善きサマリア人の譬え話
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書  ルカによる福音書10章25-37節
旧約聖書  レビ記19章9-18節
永遠の命とは
 ある日のこと、律法の専門家がイエス様にこういう質問をしました。

 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)

 永遠の命を受け継ぐ、というのは、不老不死の命を持つということとは、まったく意味が違います。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネによる福音書11章25節)と仰ったことがあります。死なない命ではなく、死んでも生きる命が永遠の命なのです。

 私たちは皆、いつの日か死ぬ時がきます。しかし、死んでも私たちの生きた証しが、残された家族や、教会の人たちや、他の人たちの心の中に生き続けること、そしてその人たちに希望を与え、慰めを与えることができること、それが死んでも生きるという永遠の命なのです。

 先週は、生まれつき目が見えずに生まれてきた男についてのお話をしました。弟子たちが、「どうして彼はこんな不幸を背負って生まれて来なければならなかったのでしょうか」と尋ねると、イエス様は「神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。イエス様が仰ったように、私たちが神様に造られたのは、神様の御業が行われるためであります。たとえ私たちが、どのような肉体的な弱さ、精神的な弱さをもって生まれてこようとも、神様にはそのような私たちの人生を通してなさろうとしている御業があるのです。

 律法学者は、「どうしたら、私の人生を通して神様の御業が行われるのでしょうか。私がこの世に生まれてきた目的が果たされ、生きてきたことに永遠の意味と価値を持つことができるようになるのでしょうか」ということを、イエス様に尋ねたのでありました。これは、この世に生まれてきた人間が誰でも知りたいと思っている問いでありましょう。
知識ではなく、生き方が大事
 イエス様は、この律法学者の質問に対して、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるのか」とお尋ねになりました。律法とは、神の教え給う道が書いてある聖書のことであります。律法の専門家は、すぐにこのように答えました。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)

 最初の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、『申命記』6章5節にある言葉です。また、後半の「隣人を自分のように愛しなさい」は、『レビ記』19章18節に書かれています。神を愛すること、隣人を愛すること。神様の教え給うすべての道は、この二つの律法に通じていると答えたのでした。それは正しい答えでした。

 しかし、テストで100点を取った人が、100点満点の人間になるわけではありません。大切なことは良い点を取ることではなく、一つでも二つでも神様の御心を行って生きることなのです。イエス様は彼に言われました。

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(28節)

 「実行しなければ意味がない」と仰るイエス様のお言葉が心に重く響きます。牧師というのは律法学者と同じで、知識だけで分かったようなつもりになってしまうことがありますので、余計に身につまされます。イエス様が私たちに求めておられるのは「愛と何か」という問いに上手に答えられることではありません。「あなたは本当に神を愛していますか? 隣人を愛していますか?」という問いに対して、御言葉に根ざした生き方をもって答えることなのです。

 ところが、律法学者は「隣人とは誰ですか」と、新たな問いを発すことによって、イエスの問いをはぐらかそうとしました。彼はイエス様の問いから逃げているのです。私たちも同じ事をしていないでしょうか。「愛しなさい」と言われれば「愛とは何か」と問い、「信じなさい」と言われれば「信仰とは何か」と問い、「祈りなさい」と言われれば「祈りとは何か」と問う。聖書は、それは愛そうとしない自分、信じようとしない自分、祈ろうとしない自分を正当化しようとしているだけなのだと、厳しく断罪するのです。
愛するとは関わりをもつこと
 このような律法学者に対して、イエス様は短い例話をもって答えます。

 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」(30節)

 ある人が旅の途中で追いはぎの一団に襲われます。実際、エルサレムからエリコに下る道というのは、相当に治安が悪い場所だったようです。彼は持ち物を奪われただけではなく、半殺しの目に遭い、そのまま寂しい道に置き去りにされてしまいました。助けを求める力もなく、また助けを期待できる場所でもなかったでありましょう。

 そこに三人の人たちが次々に通りかかります。最初に通りかかったのは、祭司でした。次にレビ人が通りかかりました。祭司も、レビ人も、神殿で神に仕える人々でありました。しかし、二人とも、傷ついて倒れている同胞を見捨てて通り過ぎてしまったというのです。

 「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(31-32節)

 「道の向こう側を通って行った」とはどういうことでしょうか。追いはぎが出るような寂しい道でありますから、道の向こう側もこちら側もそんなに大差がないと思われます。たとえ彼らが精一杯に道の向こう側を通ろうとも、決して見ぬ振りなどできない距離に、その人は倒れていたに違いないのです。しかし、彼らはその人をしっかりと見ながら、決して近寄ろうとしなかった、関わりを持とうとしなかったということなのです。

 愛するとは、関わりを持つことです。その人を無視しないことです。夫婦だろうと、親子だろうと、仲の良い友達だろうと、時には喧嘩もすることでしょう。しかし、喧嘩をしたから愛していないということにはなりません。その人と真剣に関わろうとするから、喧嘩にもなるのだと思います。もし、相手を無視するなら喧嘩にもならないのです。

 私は、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」という言葉は、本当に寂しい言葉だと思うのです。その人のすぐ側を通り、その痛みや苦しみを見ていながら、自分には関係のないこととして通り過ぎてしまうのです。
自己正当化という抜け道
 しかし、人間というのは神様がお造りになった存在ですから、本当はどんな人間だって死にそうな人をみたら見過ごしにできないという優しい心をもっているはずなのです。それを見過ごしにしてしまったら、深い心の痛みを覚えるのが人間というものではないでしょうか。

 それでは、何故この祭司とレビ人は、その人を置き去りにしてしまったのでしょうか。そこに心理的なカラクリがあると思うのです。先ほども律法学者が自分を正当化しようとしたということが出てきましたが、たとえ良心の痛みが起こっても、仕方がないんだという理屈をつけることによって、その痛みを麻痺させてしまうということがあるのです。

 たとえば、「自分は急いでいるのだ」と自己弁護をすることによって、面倒な関わり合いを避けるということもあります。あるいは、「どうせ、私には何もできない」と弁解することによって、その人を置き去りにする理由付けをすることもあります。あるいはまた、祭司というのは死体に触れてはならないという掟がありましたから、それを自己弁護に使うこともできたかもしれません。

 いずれにせよ、抜け道は幾らでも自分の頭の中で作れるのです。これは、要するに黒を白だと言うことでありまして、残念なことに知恵のある人、弁が立つ人ほどこういう抜け道がうまいと言えます。祭司やレビ人が「道の向こう側を通って行った」というのは、そういう自己正当化という抜け道を通って、良心の痛みを麻痺させて、その人との関わりを避けて通り過ぎてしまったという意味もあるのではありませんでしょうか。 
善きサマリア人
 さて、祭司とレビ人がそのように倒れている人の側を通り過ぎて行ってしまった後、サマリア人がそこを通りかかりました。

 「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」(33-35節)

 追いはぎに襲われ、半殺しの目にあって倒れていた旅人を救ったのは、祭司でもなく、レビ人でもなく、一人のサマリア人だったというのです。

 この譬え話のより深い意味を知るためには、サマリア人とはどういう人なのかということを知る必要があります。一言で言えば、ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲であったのです。

 その対立の歴史は古く、イエス様がお生まれになる千年も前にさかのぼります。その頃、イスラエルはサマリアを首都とする北王国と、エルサレムを首都とする南王国に分裂しました。ところが北王国の人々は、神殿のあるエルサレムを捨てることができません。そこで、北王国の王様ヤロブアムはエルサレム神殿に代わる神殿を北王国の中に造り、人々がエルサレムに巡礼することを禁じたのでした。

 それから200年ほどして、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。北王国の主要な人々は補囚として異国に連れ去られ、その代わりに異国の人々をサマリアに移住させました。それと同時に外国の偶像がサマリアに持ち込まれたのです。またサマリアに残っていた人々と移住してきた外国人との雑婚も始まり、宗教的にも、民族的にも、純粋なユダヤ人とは呼べなくなってしまったのです。南王国のユダヤ人たちは、そういうサマリアの人たちを軽蔑し、区別してサマリア人と呼ぶようになりました。
 北王国が滅んでからさらに150年ほどして、今度はバビロン帝国によって南王国が滅ぼされてしまいます。南王国の人々も補囚としてバビロンに連れ去られていきますが、50年後にペルシア帝国がバビロン帝国を滅ぼすと、解放されて自分たちの国に帰ることがゆるされました。そして、さっそくエルサレム神殿の再建にとりかかります。

 この時,サマリヤ人が神殿再建に協力を申しでました。しかし、南王国の人々はサマリア人を宗教的にも、民族的にも異質なものとみなし、これを拒絶します。そこで、サマリア人はこれに対抗してモーセが祝福をこの山に置くといったゲリジム山に自分たちの神殿を造り、ユダヤ教から形を変えた独自のサマリア教団を発展させていきました。こうしてユダヤ人とサマリア人の間には癒しがたい憎悪の念が生じていったわけです。ユダヤ人とサマリア人は交際もせず、口も聞かなかったと言われています。

 ところが、イエス様は、祭司でもなく、レビ人でもなく、サマリア人が旅人を助けたというお話しをなさったのです。

 この善きサマリア人は、第一に、ユダヤ人への憎しみを捨てて、旅人を救いました。第二に、うろうろしていたら同じ目に遭うかもしれないという恐怖心に逆らって、旅人を救いました。第三に、彼は自分が乗っていたロバから降りて、その旅人を宿屋まで運びました。第四に、彼は旅人の代わりに宿屋の主人に代価を払って、介抱してくれるように依頼し、足りない分は帰りに払うことまで約束しました。 このようなことはちょっとした親切心で出来ることではありません。義務感で出来ることでもありません。本当の愛だと言えましょう。

 マルチン・ルーサー・キング牧師は、この善きサマリア人の譬え話でこのような説教をしています。祭司とレビ人は、この人を助けたら「自分」がどうなるかを考えた。しかし、サマリア人は、この人を助けなかったら、「この人」はどうなるかを考えた。それが両者を分けたのだというのです。本当にその通りだと思います。自分のことを考えたら、人を愛せなくなってしまうのです。自分のことを忘れて、その人のことを真剣に考えることができるということが、本当の愛なのです。 
本当の隣人
 このたとえ話のおもしろいところは、「では、私の隣人とは誰のことですか」という問いで始まったのに、最後は「この三人のうちで、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」という問いで終わっていることです。律法学者が「その人を助けた人です」と答えると、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。

 自分の隣人は誰かと捜している生き方と、自分が行ってその人の隣人になるという生き方ではまったく質が違ってきます。自分の本当の隣人は誰かと捜す生き方というのは、きっと「あの人は私を裏切ったから違う」、「あの人は考え方が合わないから違う」というように、どんどん隣人を限定していき、仕舞いには誰も友達だと思えなくなってしまうような生き方ではないでしょうか。

 それに対して、自分が行ってその人の隣人になるという生き方は、多くの隣人愛を生み出します。たとえ自分を愛してくれない人間に対しても、自分さえその人の隣人として生きようとするならば、そこに愛が溢れてくるのです。

 とはいえ、自分が本当にそのような愛を持つことができるだろうかということになりますと、まったく自信がなくなってしまうのです。それこそ理屈では愛さなくてはいけないと思っていましても、誰でも彼でも愛するということは不可能ではないかと思ってしまいます。

 そのように考えますと、この善きサマリア人の譬え話の中で、自分に一番近いのは、追いはぎに襲われた旅人ではないかという気がしてきます。まったく救いようのない人間、人を助けることもできない人間、人々から見捨てられ、置き去りにされても仕方がない人間・・・しかし、そこに思いがけず善きサマリア人が通りかかって、私を救ってくれる。このサマリア人とは、まさしくイエス様のことではありませんでしょうか。

 もう一度、サマリア人の愛の業を見てみたいと見てみたいと思うのです。

 「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」

 油は聖霊、ぶどう酒は十字架の血、宿屋は教会、支払いはイエス様の全き贖いを意味していると言えるかも知れません。イエス様は、私たちの善きサマリア人として、神様に敵対して歩んできた私たちを許し、私たちに近づき、私たちを憐れんで、聖霊を注ぎ、十字架の血で清め、教会を与え、完全な贖いを約束してくださったのです。

 このイエス様の救いを知り、その癒しを見に受けて、感謝と讃美に溢れる時、私たちは始めてイエス様の御跡に従う者となること、つまり善きサマリア人に見習う者になることが出来るのだと思うのです。そして、そこにこそ私たちの永遠の命、死んでも生きる命が約束されていると、イエス様は教えてくださっているのではありませんでしょうか。
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