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最近、いろいろな所で活躍なさっている養老猛司さんという方がおられます。もともと東京大学の解剖学の教授だったそうですが、自分の教え子からオウム真理教の信者を出したことにショックを受けて、東大をお辞めになったそうです。
ご存知のようにオウム真理教には高学歴で優秀な頭脳をもった科学者たちがたくさん入信しておりました。そういう人たちが教祖松本智津夫の言われるままにサリンを造ったり、事件を引き起こしたりしたのです。オウム真理教の事件は常軌を逸した宗教の事件という意味合いもありますけれども、将来を有望視されていた若き科学者たちが引き起こした事件という意味でも注目されたのです。
科学というのは、この世界をできるだけ合理的に説明しようとする学問です。たとえば宇宙の誕生や人類の誕生について、聖書は神がそれをお造りになったのだと説明します。しかし、それでは科学になりません。ビックバンとか、進化論とか、誰もが合理的に宇宙の誕生、人類の誕生を認識できるように説明して、はじめて「科学的」と言うことができるのです。
しかし、科学ではどうにもならないことがあるのです。それは、どんなに科学を極めても、科学からは人間を人間として生かす力は何かという答えを得ることはできないということです。たとえば「人間とは何か」ということを、科学は生命現象として合理的な説明をします。そこでは愛情や悲しみといった人間的な感情ですから、科学によれば脳の中で起こる化学反応だということになります。しかし、そう説明されたからと言って、人を愛することができるようになるわけでもなく、悲しみが癒えるわけでもありません。
科学というのは、人間の生物的な生命を延ばすことはできるかもしれませんが、絶望した人間に希望を与えたり、憎しみに捕らえられた人間を憎しみから解放して愛の溢れる人間にしたりすることはできないのです。そういう問題に答えを求めて、人間はいかに生きるべきか、生きることの意味は何かと問うていくならば、人は宗教に向かわざるを得ないのではないでしょうか。そういった意味で、若い科学者たちが宗教に惹かれていっても少しも不思議ではないのです。
しかし、オウム真理教の引き起こした事件は、宗教にも健全な宗教と不健全な宗教があるのだということを物語っていると言えましょう。では、どういう宗教が不健全なのかと申しますと、現実世界に目を背けてしまった宗教は不健全であると言うことができるのではないでしょうか。
オウム真理教が現実世界を敵対視し、無差別テロのようなことを考え、また実行してしまったのは、現実世界との関わりを断ち切って、自分たちだけの世界に閉じこもって、その中だけで完結した世界を造ろうとしたことに原因があります。簡単に言えば現実逃避です。あらゆる現実の問題から逃げて、それで自分たちは救われたと言っているだけなのです。
よく言われるマインド・コントロールというのは、言ってみれば現実世界を断ち切るための手段だと言えましょう。入信したての信者は現実世界をまだ自分の中に引きずっておりますから、他の一般信者と話をすることは許されません。ただひたすら教義を勉強させられたり、修行をさせられたりします。少しでも疑問を口にすれば幹部が来て徹底的にそれを打ち砕きます。外の世界への恐怖も植え付けます。このように徹底的にその人の中にある現実世界の感覚を否定し、破壊し、もう元の世界に戻れないぐらいに教団という新しい世界の完全なる住民にしてしまうのがマインド・コントロールなのです。
宗教というのは、科学と違って客観的には認識でない霊的な世界の存在や真理について語ります。しかし、霊的な世界を信じるからと言って、現実に目を背けてしまったら、私たちは空想の中に生きるようなリアリティのない生活になってしまい、現実的な生活ができなくなってしまいます。だからといって、現実だけを見ていたら、人生とは何か、どのように生きればいいのかという問題にどのような答えが与えられるのでしょうか。
このようなことについて、聖書の教えるところは何かと言いますと、私たちは霊的な世界を信じ、霊的な真理によって生きるわけですが、だからといって現実世界を否定したり、敵対視したりするのではなく、むしろそれを信じ、それによって生きるからこそ、現実世界に価値を知り、その中で希望を持って、強く雄々しく生きる力を得ることができるのだということなのです。 |
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そのことを最もよく教えている御言葉の一つが、創世記1章31節にあります。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
これは私たちの世界が良いものとして造られ、良いものとして始まったという神様の祝福を物語っています。
前にご紹介したことがある話ですが、両手両足がない状態で生まれてきた乙武洋匡さんという方が書いた『五体不満足』という本があります。その本の中に書いてある話ですが、乙武さんを生んだお母さんは、一ヶ月ぐらい赤ちゃんに会わせてもらえなかったそうです。しかも、赤ちゃんが五体不満足で生まれてきたということも教えられませんでした。そのことをいつ、どうやってお母さんに伝えるか、みんなで悩んでいたというのです。
しかし、いつまでも隠しておけるわけもなく、ちょっと普通の子と違うのだと言いながら、おそるおそる赤ちゃんと対面をさせることになりました。不満足どころか五体のうちに四体もない赤ちゃんを見て失神してはいけないということで、看護婦さんも側に控えていた。ところが、お母さんは赤ちゃんを見て「まあ、かわいい」と言ったというのです。乙武さんは、もちろん、そんなことを覚えているはずもありません。おそらく物心ついてから何度も聞かされてきた話なのでしょう。しかし、自分が「まあ、かわいい」と言われて生まれてきたと知ることが、本当に生きる勇気になったというのであります。
聖書がこの世界の始まりについて、「見よ、それは極めて良かった」と言っているのも、これと同じような意味があります。そこからは決して「もうこんな世界は駄目だ」とか、「こんな世界は滅んでしまえ」という悲観的な考えは起こりません。たとえどんなに問題に満ちた世界であろうとも、本当はこの世界は素晴らしい世界なのだ、神様がこの世界を見て「極めて良い」と言ってくださり、祝福してくださったのだ、だからどんな現実を前にしても、絶望せず、この世界がもっている元々の良い力、神様の祝福から溢れてくる力を信じて生きていこうという勇気が与えられるのです。 |
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そして、もう一つ、私たちに霊的な世界との確かな結びつきを与え、それによって生きる力を与える御言葉があります。それが、イエス様が教えてくださった「主の祈り」なのです。
「父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」
何よりもこの「主の祈り」は、私たちがこの悩みの多い、暗い森の中を彷徨い歩くような現実の生活において、どこからでも神様にむかって「天の父よ! 私の父よ! 我らの父よ!」と呼ぶことができるという恵みについて教えてくれているのであります。私たちはどんなに心細く思えるときであっても、そのようにいつでも呼びかけることの天の父なる神様の御顔の下に生きているのです。
しかし、みなさん、ここで一つご注意を申し上げておかなければなりません。確かに私たちは皆、神様の教えを守っている人も守っていない人も、隣人に対して親切な人もそうでない人も、どんな人も神様の子供達として、天の父なる神様の御顔のもとに生きております。けれども、神様の御顔は同じではありません。ある人に対しては、神様は優しくほほえみかけてくださっています。しかし、ある人に対しては、心配そうに見守っています。また別の人に対しては明らかに悲しみの顔をしておられます。どの顔も、天の父としての御顔でありますが、だからこそ私たちの生き方によってその御顔は変わるのです。
ですから、イエス様は「天の父よ」と祈ったならば、「御名を崇められますように」と祈りなさいと教えておられます。それは、私たちが神様を悲しませることがないように、神様にご心配をかけることがないように、いつも神様の良き子供達でいることができますようにという祈りなのです。そのように神様と私たちの関係が正しくあるように祈ること、それが、私たちがこの世においていつも神様の愛を確信し、力強く生きていく力の源になるのです。
次に、イエス様は「御国が来ますように」という祈りを教えてくださいました。これは一口には言えない深い意味をもった祈りです。一義的には、この世のすべての存在が神様のご支配のもとに服するようになるように、そのようにして神様の祝福が何にも妨げられることなくこの世に溢れる出す時が来ますようにという、終末的な希望を持った祈りでありましょう。しかし、それだけではなく、私たち自身が神様の御国の中の祝福に生きることができるようにという祈りもここに含まれているのです。
『ローマの信徒への手紙』14章17節にはこのように記されています。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」とは、「神の義と平和と喜び」ということです。それが私たちの霊的な命となるように祈りなさいということです。
神の国は飲み食いではないと言われています。だからといって、「飲み食いはいらない」という意味ではありません。イエス様もこの次の祈りで、「私たちに必要な糧を毎日与えてください」と祈りなさいと、教えてくださっています。しかし、それに先立つ必要があると言うのです。
人間は肉なる存在でありますから、飲み食いがなくては生きていくことができません。しかし、飲み食いさえあれば、みんな幸せに生きていけるかというとそれも違います。なぜなら、人間は神様の霊によって生きる者となったと言われていますように、人間は霊的な存在でもあるからです。人間が人間らしく、私が私らしく生きていくためには、私たちが霊的な存在として健全さを取り戻さなくてはなりません。
飲み食いは肉の命を養いますが、霊的な命を養うのは神の義と平和と喜びであります。あなたの命が神様の霊的な祝福で満たされるように祈りなさい、「聖霊による義と平和と喜び」が私たちに与えられますように、と祈りなさいということなのです。
そして、次に教えられているのが、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りです。「必要な糧」というのは、飲み食いを含めて私たちのすべての必要です。健康のこと、仕事のこと、財産のことなどあらゆる必要を、天の父なる神様に願い求めなさいと、イエス様は教えてくださったのでした。
ただし、繰り返しになりますが、「御名を崇めさせ給え」、「御国を来たらせたまえ」という祈りが、これに先立つということを忘れないようにしておきたいのです。このような霊的な必要を求めずして、肉の必要だけで、私たちのこの世の問題は何一つ解決しません。家があり、食べ物があり、着る物もあり、学校や仕事に行くことができても、幸せになれない人がたくさんいて、生きる力を失って絶望してしまっている人もたくさんいるということを、私たちは知っているはずです。私たちに先ず必要なものは、霊的な命を生かす霊的な必要なのです。神様と霊的な関係に生かされることだと言っても良いかも知れません。その上で、私たちは神様の天の父として信頼し、健康について、仕事について、財産について、あらゆるこの世の必要について祈り求めることができるのだと、イエス様は仰ってくださっているのです。
次にイエス様が教えてくださるのは、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」という祈りです。私たちは弱い人間です。どんなに神様を愛していても、神様に喜ばれたいと願っていても、なお毎日神様の赦しを必要とする罪人です。しかし、イエス様は、私たちは毎日毎日、神様の赦しの中で生きることができるのだということを、この祈りで教えてくださっているのです。
しかし、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という祈りは、何か神様と取引をしているようにも聞こえます。けれども、決してそうではありません。自分の罪が赦されることと、隣人の罪を赦すことは切り離して考えられないことだから、このような祈りになっているのです。
これは私自身の経験から申し上げることですが、他人の罪を赦せない時というのは、じつは自分自身を赦せない時でもあるのです。罪を犯した自分、人に傷つけられた自分、弱い自分、醜い自分、何もできない自分・・・そういった自分が、実は神様の大きな愛と赦しのもとで生かされている存在なのだということが分かりますときに、私たちは自分に対しても、隣人に対しても、神様の優しい心を持つことができるのではありませんでしょうか。
最後に「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈りなさいと、イエス様は教えてくださいました。これまでのところは、神様と私たちの関係における祝福を求める祈りでありました。けれども、それだけで十分ではないのは、神様と私たちの関係を邪魔するサタンの存在があるからです。サタンは、私たちを騙し、誘惑し、私たちからあらゆる神様の祝福を奪おうとする存在です。
たとえばサタンは、私たちから健康を奪ったり、財産を奪ったりして、私たちを絶望させるかもしれません。しかし逆に、逆に私たちに健康を与え、この世での成功を与えることによって、私たちの心を神様の霊的な祝福に対して鈍いものにしてしまうこともあります。サタンはずる賢い存在ですから、私たちそれぞれの弱さを見抜いて誘惑をしてきます。けれども、イエス様はあなたがたが常に神様の保護の中にいるならば、そのようなサタンからも守られるのだということを、この祈りで教えてくださっているのです。 |
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話は前後致しますが、この「主の祈り」がどのようにして弟子たちに与えられたかという話が書かれておりました。ある日、イエス様が祈っておられると、弟子たちは「私たちもイエス様の祈りたい」と思ったのでありましょう。「主よ、祈ることを教えてください」と、たいへん率直に願いました。すると、イエス様は「祈るときはこう祈りなさい」と言って、この「主の祈り」を教えてくださったのです。
「主の祈り」には、今申しましたように、私たちが祈るべきことは何か、ということが教えられています。また、それをどのような順番で祈るべきか、ということも教えられています。けれども、弟子たちが「主よ、祈ることを教えてください」と言った時、イエス様からお聞きになりたかったのは、本当に、このような祈りの言葉だったのでしょうか。そうではなく、どうしたらイエス様のように神様の存在を近くに感じ取り、本当に親しい神様の交わりの中に入り込んで、神様に祈ることができるのか。いったい、イエス様と私たちの祈りはどこか違うのか、そのような祈りの精神について教えて頂きたかったのではないかと思うのです。
ところが、イエス様はそれに対して、この主の祈りを教えてくださいました。そう考えますと、主の祈りというのは、ただこのように唱えればいい、このようにしゃべれば良いというものではないだろうと思うのです。この主の祈りが私たちに教えてくれている祈りの精神とは何でしょうか。それは、私たちには天の父がおられるのだということを、心から信じ、確信し、信頼し、毎日毎日、天を仰いで神様にすべてのことを祈りなさいということなのです。
最初に、科学と宗教という話をいたしました。科学と宗教では真理の認識の仕方が違います。科学というのは、誰もが理性的に認めることができる客観的真理というものを取り扱います。つまり、疑いようのないものこそが真理なのです。けれども、そのような真理をいくら知ったところで、それだけでは人間は何によって生きるのか、どうやって生きるのか、何のための生きるのか、生きる意味や価値はどこにあるのか、そういう問題に対して一つも答えにならないということをお話ししたのでした。
それに対して宗教が扱う真理というのは、疑おうと思えば幾らでも疑うことができる真理です。科学的な客観性、確実性のある真理ではなく、私たちは信じるという仕方でしか認識できない主観的な真理なのです。ですから、確かにオウム真理教のように間違ったものを真理だと思い込んでしまう可能性もあるでしょう。その結果、とんでもない方向に突き進んでしまうことがあるのが、宗教的な真理なのです。そういう意味で、何でもかんでも信じてしまうことには慎重であることが必要です。
しかし、私たちがイエス様によって与えられている真理というのは、長い歴史の中で、おびただしい証人たちによって、その確かさが実証されている真理です。多くの人を新しく生まれ変わらせ、この世に対する良き業を生みだしてきた真理なのです。どうぞ、この真理を私たちの主体性をかけて信じたいと思います。主体性をかけて信じるとはどういうことか、それはこの悩みの多い、迷いの多い暗い森の中を歩くような私たちの生活の中で、目には見えなくても天の父がおられるのだということを主体性をもって信じ、心からなる信頼をもって「天の父なる神よ!」と呼びかける、祈りの生活を送るということなのです。
「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、』」
「主の祈り」は、私たちがこの世のどんな現実の中にあっても、また私たちのどんな弱さの中にあっても、天の父である神様の愛と祝福と保護を豊かに受けて生きることができるのだということを教え、またその生き方を教えてくれる祈りなのです。この一週間も、イエス様が教えてくださったこの祈りを毎日毎日お捧げし、この祈りによって支えられて歩んで参りたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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