラヤのナザレという田舎の村で、父ヨセフ、母マリアと共に、他の子供達と変わらない幼少年期を過ごし、ごく普通の青年として家業の大工を手伝ってお過ごしになっておられました。ところが、30歳の時に、突然家をお出になりまして、ユダヤの荒れ野で信仰復興運動をしていた預言者ヨハネのもとに行かれます。そして、ヨハネから洗礼をお受けになったのです。
イエス様がなぜ家をお出になったのか、この時いったいイエス様に何があったのか、そのことについて聖書は何も語っておりません。しかし、一言で言えば、神様の招きがあったのだということでありましょう。
先ほど、人生には神と出会い、新しい自分に生まれ変わる「時」というものが巡ってくるのだということを申しました。それは人間側からすればチャンスということでありますけれども、神様の側からすれば招きなのです。神様は天国からの地上の私たちの生活を面白可笑しく眺めているような御方ではありません。私たちに語りかけ、呼びかけておられるのです。その声を聞き、神の招きに応えるということが、私たちの新しい人生の始まり、転機になるのです。
イエス様は、神様の招きに応えて、預言者ヨハネのもとに行き、そして洗礼を受けました。すると、聖霊がイエス様に降りまして、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者である」という天の声が聞こえたと、聖書は物語っています。これは、イエス様がご自分は何のために生まれてきたのか、何のために生き、何のために死ぬかというご使命について、神様の啓示を受けた瞬間です。それから、イエス様はヨハネのもとは離れまして、独りユダヤの荒れ野に籠もります。そこで四十日四十夜の断食をし、そこで心の中に起こる様々な誘惑を退けて、いよいよ人々の前で神様のお働きをなし、救い主としてのご使命を果たされるご生涯が始まるのです。
次にイエス様のご生涯で重要な転機が訪れたのは、いわゆる山上の変貌と呼ばれる出来事があった時だと思います。
ヨハネから洗礼を受けて、伝道活動を始められたイエス様でありますけれども、イエス様はエルサレムから遠く離れたガリラヤ地方を中心に活動しておられました。ガリラヤにおけるイエス様の教えと力ある業はたちまち人々の評判となり、イエス様のもとに絶えず多くの群衆が集まるようになり、12弟子のみならず、多くの弟子たちがイエス様に従うようになりました。
やがて、このイエス様のガリラヤでの活動が、やがて遠くユダヤのエルサレムにいるユダヤ教指導者たちの耳にも届くようになります。すると律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスという男はいったい何者かということが問題になりはじめまして、わざわざガリラヤまで視察に訪れるのです。そして、確かにイエス様が神様の業としか思えないような奇跡をする、その教えにも力があるということを見届けました。しかし、彼らはイエス様を群衆を惑わす異端者だとみなしたのでした。
どうしてでしょうか。それは第一に、イエス様が罪人の友であったからです。当時の宗教では、異教徒である外国人は罪人、ローマのために同胞から税金を集める徴税人は罪人、あるいは重い障害や重い病気にかかった人も神様の罰を受けている罪人と定め、このような人々との交際を一切禁じていました。ところが、イエス様はそういう人たちと親しく交わり、一緒に食事をしたり、手を触れて病を癒されたり、それどころか徴税人や売春婦をご自分の弟子にされていたのです。
第二に、イエス様が戒律に従わなかったからです。イエス様は一切の仕事が禁じられている安息日の戒律を破られました。病める人がいれば迷わずにお癒しくださり、お腹が空いている弟子たちが麦の穂を摘んで食べることをゆるされました。そして、イエス様は愛こそが最も大切な教えであって、神様の愛を行うことが、宗教的な戒律を几帳面に守ることに優先すると教えられたのです。
このようなイエス様によって、まったく立場を失ってしまったエルサレムのお偉方は、イエス様を非常に危険な人物とみなすようになりまして、いつか捕らえて殺害しようというようなことまで相談するようになったのです。しかし、イエス様はいつも群衆の中にいましたので、彼らはなかなか手出しができないまま時が過ぎてゆくことになります。
ところが、イエス様はある時から群衆を避けるような行動を取られるようになります。国境を越えて異邦人の国フェニキア地方に行かれたり、山の中に籠もられたりするのです。そして、山の中でたいへん不思議な出来事が起こりました。イエス様のお姿が光り輝き、天からあの洗礼を受けた時とそっくりな神の声が聞こえるのです。「これがわたしの愛する子、わたしが選んだ者である」という声です。
この時から、イエス様はガリラヤを離れ、迫害者たちの大勢いる宗教の中心地エルサレムに向かう歩みを始められるのです。ルカによる福音書9章51、53節をみますと、このように書いてあります。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」
「イエスはエルサレムを目指して進んでおられた」
「目指す」というのは、「顔を向けて」ということです。イエス様は、しっかりをエルサレムの方に顔を向けて歩んでおられたと言われているのです。そして、今日お読みした少し前のところ13章22節に、重ねてこのように書かれています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」
このように、イエス様がエルサレムに向かって進まれるということは、そこに苦難があると分かって、敢えて苦難の道を進まれるということであります。もっと言えば殉教、つまり十字架の死を目指す歩みだったのです。
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今日、お読みしたところには、そのようなイエス様のところに何人かのファリサイ派の人たちがやってきて、「ここを立ち去ってください、ヘロデがあなたを殺そうとしています」と忠告をしたと言われています。
ファリサイ派というのは、イエス様と敵対関係にある一派でありまして、それがどうしてイエス様の身を案じるようなことを言っているのか、二つの解釈があります。一つは、ファリサイ派の中にもイエス様へのシンパがおりまして、その人たちが密かに忠告に着たのだという解釈です。もう一つは、これとはまったく逆で、言葉は柔らかでありますが、実は「さっさと立ち去らないと、命の保証はないぞ」と、イエス様を脅かしているのだという解釈です。
しかし、いずれしても、イエス様の答えは変わることはありません。
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」(13:33)
イエス様は、これが神様の道とあらば、どんな苦しみが待ち受けていようとも、今日も、明日も、その次の日も、そこを進んでいくのだと、はっきりと断言をなさったのでした。
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」
このお言葉は、私たちにとっても大切な言葉だと思います。一つは、イエス様が「自分の道」と仰っておられるように、私たちに一人一人に神様がお与えになっておられる道といいますか、人生があるのです。今日、一つのテーマとしてお話ししました人生の転機というのは、そのような自分の道を発見することだと言ってもいいかもしれません。人間というのは衣食住が足りればそれで生きていけるというものではなくて、何のために生きるのか、なぜ生きなくてはいけないのか、そのような人生の目標とか、価値というものを必要としています。それがないと、生きることが空しくなってしまうのです。
では、どのように自分の道を見つけるのか、それが人生の様々な「時」を通して、神に祈り、神の声を聞くということなのです。そして、私たちの人生を創造し、愛し、導き、ささえて下さっている神様と出会うということが、私たちの人生の発見となるのです。イエス様の人生の転機におきましても、「あなたはわたしの愛する子」という言葉がありました。その声を、私たちも聞くことができるのです。
もう一つ、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」というお言葉から学びたいと思います。それは、「進まねばならない」という言葉から感じ取られますように、それは決して安易な道ではないということです。イエス様の道にも「もっと楽な生き方があるのではありませんか」という誘惑や、「そんなことをするとただではすまないよ」という脅迫がありました。私たちの人生も、常にこの様な誘惑や脅迫にさらされています。しかし、心を揺るがせることなく、神様を信じて、自分の道を、今日、明日も、その次の日も歩み続けないということなのです。たとえそれが苦難の道でありましても、神様の与えてくださった自分の道を生きることを自分の道としなさいということです。
実は、そこにこそ私たちが神様と共に生かされているという喜びがあり、生きるにしても、死ぬにしても、それだけで終わらない、復活に続く道、永遠の命に至る道があるのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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