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今日は「愚かな金持ちのたとえ」というお話しでございます。12章の最初から見てみますと、イエス様の周りには足の踏み場もなくなるほど大勢の群衆が集まってまいりまして、イエス様がその人たちにむかって色々と教えておられたということが書かれております。すると、その群衆の中からひとりの男が現れまして、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願い出たというのです。
その時、イエス様は真理のための闘いという極めて深遠なテーマでお話しをなさっていたのでありまして、この男がいう遺産相続をめぐるような問題は、何とも場違いな問題に聞こえてしまいます。しかし、考えてみれば、確かに私たちが生きていくうえで常に闘わなくてはならない問題というのは、真理のための問題というよりも、遺産相続をめぐる骨肉の争いといったような卑近な問題が多いのであります。そればかりだと言ってもいいかもしれません。
そういう問題をイエス様の所にもってくるというのは、はたして場違いなことなのでしょうか。そうではありません。むしろ、それは信仰者にとってとっても大切なことだと言っても良いのです。というのは、信仰者にとっては、どんな問題も、イエス様を通して解決をしていくことが何よりも大切な事だからです。
先週は「主の祈り」について学びました。イエス様が教えてくださったこの祈りの中でも、「御名を崇めさせたまえ」という祈りと共に、「日々の糧、日々の必要をお与え下さい」と祈りなさいと、ちゃんと教えられていたのでした。このように信仰生活というのは、神への信仰とこの世の生活が別々にあるのではないのです。信仰が生活であり、生活が信仰であるという生活が、本当の信仰生活なのです。
そうであれば、真理を巡る問題が話されているところに、遺産を巡る非常に俗っぽい話が入り込んでくるというのは極めて当たり前の話でありまして、こういうことを問うことによって、イエス様の教えてくださる真理が、実際に私たちの現実の生活の中でどのように生きたものとなってくるのかということが問われるのです。真理が、私たちの生活の中で受肉していくといっても良いかも知れません。真理のための闘いと遺産相続をめぐる問題が、決して別々ではなく一つとなって解決されていくこと、それが正しい問題解決の道なのです。 |
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ただし、その際にはよく理解しておかなければならないことがあります。イエス様はあくまでも解決そのものではなく、解決に至る道を教えてくださるのだということであります。遺産相続の問題が投げかけられた時、イエス様は、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とお答えになりました。イエス様を通して問題を解決するといいましても、この世のあらゆる問題に対して、イエス様がいちいち指図をお与えくださったわけではないのです。もし、そのような意味でイエス様に答えを求めるならば、イエス様は何も答えてくださらないと感じても仕方がないことでありましょう。
しかし、その一方で、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(『ヨハネによる福音書』14章6節)とも仰っておられます。イエス様は、どんな問題であっても、私たちがその問題を通して神様に至ることができるようにと、そして本当の命を掴むことができるようにと、すべての問題において神に至る道があることをはっきりと示してくださるのです。
ですから、よく言われることでありますけれども、私たちは生活のあらゆる問題について、まず聖書をよく読んで、聖書が何と答えているかを問わなくてはなりません。次に、教会がそれらの問題について何と教えているかも学ばなければなりません。そして、最後に、聖書の教え、教会の教えを踏まえて、自分はこの問題についてどう考え、どういう信仰的な決断をするのかということを、祈りつつ答えていかなければならないのです。そのように、私たちが具体的な問題を一つ一つイエス様に尋ねながら、教会に学びながら、祈りをもって解決をしていくことによって、私たちは真理のための闘いを戦い、神に至る道を歩むことになるのです。
遺産相続の問題というのは、何事もなければ仲良くしていたはず兄弟姉妹が、親が死んで骨肉の争いを繰り広げるという、まことに人間として浅ましい話、そして悲しい話であります。
イエス様はこういう問題に対して、裁判官や調停人のようなお答えはしてくださいませんでした。しかし、もっと深いところでこの問題を取り扱ってくださり、この問題は人間の奥底に潜んでいる貪欲の問題であるということを教えてくださったのであります。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
人間の貪欲というのは、血を分けた兄弟姉妹のつながりさえもねじ曲げてしまうほど強いものとして、人間の心に根深く存在しています。何事もないときには紳士的に振る舞っている人であっても、いざ遺産相続のようなトラブルが目の前に起こると、心の中の眠っていた貪欲がムクムクと頭をもたげて起き上がってきまして、表面化してくるのです。
イエス様のところに相談に来たこの人も、心の中は遺産が欲しいという貪欲でいっぱいだったに違いありません。しかし、この人にとってまことに幸いであったのは、その遺産の問題をイエス様のもとにもってきたということにあるのです。たとえそれが貪欲から来る願いであったとしても、イエス様のところに持ってきたということによって、彼はイエス様による清めを受け、問題の本質に対して霊的な眼をひらかされて、永遠の命に至る道を悟らされていくことになるのでした。その際、イエス様がお話し下さったのが、愚かな金持ちの譬えであります。 |
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ある金持ちの畑がたいへんな豊作になりました。そこで金持ちは、「倉が小さすぎて作物をしまっておく場所がない。どうしよう」と悩み、「そうだ、小さい倉を壊して、大きなものに建て直そう」と思いついたのでした。彼はこの思いつきに非常に満足をしまして、いい気になってこう言いました。「さあ、これですっかり安心だ。これからは何年も先まで食べたり、飲んだり、遊んで暮すことができるぞ。」 ところが、その晩、神様が現れてこう言ったのでした。「愚か者。今夜、お前の命は取り上げられる。そうしたら、お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」
イエス様のこのお話しは、特別難しい話ではありません。しかし、うっかり読むこともできない話なのです。たとえば、皆さんはこの譬え話を読んでどんな感想をお持ちになったでしょうか。どんなに金品をもっていても死んでしまえばおしまいだという風にお感じになった方も多いのではないかと思います。けれども、イエス様はお金持ちが悪いと言っているのではないのです。お金なんか欲しがるのは、愚か者だと言っているのでもありません。
マザー・テレサは貧しい人々のために多くの事業を成し遂げました。そして、ある時、その功績に対して、ローマ教皇から高級外車が贈られることになったのです。どうして高級外車だったのか、マザー・テレサにまったく似つかわしくないように思えるのですが、彼女はその高級外車を有り難く頂戴しました。そして、迷うことなくそれを売り払いました。しかも、彼女はその高級外車を賞品にした宝くじを主催し、それによって普通に売り払うよりも何倍もの多くのお金を手にすることができたのです。彼女は、そのお金をもとにハンセン病の人たちが働きながら家族と共に暮らし、また治療も受けられる施設を建設したのでありました。
こういう話しもありますから、お金を稼ぐこと、集めること、それが即、悪いことだとは言えないのです。私は、お金を稼ぐということも、神様に与えられた素晴らしい才能の一つだと思っております。たとえばマザー・テレサが宝くじを主催したということも、凡人には思いつかない素晴らしい才能だろうと思うのです。この才能を活かし、自らも努力をして生きるということは、神様の喜ばれることに違いなのです。
しかし、せっかく才能を活かしてお金持ちになりましても、その使い方を見ますと、まったく愚か者としか言いようのない人間になってしまう人もたくさんいるのではないでしょうか。
ご存知、豊臣秀吉の話です。立身出世の鑑として、今も人気の高い秀吉でありますけれども、聖書的にみるならば、秀吉こそは愚かな金持ちを地でいった典型的な人物だと言えましょう。彼は、貧しい農民の子でありました。けれども、武士になりたいという野心を持って、16歳の時に家出をします。運良く信長に目をかけられまして、草履取から出発し、サル、サルと嘲りを受けながらも、次第に頭角を現し、トントン拍子に出世をしてゆきました。そして、37歳で一国一城の主となり、49歳で天下を取り、贅沢を尽くした大阪城を建築したのです。大坂城は黄金の城とも呼ばれ、天守閣の瓦や壁に惜しげもなく金箔がほどこされ、城内には黄金の茶室があり、天井、壁、柱、敷居まで、すべて金で覆われ、茶釜、茶杓、茶碗なども黄金で造られていたといいます。こうして彼は若き日の野心を見事に成就し、権力においても、富においても、これ以上ないものを手に入れることができたのです。
しかし、すべてのものを手に入れても、彼の心は満たされませんでした。彼は何とかその満たされたい心を埋めようとして、京都に華麗壮大な邸宅「聚楽第」を造ります。また、朝鮮や中国までも自分のものにしようとして、二度に渡って朝鮮に大軍を送り、非道な殺戮を繰り返したのでした。こうして求めても、求めても満ちたりることをしらない彼の心は、財産や権力が増えれば増えるほど、さらに大きなものを望むようになり、それは死ぬまで続き、決して満ち足りぬことを知らぬままこの世を去っていくことになるのであります。その人生に対する敗北感は、彼の辞世の句によく表れております。
「露とおち 露と消えにし わが身かな
難波のことも 夢のまた夢」
「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことであります。天下を統一した、関白になった、大坂城を造った、聚楽第を築いた、金と女にたわむれて遊んだ……。しかし、今思えばすべてが朝露のごとくはかないもの、夢の中で夢を見ているように空しいものであったと嘆いているのであります。
私は、これだけのことを成し遂げるのでありますから、秀吉には本当に優れた才能があったと思うのです。その才能を活かして、自分でも努力をして、権力を握り、富を築くということはたいへん立派なことだと思うのです。しかし、貪欲が彼を愚かな権力者、愚かな金持ちにしてしまいました。秀吉はキリシタン迫害でも有名ですが、もし彼がイエス様の教えに耳を傾けていたならば、特に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」という教えに耳を傾けていれば、彼の才能は本当の意味で天下のために用いられ、彼の生涯も満ち足りた思いの中で終わることができたのではないかと思うのです。
イエス様がこの譬え話で教えておられることは、金持ちが悪いということではなく、愚かであることが悪いと教えておられるのです。そして、その愚かさのもとは人間の心の奥深くに横たわっている貪欲であると言っておられるのです。 |
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貪欲とは何でしょうか。秀吉の話でも分かりますように、決して満たされることのない限りのない欲望、これが貪欲であります。
けれども、どうして人間というのはこうも欲深で、貪欲になってしまうのか。貪欲の正体はいったい何かということをもう少し深く考えようとする時に、たいへん示唆に富んだことを言っている人がいます。17世紀の科学者であり、宗教思想家でもあったパスカルです。彼は、人間の心の奥深いところには、神のかたちをした空洞があるのだと言うのです。そして、この空洞は神以外の何物を入れても、決して満たされない空洞なのだと言いました。このことは、イエス様が「神の前に豊かになる」ということを仰っておられることと符合すると思います。
人間の心の中には、貪欲があるといよりも空しさがあるのです。そして、その空しさは、お金がないとか、力がないとか、そういうことではなく、本来人間にあるべき神様との親しき交わりがぽっかりと失われているということにあるのです。
詩編15編をみますと、「どうしたら、神様と一緒に住むことができますか」と、ダビデは祈っています。パスカルの言葉を借りれば、どうしたら心の空洞を神様で満たすことができますかという祈りであります。そして、ダビデは「完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。」、こういう人に私はなりたいのだと祈っているのです。
それに対して、イエス様のお話し下さった愚かな金持ちは、このように言っています。
『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
直訳的に訳しますと、こうなります。「わたしの倉を建て、わたしの穀物や財産をその中にしまい込み、私の魂に向かって安心せよと言おう」 この金持ちは、「わたしが」「わたしが」と言い、少しも神様と関係に生きていないということが分かります。わたしが生みだし、わたしが蓄え、わたしが老後の保証を獲得したのだと言っているのです。しかし、その時に、金持ちの前に神様が姿を表します。そして、こう言うのです。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」
「今夜、お前の命は取り上げられる」という言葉を聞いて、つまり死ぬということを考えることによって、この金持ちは否応なしに自分が神様との関係の中に生きているのだということに気付かされるのです。しかし、その時には、この金持ちは神様の前に何の豊かさもたない人間でありました。「わたしが」「わたしが」と生きていた命も、築いてきた財産も、神様の前には何の意味もない、無きに等しいものに過ぎないものになってしまっていたのです。
みなさん、イエス様は、私たちにこのように言われます。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
私たちは色々な問題を抱え、悩みをもっているかもしれません。どうか、いかなる問題であっても、神様によって満たされることなくして、本当の解決はないのだということを悟りたいと思います。そして、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉もありますように、第一に神様のことをもとめ、神様と共に生きる者、共に住む者になたりと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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