生まれつきの盲人の癒し <2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書  ヨハネによる福音書9章1-41節
旧約聖書  詩編52編2-11節
神の業が現れるため
 イエス様がエルサレムの町外れを歩いておられますと、道端に生まれながらの盲人が座って物乞いをしておりました。イエス様はそのあわれな姿に目をとめて、立ち止まられます。弟子たちもその男に目をやり、そしてこう言ったのです。

 「先生、この人が生まれながらに目が見えないという重荷を負って生まれてきたのは、誰の罪でしょうか。本人でしょうか。それとも親の罪が子に報いたのでしょうか」

 イエス様は、弟子たちに「本人の罪ではない。親の罪でもない。神の業が現れるためなのだ」とお答えになりました。

 先週は、この「神の業が現れるためなのだ」というイエス様のお言葉について学びました。弟子たちが、苦難の原因は何ですか、どうしてですかと尋ねたのに対して、イエス様はそれには直接お答えにならずに、「神の業が現れるため」という苦難の意味と目的についてお答えになったのでありました。

 何か辛いこと、苦しいことがありますと、私たちもしばしば「何でだろう」、「何が悪いのだろう」と後ろを振り返り、くよくよし、私たちの人生の歩みがそこで立ち止まってしまうことがあります。けれどもイエス様は、苦難に遭うとき「何故だろう」と問うよりも、「何のために神様がこの試練をお与えになったのだろう」と問うて、信仰をもって神の目的のために生きていくことが大事なのだということを教えてくださったのです。
シロアムの池で目を洗いなさい
 それからイエス様はご自分のつばきで土をこね、その泥を盲人の目に塗られました。そして、「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と仰ったのでした。盲人がイエス様に言われたとおりにシロアムの池で目を洗いますと、何と生まれてから一度も光を感じたことの彼の目に光が射し込んだのでありました。

 実は先週の礼拝の後で、ある方からこのような質問をされました。「聖書には、イエス様が他にも盲人の目を癒されたというお話しがありますが、その時には目に泥を塗ったり、池で洗いなさいと仰ったりはしませんでした。どうして、この時はそういうことをなさったのでしょうか」 たいへんいい質問だと思いました。しかし、正直に申しまして、私にはその答えが分かりません。盲人の目に塗られたイエス様のつばきや、泥や、シロアムの水がいったいどういう働きをしてこの盲人の目を癒したのか、私には分かりません。私だけではなく、聖書に説明がない以上、誰にも分からないことではないかと思います。ただ言い訳のようでありますけれども、信仰には分からないことを分からないままに受け取る事の大切さというものがあると思うのです。

 なぜ、盲人はイエス様の言葉に従ったのでしょうか。イエス様の言葉を聞いて、「なるほど、そうか!」と納得したからでしょうか。そうではないと思うのです。この方は何故こんなことをするのだろうか。これにどんな意味があるのだろうか。そういうことは何も分からなかったに違いないのです。けれども、彼は何も尋ねずにイエス様のお言葉に従いました。それはどうしてなのでしょう。きっと、イエス様の言葉の中に、彼に対する愛が溢れていたからではないでしょうか。その愛を信じて、盲人はイエス様の言葉に従ったのです。
信仰は理屈ではない
 私は、この話を読むとき、旧約聖書に出てくるナアマンの癒しの話を思い起こします。ナアマンはイスラエルの敵国であるアラムの将軍でありました。しかし、いかなる大勇士であろうと病気には勝てません。ナアマンは誰にも治せない重い皮膚病にかかってしまったのでした。絶望するナアマンに一つの良き知らせが届きました。イスラエルには驚くべき奇跡を行うエリシャという預言者がいるということを聞いたのです。ナアマンはたくさんの贈り物をもってエリシャの家を訪ねました。ところがエリシャは、ナアマンの訪問に出迎えることもしないで、ただ遣いの者をやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と言わせたのでした。

 これを聞いたナアマンは激怒しました。「こうして私が礼を尽くして尋ねてきているのに、あの預言者はいったい何だ。顔も見せないではないか。その上、私の病も見もせず、祈ってくれもせず、ヨルダン川で身を洗えば治るだと? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。あんな泥でにごったヨルダン川よりずっときれない川が私の国にある。」 こういってナアマンはさっさと自分の国に引き上げようとしました。ところがお供の者たちがナアマンを必至に説得しました。「将軍様、お気持ちはよくわかります。しかし、ここまで来たのです。あの預言者の言ったことはそんな難しいことではありません。是非とも試してみてください」 必至の説得にナアマンもよくやく思い直し、エリシャの言ったとおりにヨルダン川に行き、七度水浴びをしました。するとなんと、ナアマンの皮膚病がすっかり癒されたという話です。

 神様の御業は理屈によって働くのではありません。それを信じる信仰のあるところに働くのです。ナアマンの言うとおりなのです。ヨルダン川に何か魔術的な力があるとは考えられないのです。シロアムの池もそうです。それ自体に何か不思議な力があるわけではありません。しかし、エリシャを通して語られた神の言葉、イエス様が語られた神の言葉を信じる。そして、その言葉に従う。そこに神の御業が起こったのです。

 もう一つよく似たお話しがあります。ペトロたちがガリラヤ湖で漁をしていた時のことです。その日はどういうわけか、夜通し網を降ろしても一匹の魚もとれませんでした。ペトロたちは疲れ切って岸で網を繕っていました。そこにイエス様がいらっしゃっておられて、「もう一度沖に出て網を降ろしてみなさい」と言われたのです。

 おそらくペトロは、「いくらイエス様だって、漁のことについては俺たちの方が玄人だ」と思ったことでありましょう。しかし、それにも関わらず、彼はこう言ったのです。「先生、私たちは夜通しやりましたが全然駄目でした。でも、お言葉ですから、もう一回やってみましょう」 そして、せっかく繕った網をもう一度舟に積み込んで、沖に出ていったのです。そして、イエス様が言われたとおりに網を降ろしてみますと、網がはち切れんばかりの魚がとれたという話であります。

 みなさん、私たちも聖書に書いてある物語や教えが非現実的に思えたり、非論理的に思えたり、あるいはまったく無意味なことに思えたりすることがあるかもしれません。自分の経験や、知識や、良識などから判断すれば、どうしてそんなことをしなくてはいけないのか、そんなことで本当に大丈夫なのかと、疑いや不安が募ることもあるでしょう。しかし、生まれつきの盲人が「シロアムの池にいって洗え」と言われた時も、ナアマンが「ヨルダン川で沐浴せよ」と言われたときも、ペトロが「もう一度沖に出て網をおろせ」と言われたときも、きっとそういう人間的な不安や疑問にかられたのです。けれどもその時、彼らは自分の思いを是とするのではなく、神の思いを是として、それに従いました。そして、神の救いを受け取ったのであります。
洗礼について
 このシロアムの池について、これは洗礼を意味するのであるという伝統的な解釈もあります。紀元4世紀の神学者で、現代の神学にも影響を及ぼすアウグスティヌスという人がこう言っています。「彼は遣わされた方という意味の池で目を洗った。つまり、キリストにあって洗礼を受けたのである」

 確かにこれは洗礼と似たところがあるかもしれません。洗礼式の水は、お祈りをして聖別したお水には違いありません。けれども、それを振りかければどんなものでもたちまち清くなるといった魔法の水ではありません。本当にそのようなもので、私たちの罪が清まるのでしょうか。そのような水で、私たちが新しく人間として生まれ変わるのか。それは単なる儀式ではないか。儀式よりも大切なのは心ではないか。このように言って、洗礼など受けないという人がいます。私は心でイエス様を信じているからいいのだというのです。

 しかし、洗礼というのはイエス様が弟子たちに施しなさいと命じられたことです。自分の心が大切だとして、イエス様がしなさいと言われたその命令をどうでもいいことだとしてしまう人に、本当の信仰があるとは思えないのです。

 大切なことは、聖別された水にどんな力があるのかということではありません。授ける方も、受ける方も水を信じるのではなく、イエス様のお言葉を信じて洗礼を授け、また受けるということが大切なことなのです。そこに聖霊が働き、神様の救いの御業が起こると約束されているのです。 
イエス様は何者か
 さて、今日はさらに先を読んで参りたいと思います。この生まれながらの盲人の癒しはそれだけの話では終わりませんで、イエス様は何者かということを巡って一つの騒動が起こったということが書かれているのです。

 ちょっと複雑な話しになっておりますので、まず粗筋を追ってみましょう。8-12節には、シロアムの池で目を洗った男が見えるようになってもとの場所に帰ってきたということが書かれています。すると、彼を知っている町の人たちが「あれは乞食をしていた盲人じゃないか」、「いや、似ているけれども違う人だ」と言って騒ぎが起こるのです。

 男は「わたしがその目のみえなかった乞食です」と、みんなの前で話をしました。びっくりした人々は、「それでは、いったいどうして今は見えるのか」と、寄ってたかって彼を問いただしました。

 「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」(11節)

 彼がこう答えると、人々は興奮しました。「イエスとは誰だ。これはたいへんな人物が現れたぞ」ということで、「いったい、その人はいったいどこにいるのか」と聞きますが、彼はそれには答えられませんでした。

 そこで人々は、この男をファリサイ派の偉い先生方のところに連れて行きました。それが13-17節に書かれていることです。イエス様は、これまでエルサレムではほとんど活動をなさっていませんでした。特にこのような奇跡はあまり行っていませんでしたから、人々は「盲人の目を癒したイエスという方はいったいどういう方なのか」ということを、ファリサイ派の先生方に教えて欲しかったわけです。

 一方、ファリサイ派の偉い先生方はイエスという人物について当然知っていました。ガリラヤでどんなことをしておられたのかということもちゃんと、聞いていました。しかし、どうも彼は反体制的で危険な人物だというのが大方の意見だったようです。彼らは人々からイエスという名前を聞いて、「また、あの男か」と苦虫を噛みつぶしたような顔をしたに違いありません。そして、ガリラヤの人たちばかりではなく、エルサレムの市民までもがあの男に惑わされたらたいへんだと危惧したのです。ですから、イエス様に癒されたこの男は、まるで犯罪者であるかのように彼らの厳しい尋問を受けることになってしまいました。

 ファリサイ派の先生方は、イエス様が神様にしかできない御業を行ったということよりも、安息日にそれが行われたということを問題にしました。そして、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と結論づけたのです。

 しかし、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者たちを完全に納得させることはできませんでした。そこで、そもそもそもこの男は本当に目が見えなかったのか、つまりイエスは奇跡を行ったのかということまで問題になりまして、とうとう癒された男の両親まで召喚されることになったのです。それが18-23節に書かれていることです。

 両親はファリサイ派の先生方の厳しい尋問にびくびくしながら、こう答えました。

 「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」(20-21節)

 この両親の証言で、イエス様が本当に目の見えなかった人を見えるようにしたのだということが動かしようのない事実であるということが明らかにされました。しかし、何としてでもイエス様を罪人であることにしたいファリサイ派の人々は、もう一度男を呼びだして、恫喝にも似た尋問をするのでした。それが23-34節に書かれていることです。

 「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」(24節)

 それに対して、男はとても乞食をしていたとは思えない、意外な強さを示します。

 「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)

 この神の救いの事実を前にして、ファリサイ派の先生方たちにはまったく為す術がありません。ただ口汚く男をののしり、負け惜しみともとれるこんな発言をするのです。

 「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(28-29節)

 「モーセの弟子」というのは、我々こそ正統的な信仰を守り続けている者だという意味です。しかし、癒された男はひるむどころか、さらに追い打ちをかけてこういいます。

 「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(30-33節)

 返す言葉もないファリサイ派の先生方は、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と強引に男の言葉を否定し、彼を追放してこの一件にけりをつけたというのです。
見える人と見えない人
 さて、このようなお話しの中で、たいへん興味深いことが浮き彫りにされています。それは何でも知っているけれども一番大切なことを知らないファリサイ派の先生方と、他のことは何も知らないけれども一番大切なことを知っている男がここに描かれているということです。25節と29節を読み比べてみましょう。

 イエス様に癒された男はこう言います。

 「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』」(25節)

 それに対して、ファリサイ派の先生方はこう言いました。

 「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(29節)

 いかがでしょうか。ファリサイ派の先生方は物知りで、終始一貫して断定的な物言いをしてきました。たとえば16節で、「その人は安息日を守らないから、神から遣わされた者ではない」と言い切っています。24節でも「あの者が罪ある人間であることは分かっている」と言い切っています。それから29節では「我々は神がモーセに語られた事は知っている」とも言っています。ところが、彼らは「あの者がどこから来たのか知らない」、イエス様の正体だけは知らないと言うのです。

 一方、イエス様に癒された男は分からないことだらけでした。12節で人々がイエス様の居場所を尋ねると、「知りません」と答えます。彼は自分を癒してくれた方がどこにいるかも知らなかったのです。また25節では、「あの方が罪人であるかどうか、私は分かりません」と答えました。また、36節では、イエス様を目の前にしても、それが自分を癒してくださった方だということが分からず、「主よ、その方はどんな方ですか」と尋ねています。このように湧かないことだらけの彼でありますけれども、たった一つはっきりと知っていることがあったのです。それは、かつて目が見えなかったけれども、今は見える。これはイエス様のお陰であるということです。これだけは動かされることのない事実として、私は確かに知っていると言えることなのだというのです。

 ここを読みますと、たとえ他に何も知らなくても、イエス様だけは知っているということが、どんなに人を強くするか、どんなに自信に満たすか、どんなに確信に満ちた人間にするかということを思わされるのです。逆に、如何に多くのことを知っていようとも、イエス様を知らないということがどんなに人間の心や考えを過たせるか、どんなに欠如に満ちた人間にするかということを思わされるのです。

 イエス様は、39節でこう言っておられます。

 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 イエス様が世を裁くために来たというのは、どいうことでしょうか。それは、イエス様を知っているか、知らないか、そのことでこの世が二分されてしまうということなのです。

 生きていくうちには、色々な勉強をしなければならないでありましょう。しかし、イエス様を知るということを抜かしたら、どんな勉強も無意味なものになってしまいます。私たちが、この人生でもっとも学ばなければならないことは、イエス様が救い主であるということなのです。イエス様を知る人生と、イエス様を知らない人生ではまったく違うのです。
天の国籍に生きる
 そのことは、ファリサイ派の人たちが「彼を外に追い出した」と言われることによっても明かです。これは、ただ「あっちに行け」と追いやったということではありません。男をユダヤ教から破門したのです。ユダヤ人であるということはユダヤ教徒であるという世の中でありましたら、破門されるということは国籍を奪われるに等しいことであります。つまり、彼はイエス様を信じたために、或いはイエス様に救われたために、国籍を失ってしまったのです。

 ところが、聖書にこう書いてあります。

 「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』」(35-37節)

 ここで気をつけて読んでいただきたいことは、男が破門されますと、それをお聞きになったイエス様の方から近づいてきて、「私を信じるか」と彼を招いてくださったということです。彼はファリサイ派の先生方には追放されましたが、神の御子なるイエス様には「わたしを信じなさい」と招かれたのであります。

 みなさん、私たちがイエス様を知り、イエス様を信じるならば、私たちは今までとは違う生き方をすることになります。それは今まで大切に持っていたものを失うという一面もあります。しかし、私たちがこの世で何を失うとしても、イエス様が私たちを求めておられ、私たちを捕らえようとしてくださっているのだということを忘れないようにしたいと思います。そして、「私たちの国籍は天にある」と胸を張って生きたいと願います。
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