実のならないいちじくの譬え
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書  ルカによる福音書13章1-9節
旧約聖書  イザヤ書5章1-7節
神様を訴えたい
 先日、ビデオで海外ドラマをみておりましたら、白血病の男の子が弁護士さんに「ぼくは神様を訴えたいんだ」と頼むお話がありました。彼は幼いときにお父さんを病気でなくしました。その寂しさを乗り越えて一生懸命に生きようとしたら、今度は自分が白血病になってしまったのです。彼のお母さんは、最先端の治療に望みをつなごうと教会に金銭的な援助を求めに行きました。しかし、無下に断られてしまったのです。だから、神様を訴えたい。どうして、こんな目に遭わなければいけないのか、神様に告訴したいのだと、男の子は弁護士さんに訴えるわけです。

 この男の子ならずとも、世の中には神様を訴えたいという人たちがたくさんいるように思います。実際、教会にも電話がかかってきます。「わたしは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないのか」と。こういう方は別に神様を一生懸命に信じてきた人ではないのでしょうけれども、人生の割り切れなさをどこに訴えていいのか分からず、教会に電話をしてきたのだと思います。

 実は、聖書にも神様を思いっきり訴えた人がいます。旧約聖書のヨブという人物です。ちょうど今、水曜日の聖書の学びと祈り会で、隔週で『ヨブ記』を学んでおりますので、ぜひご参加いただきたいと思うのですが、ヨブは信仰も深く、行いも清く、神様の前に正しい人で、神様もヨブを喜び、多くの祝福を与えておられました。ところがある日、突然、ヨブの身に不幸が次々と襲ってくるのです。まず略奪者が来て、ヨブの家畜を奪い、牧童たちを皆殺しにしてしまいました。次に、火山が噴火して、残りの家畜を焼き殺してしまいました。さらに悪いことには、突風が吹いてきて家を倒し、ちょうどそこで宴会を開いていた息子、娘たちが下敷きになって死んでしまうのです。災難は続きます。今度はヨブ自身が重い皮膚病にかかってしまうのでした。そのような中で、ヨブは、わたしは何も悪いことをしていないのに、どうして神様はこんな重い裁きを負わせるのか、神様を訴えたいと言い続けるのです。

 ヨブを見舞いに来た友人たちは、ヨブのそのような激しい言葉を聞いて、「神様にそんなことを言う者じゃない。神様は正しい御方なのだから、かえって自分の非を認め、悔い改めて神様にゆるしていただきなさい」と宥めます。たとえばヨブの友人の一人エリファズはこんな風にいいます。

 「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしの見てきたところでは、災いを耕し、労苦を蒔く者が災いと労苦を収穫することになっている。」(ヨブ4:7-8)

 悪いことが起こるのは、神様に罪を犯したからだ・・・このように決めつける友人たちの言葉に、ヨブはどんなにか深く傷ついたことでしょう。ヨブはそんな友人たちの言葉を頑として聞き入れず、「いや、私はこんな酷い目に遭わなくてはいけないような罪は一切犯していない」と言い張り、ますます激しく神様に訴えたのです。

 悪いことをすれば神様の罰があると考えることは、そんなに的はずれなわけではありません。しかし、どうしたってそれだけでは割り切りれないこともあるではないでしょうか。悪いことをしているのに平和に暮らしている人々がいます。神様に従っているのに大きな苦しみを受ける人がいます。

犠牲を通して成就する御旨がある
 このような人生の不条理に対する神様への訴えが、イエス様に対してもなされるのです。

 「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」

 これは、当時の社会に起きた一つの事件について問われているのでありましょう。聖書学者たちの研究によりますと、一部の過激派ユダヤ人の武装蜂起をし、総督ピラトに鎮圧されたという事件があったようです。その発端はピラトがエルサレムに水道工事をするために、神殿のお金を用いることを要求したことにあったといいます。水道工事そのものはエルサレム市民のためになることですから問題はないと思うのですが、神殿のお金をローマの要求に従って用いるということに、ユダヤの国粋主義者たちは相当の抵抗感があったようです。そこで過激派による武装蜂起が起きたわけです。

 しかし、総督ピラトはその武装勢力を難なく鎮圧し、反乱者を処刑しました。しかも、それだけではなくユダヤ人への懲らしめ、あるいは見せしめのためであったと思いますが、処刑した者たちの血をユダヤ人が非常に神聖なものとしていた神殿の祭壇に注ぎかけるという、ユダヤ人にしてみれば誠にショッキングな事件があったようなのです。

 さらにこの忌まわしい水道工事中にはもう一つの悲劇的な事故が起こりました。それはシロアムの塔が倒れて労働者たち18人が犠牲者となったということです。いったい、神様がいるならばどうしてこんなことが起こるのか? 当時の人々はこれらの一連の事件を経験して、神様の御心はどこにあるのか、かなり苦しんだようなのです。

 それに対してイエス様はこのようにお答えになりました。

 「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(2-5)

 イエス様は、「災難にあった人々が、あなたたちより罪深く、そのような災難に遭う当然の理由があったのだと思ってはいけない」と注意をしておられます。悪いことが起きるのは悪いことをしたからだという考えを因果応報と言いますが、イエス様は苦難というものを、そのような単純さで理解してはいけないと教えておられるのです。

 イエス様のご受難ということがまさにそうでありました。イエス様は悪いことをしたから苦しまれたのではありません。神様の僕として、人々の罪と病を身代わりに負って、苦しみをお受けになったのです。苦しみには、このような聖なる苦しみ、尊い犠牲というべきものがあるのです。そして、そのような苦しみや犠牲を通して、神様の目的が成就されていくのです。
警告を読みとる
 しかし、それと同時に、イエス様は「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、二度も繰り返して仰っておられます。これはどういう意味かと言いますと、ユダヤ民族の悔い改めを、イエス様は求めておられるであります。

 悔い改めとは生き方を変えること、方向転換をすることです。イエス様は、ユダヤ民族に方向転換を求められました。どのような方向転換でしょうか。武装蜂起をして、独立を勝ち取り、かつてのダビデ王国のような燦然と輝く地上の王国を築くこと、このような民族的な野望を捨てて、義と愛と平和の神の国を築くことを求めよということなのです。

 先週は愚かな金持ちの譬えを学びました。倉を建てて、富を蓄えて、これで安心だと言っている金持ちになるのではなく、神の前に豊かになることを求めなさいという教えでありました。それは個人的なレベルだけ有効な話ではなく、国家においても独立や、地上における豊かさではなく、たとえ占領されていても、貧しくあろうとも、不自由であろうとも、神の前に義を行い、隣人に愛の行い、平和を求める国になりなさいということなのです。

 そうでなければ、あなたがたは国を滅ぼすであろう、今回の事件はそのような警告なのだと、イエス様を教えられるのです。驚くべき事に、そして悲しむべき事に、このイエス様の預言は見事に的中してしまいました。紀元67年、皇帝ネロの時代、イエス様が十字架にかかられてから40年ぐらい後の話でありますが、ユダヤ総督が神殿のお金を強奪するという、この時と似たような事件が起こりました。そして、それを発端についにユダヤ独立戦争が勃発します。

 しかし70年、ついにユダヤはローマ帝国の強大な軍隊に屈し、ユダヤの国はローマ皇帝の直轄領になってしまうのです。ユダヤ人は自分たちの国を失ってしまったと言うことです。以降、ユダヤ人は1947年に現在のイスラエル国家が建国されまで、国をもたない民族となって地上を彷徨い続けることになったのです。

 さて、そうしますとイエス様は個人的なレベルでは受難というのは、必ずしも罪と直結することはないと仰っておられるのですが、国家のレベルで考えると、誤った道を進めば国家は必ず滅びると、罪と受難に密接な関係があるのだということを教えておられることになります。

 これは個人というのは、決して孤立した存在ではないということだと思うのです。たとえば自分一人が正しくても、自分を取り巻く社会が間違った方向に進んでいればどうなるでしょうか。社会は破滅していっても、自分独りは逃れられると言えるでしょうか。そんなことは決してないのです。社会の罪のゆえに、罪もない善良な市民が痛々しい犠牲になることが多くあるのです。イエス様はそのような悲劇を、犠牲を、個人の罪に帰するのではなく、社会に対する警告として捉えなくてはいけないということを仰っておられるのです。

 また、こういうことも言えましょう。つまり、自分一人だけが幸せになるような救いというのはないということです。もし、私が平和に、幸せに、災いを免れて生きたいと願うならば、自分を取り巻く家族、社会、国家、世界が平和で、義と愛に満ちた世界になるように願わなくてはならないのです。これは私たちクリスチャンがこの世においてどのように生きるべきかということを教えてくれる話であると言えましょう。 
実のならないいちじく
 さて、イエス様はこれらの話の後で、実のならないいちじくの譬え話をされました。

 ある主人が、ぶどう園にいちじくの木を植えました。しかし、いちじくの木がさっぱり実をつけないことに苛立って、とうとう「こんな木は切り倒してしまえ」と、園丁に命じます。すると、園丁はこの主人を宥めて、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかも知れません。もし、それでも駄目なら切り倒してください」と言ったというのです。

 この譬え話によく似た話がイザヤ書5章にあります。神様がぶどう園をお造りになるために、肥沃な丘を耕し、石を取り除き、良いぶどうの木を植えました。盗まれないように見張りを置くための櫓も立て、ぶどう酒を造るための酒ぶねまでこしらえて、実のなるのを楽しみに待ちます。しかし、実ったのは、まったく期待はずれの酸っぱいぶどうばかりであったというのです。

 どちらの話しでも、神様がぶどう園の主人にたとえられています。そして、ぶどう園とは、神様がお造りになったこの世界のことを表しているのです。そこに植えられたぶどうの木、いちじくの木は、私たち一人一人の人間です。つまり、この世界に自然発生的に生まれたのではなく、神様の深い愛の御心によって計画され、ぶどうの木やいちじくの木が豊かな実を結ぶようにと、神様の心込めた御業によって造られたのだということを言い表しているのです。

 しかし、神様の植えられた木は神様の期待を裏切り、がっかりさせ、また怒らせてしまったということも、二つの話しに共通しています。

 ところが、大きな違いあります。旧約聖書のイザヤの話では、神様が期待を裏切ったぶどうの木は滅ぼしてしまうと言われています。それに対して、新約聖書のイエス様の話では、園丁が主人を宥めて、「もう一年待ってください。もう少しの間だけ猶予を与えてください。わたしがさらに一生懸命に育ててみますから。木の周りを掘って、肥料もやってみますから」と頼むのです。

 実のならないいちじくの木、それは神様の期待を裏切り続けている私たちのことです。イザヤ書では「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか」と言われていますが、私たちはまさしくそのように神様から多くの愛をかけられて来ました。しかし、感謝もせず、喜びもなく、その愛に少しも応えないで、神様を悲しませ、がっかりさせているのが私たちなのです。

 けれども、このような私たちのために、「まだ切り倒さないでください。私がもっともっと愛し、手をかけて育ててみますから」と言ってくださる方がいる、それがイエス様であるというのです。ここに、旧約聖書にはない福音があるのです。

 それは、チャンスがもう一度与えられるという福音です。しかも、その新しいチャンスは「わたしが一生懸命にお世話し、肥料もやりますから」と熱心に神様にとりなしてくださるイエス様と共にあるのです。私たちの人生がこれまでどんなに失敗に満ちたものであっても、私たちはイエス様と共にもう一度人生をやり直すことができるという福音なのです。

 イエス様は、当時の人々の心を不安に陥れた二つの事件について、「これは神の警告だ。悔い改めよ、さもなければ皆が滅ぶことになる」と言われました。こういう言葉は、何か脅かしのように聞こえますが、そうではありません。そうではなく、あなたは改めることが出来る。もう一度やり直すことができるという福音なのだということを、イエス様はこの譬え話で教えてくださっているのです。そして、私たちを悔い改めヘと、つまりイエス様と共に実を結ぶ人生へと招いてくださっているのです。

 どうか、この主の優しき招きに答えて、私たちの心を、生活を、もう一度悔い改め、主に立ち帰る者になりたいと願います。
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