マルタとマリア
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書  ルカによる福音書10章38-42節
旧約聖書  創世記18章1-8節
主が愛されたベタニア村
 エルサレム市街地の東にはキドロンの谷という深い峡谷がありました。そこを渡り、オリーブ山の麓の道を3キロほど歩いてゆきますと、そこにベタニアという小さな村があります。

 ベタニア村の人々は主を愛し、主もまたこの村を格別に愛されました。主は度々ここを訪れて憩いの時、慰めの時をお過ごしになっております。たとえば、今度の水曜日から主のご受難を覚えるレントが始まりますが、十字架におかかりになる最後の一週間を、主はこのベタニア村で過ごされました。ここからエルサレムの市街地や神殿に出かけていき、日が暮れるまで人々を教え、律法学者たちと議論を交わし、再びこの村にお帰りになって、一日の疲れをお癒しになったというのです。

 ベタニアとは「悩みの家」という意味だそうです。どうしてこのような物悲しい名前の村になったかは知りませんけれども、主が愛された村の名前が「悩みの家」ということを知るとき、私たちの心に慰めが与えられます。果たして悩みのない家がこの世にありますでしょうか。私たちすべての家が「悩みの家」だと言っても過言ではありません。イエス様は今日も、その「悩みの家」すべてをご自分の愛する友の家として訪ねてくださるお方です。そして、その中に入って私たちと霊的な交わりを持つことを何よりも喜びとしてくださるお方なのです。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(『ヨハネの黙示録』3章20節)
イエス様をもてなすマルタ
 さて、イエス様と弟子たちが、このベタニア村に住むマルタとマリアという姉妹の家をお訪ねになった時のことです。マルタとマリアはイエス様のお越しを心から喜びました。マルタは、イエス様とお弟子さんたちのもてなしのために甲斐甲斐しく働きました。一方、マリアはイエス様の足許に座り、イエス様のお話しに熱心に耳を傾け、聞き入っておりました。

 ところが、この平和で恵みに満ちた家に、不穏な空気が流れ始めます。マルタは、マリアが座っているばかりで何も手伝ってくれないことを不満に思い始めるのです。マルタは、マリアを手伝わせようとして、度々「マリア、これをしてちょうだい」と頼んだことでありましょう。しかし、マリアは言われたことを済ませると、またお姉さんのほったらかしにして、イエス様の側にベタッと座り込んでしまうのです。このマリアの態度に、マルタの気持ちは我慢が出来ないほど苛立ってきます。そして、ついにイエス様を巻き込んで、その不満をぶつけてしまうのです。

 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)

 マルタは、きっとイエス様は自分の味方になって、マリアの怠惰を諫めてくださると思っていたに違いありません。ところが、イエス様はマリアではなく、マルタに向かってこのように言われたのでした。

 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42-42節)

 マルタは、まさか自分が叱られるとは思っていませんでしたから、このイエス様の予想外のお言葉に相当大きなショックを受けただろうと思います。聖書は、その後のことが何も書かれていませんから何とも言えませんが、きっとマルタはこのイエス様のお言葉を受け入れるまでに長い時間を苦しく、悲しく過ごさなければならなかったのではないでしょうか。

 そう思いますと、私はなんだかマルタが可哀想になってしまうのです。マルタはイエス様に喜んでいただこうとして一生懸命に働いたのでした。それなのに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と、イエス様に叱られてしまったのです。イエス様の御心はいったいどこにあるのでしょうか。
しっかり者のマルタ
 そのことをお話しする前に、まずマルタの名誉を回復するようなお話しをしておきたいと思います。38節をごらんください。

 「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」(38節)

 イエス様がベタニア村にいらっしゃると、すぐにマルタが出てきてイエス様を歓迎し、家の中に迎え入れました。しかし、その時、マリアが一緒に出てきたとは書いてありません。おそらく、マリアは家の中にいたのだと思います。

 同じようなことが『ヨハネによる福音書』11章に記されています。今日のお話しには登場しませんが、マルタとマリアにはラザロという兄弟がいました。そのラザロが重い病気にかかり、ついに息を引き取ってしまうのです。そこにイエス様がお見舞いにいらっしゃいます。その時、真っ先に出迎えたのは、やはりマルタであったということが、そこに書かれているのです。それだけではなく、そこでもマリアは家の中に座っていた、と書かれています。

 「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」(『ヨハネによる福音書』11章20節)

 こうして見ますと、マルタとマリアの違いというのは信仰の問題ではなく、性格の問題があったと思うのです。もてなしに忙しくしていたマルタよりも、足許に座ってイエス様のお話しを聞いていたマリアの方が信仰深かったのだとは言えないということであります。マルタは喜びの日にも悲しみの日にもイエス様を出迎えることを忘れませんでした。マリアは主が側にいる時ばかりではなく、そうでない時にも家の中に座っていることが多かったのであります。

 『ヨハネによる福音書』11章28-29節にはこのようなことも記されています。

 「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」

 マルタが、わざわざマリアを呼び行ったという話であります。このように、マルタとマリアの生活というのは、何かにつけしっかり者のマルタがマリアのお世話をしてきたのではないでしょうか。今日のお話しでも、主の足許に座っていたマリアが、もてなしに忙しくしていたマルタに勝っていたと、本当に言えるでしょうか。しっかり者のマルタがいるからこそ、マリアは主の足許に座っていられたのです。
マルタのもてなし
 ただ、普段でありましたらそういうおっとりとした性格のマリアを暖かい目で見守る優しいお姉さんのマルタであったと思うのですが、この時ばかりはそうはいかなかったというのです。

 何でもてきぱきと仕事をこなすマルタが悲鳴をあげるほど忙しい食事の準備とは、いったいどういうものだったのでしょうか。

 イエス様の時代、庶民の食卓は簡単でとても慎ましいものでした。大麦のパンと水、そしてオリーブ、果物、また塩だけ味付けられたイナゴが日常的のメニューでした。庶民的でありながら、もう少し上等になりますと魚が加えられました。中流家庭になりますと魚あるいは子ヤギ、野菜(とくにタマネギ)、そしてぶどう酒が通常のメニューでした。

 しかし、その他にユダヤ人たちは宴会や祝宴を好みました。それは食事を共にするということが何よりも家族や仲間の絆を強め合うと考えていたからでありました。そういう宴席では、驚くほどたくさん飲み食いしたようです。聖書にも、婚礼の祝宴で用意したぶどう酒が足りなくなってしまったという話が出てきますが、それはこのような宴会好きのユダヤ人ならではお話しでありましょう。

 ただ、そうなりますと準備をする方はたいへんであります。マルタは、イエス様と十二人の弟子たちが存分に食べたり、飲んだりして、心おきなく楽しい時間を過ごして頂きたいと願って、かなり張り切って食事の準備をしたのではありませんでしょうか。食事だけではなく手や足を洗う水の準備や、宿の準備まで、イエス様に喜んで頂こうとすればするほど、マルタの頭の中にやらねばならない事がいっぱいあったと思うのです。

 それが余計なことなのだと、イエス様は仰ったのでしょうか。イエス様が望んでおられたのは、マルタのように食卓のことで思い煩うことではなく、マリアのように足許に座ってじっと御言葉に聞き入ることなのだとことなのでしょうか。私にはどうしてもそのようには思えないのです。 
食事の準備は愛の業
 食事の準備というは、そんなに軽んじて良い仕事なのでしょうか。これは、毎日食事の準備をなさっているご婦人の方々には、たいへん重要な問題だと思います。幸い、聖書には食卓の準備ということが、とても大切な意味ある働きであるということが、至る所に記されています。

 たとえば、今日は旧約聖書からアブラハムが三人の旅人のために忙しく食卓を調えたというお話しを読みました。創世記18章6-8節をもう一度読んでみましょう。

 「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。『早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。』アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。」

 アブラハムが、マルタにも引けを取らぬほど忙しく立ち働いて、三人の旅人をもてなしている様子が伝わってきます。実は、この三人の旅人の正体は御使いでありまして、アブラハムはそうとは知らずして御使いをもてなしたのだということが、ここで言われているのであります。そして、それがアブラハムと神様との交わりへと発展していくのです。

 また、イエス様ご自身が食卓を調えられたという話しもあります。たとえば、先ほどお話ししました婚宴の席でぶどう酒がなくなった時、イエス様は水を上等なぶどう酒に変えて婚宴を祝福されたということが書かれています。あるいは、五つのパンと二匹の魚を五千人の人々に分かち与えて満腹させるという奇跡も行われています。さらに、復活の主が、弟子たちのために魚を焼いて、朝食の準備をしてくださったという話しもあります。

 また、もう一つだけお話しをしましょう。使徒言行録6章には、初代教会において聖霊と知恵に満ちた七人の執事が選出し、十二使徒を助けたという話が記されています。この七人の執事が真っ先に取り組んだのは、やもめたちの食事に関する奉仕でした。彼女たちの苦情を処理して、どのやもめたちも公平に、十分に食事がなされるように配慮すること、今風に言えば福祉でありますが、それが教会の大切な働きであったのです。

 こうして見ますと、食事というのは、ただ飲食を用意すれば良いというものではないのです。食卓を囲んで、アブラハムは御使いたちに奉仕をいたしました。食卓を囲んで、イエス様は人々を祝福され、また弟子たちを教えられました。また、食卓を囲んで、教会は貧しいやもめたちに暖かい家族の交わりを提供しました。食事を共にするということは、飢えや渇きを満たすだけではなく、喜びや慰めや楽しみを共にすること、家族や友人たちとの絆を深めること、貧しき人々に神様の恵みを分かち合うこと、もっと突き詰めた言い方をすれば愛の交わりであり、命の交わりであり、霊的なものだと思うのです。

 そして、そのような霊的な食事の頂点にあるのが聖餐式です。聖餐式というのは肉の飢えや渇きを満たす食事ではありません。イエス様の命が私たちの命として与えられ、イエス様の霊的な交わりがそこに実現する食事なのです。しかし、食事の持つ霊的な意味は、聖餐式だけにあるのではなく、家庭の食事にもありますし、祝宴や宴会の食事にもあるのです。

 ですから、食卓を調えるということは、決して疎かにするものではないのです。それはメニューの問題ではありません。共に食事をする家族や友人たちが、そこで特別な時間を過ごせるようにすること、それが食卓を調えるということではありませんでしょうか。

 そのために花を飾ったり、器に凝ったりするということも大切でしょうが、それ以前に家族が揃って食事をする時間を作るための努力や工夫であるとか、その時の話題であるとか、家族だけではなく友人を食卓に招待するということも大切なことであろうと思います。かつてはこういうことは当たり前のことでありましたが、最近は相当な努力や工夫、あるいは意識の改革ということが必要になってきているようであります。

 いずれにせよ、家庭の食事もまた聖餐式に通じるものがあるのだということを覚えたいと思うのです。
自分の分だけを果たす
 そうしますと、いったいマルタは何をイエス様に叱られたのでありましょうか。もう一度、イエス様のお言葉を読んでみたいと思います。

 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41節)

 これは、イエス様が食事の準備に立ち回るマルタを叱り、御許で御言葉に聞くマリアを誉めているという風に読めなくもありません。けれども、そうではありません。マルタとマリアの違いは性格の違いなのです。そして、マルタのしようとした食事の準備も、決して疎かにできない本当に大切なご奉仕であったのです。

 そうだとしたら、マルタの問題はただ一つしか考えられないのでありまして、それはマルタの心の中に湧き起こったマリアに対する苛立ちであります。「なぜ、マリアは何もしないのか」という不平不満のです。

 そのような不満は、マルタが自分の能力を超えたことをしようとしていることに原因があったに違いありません。人には、それぞれ神様に与えられた身の丈というものがあります。イエス様は「誰が思い煩ひて身の丈一尺を加え得んや」(『マタイ伝』6章27節 文語訳)と仰っておられるのです。

 「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

 私たちは、あれもこれもしなくてはならないという焦燥に駆られることがあります。しかし、それが自分の能力を超えている時、一転して自分には何もできないと思ってしまったり、誰も自分を助けてくれないとひがんでしまったりするのです。

 しかし、神様は人間を独りで生きるものとしてではなく、互いに支え合って生きる者としてお造りにました。どんな仕事も、自分一人ですべてを成し遂げるのではないのです。必ず、そこに陰となり日向となって支えてくれる働きがあります。マリアはしっかり者のマルタに支えられていたのだということを申しました。同じようにマルタも、マリヤによって支えられているのです。しかし、その際、誰がどのように支えてくれるのかということは、あまり心にかけなくて良いのではないでしょうか。それは神様の御計画の中にあり、私たちが思い煩わなくても必ず備えられることだからです。

 だから、あなたがたは自分に与えられた分だけをしっかりと果しなさい。それで良いのだ、というのが「必要なことはただ一つだけである」というイエス様のお言葉の意味ではないでしょうか。

 考えてみますと、多くのことに心を砕き、思い煩うのが人間です。真面目に人生を考え、一生懸命に生きようとするならば、必ずいろいろな問題や心配事に悩まされることになります。生きることは、いつもマルタ的なものなのです。このようなマルタ的な人間から見ますと、あまり具体的な行動を起こさないで、信仰とか、祈りとか、聖書とか、そういうばかり言っている人、つまりマリア的人間がもどかしく思えることがあります。そういうことは牧師同士の間でもあります。あの人は書斎に籠もって聖書ばかり読んでいるから駄目だとか、祈ってばかりで現実問題に向き合っていないから駄目だとか、そういうことを言い合うこともあるのです。

 しかし、イエス様はマリア的人間に向かってマルタ的な人間になれとは言われませんし、マルタ的な人間に向かってマリア的になれとは言わないのです。マルタはマルタらしくあることによって、マリアはマリアらしくあることによって、神様にお仕えすることが大切なのです。お互いを批判したり、自分を蔑んだりするのではなく、互いに支え合う人間なのであるが、イエス様がマルタに本当に仰りたかったことなのです。
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