生まれつきの盲人を癒す<1>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書9章1-41節
旧約聖書 イザヤ書35章
誰の罪か?
 イエス様がエルサレムの町外れを歩いているおられる時のことです。生まれつきの盲人が一人、座って物乞いをしておりました。イエス様が彼に目を留められると、弟子たちもまたこの哀れな盲人に深い同情心を寄せ、日頃から心に引っかかっている人生の疑問について、イエス様にお尋ねしました。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)

 世の中にはいろいろな境遇に生まれてくる人がいます。人間は誰でも裸で生まれてくると言いますけれども、手がないとか、足がないとか、目が見えないとか、心臓が悪いとか、裸の時からもう人に差をつけられている人がいます。人生というのは、誰もが平等にスタートするのではないのです。貧しい国、貧しい家に生まれる子供達がいます。愛のない家に生まれる子供達がいます。平和のない時代に生まれてきた子供達がいます。まったく不条理な話ですが、そのような生まれてきた時の条件で、その人の人生は半分は決まってしまうと言っても言い過ぎではないでしょう。もし、正しい神様がおられて、その神様が一人一人にお造りになっておられるならば、いったいどうしてこういう不条理があるのだろうか。誰の心にも一度は浮かんでくる疑問であります。合理的には割り切れない、深刻な問題がそこにあります。

 弟子たちもまたこの盲人が生まれつき背負ってきた重い運命を思って、「いったい、誰が罪を犯したせいですか」と、この疑問をイエス様にぶつけてみたのでした。私たちも何か身の上に悪いことが起こると、「バチがあったのだ」と思わない人はいないと思います。悪いことをしたから悪いことが起こる、こういう考え方を因果応報説と言います。聖書の中でも因果応報説は認められており、神様が罪人に罰を与えるとか、親の犯した罪が子どもの代で報いられるという話はいくらでもあります。

 確かにそういうこともありましょう。けれども、それですべてが納得できるかというと、そんなことはありません。病気や傷害をもって生まれてくる子供の親がみんな罪人だといえるでしょうか。とてもそんなことは言えないです。弟子たちもその辺が納得できなくて、本当のところはどうなのでしょうかと、イエス様に尋ねたのだと思います。
自分を愛する
 それに対してイエス様はこのようにお答えになりました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)

 これは本当に驚くべき答えでした。そして、理由の分からない苦しみを苦しんでいる多くの人々に慰めと希望を与える言葉です。まずイエス様は、この人が生まれつき目が見えないのは決して本人の罪でも、両親の罪でもないと仰るのです。この言葉だけも、この盲人にとっては大きな救いの言葉となったに違いありません。

 たとえば他の先生方はどういうことを言っていたかと言うと、34節で、ファリサイ派の人たちが「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、彼に向かって言っています。生まれつき目が見えないお前は、生まれた時から神様に見捨てられた罪人なのだと言っているのです。おそらく彼はいつもそのように言われてきたのではないでしょうか。そして、いつしか彼自身もまた自分を責め続け、両親を責め続ける人間になっていたかもしれません。しかし、イエス様は「あなたのせいじゃない。両親のせいでもない。自分を蔑むのは間違っている。親を恨むのも間違っている」と言ってくれたのです。

 自分を愛するということは大切です。自分を愛していなければ、神様を愛することも、両親を愛することも、誰を愛することもできません。自分が嫌いなのに、造り主なる神様を愛することができるでしょうか。自分を生んでくれた親を愛することができるでしょうか。誰かのために自分を捧げるということができるでしょうか。私たちが神様を愛し、両親を愛し、隣人を愛するためには、自分を愛するということをもっと真剣に考えなければならないと思うのです。

 自分を愛するというのは、自己中心になることや、自分を甘やかすことは違います。自己中心の人というのは、自分が中心にいないと気が済まないのです。自分が犠牲になるとか、引き立て役になるということは考えられません。これに対して、自分を真に愛する人とは、日の当たらないところで黙々として生きる自分であっても、他人に比べて見劣りのする自分であっても、することなすこと失敗ばかりの自分であっても、決して自分を蔑まず、ありのままの自分を「これが私だ」と素直な気持ちで受け入れ、自分らしく生きることのできる人なのです。

 また自分を甘やかす人は、自分の価値を低く見積もって、「どうせ私にはこのぐらいしかできないのだから、仕方がない」というように、自分に対する期待の乏しさがあるように思います。自分を真に愛している場合には、たとえ「これだけしかできない自分」であったとしても、そのよいうな自分をありのままの自分として受け入れ、それなりに一生懸命に生きてゆこうとする誠実さが生まれてくると思うのです。

 こうして考えてみると自分を真に愛するということは、決して簡単なことではないのです。自分が自分に向き合って、ありのままの自分をしっかりと見つめなくてはなりません。ところが自分を愛せない人というのは、こうありたいという願望としての自分の姿ばかり見つめてしまうのです。そうすると、心の中に「それじゃあ、駄目だ」とか、「恥ずかしいと思え」とか、「お前なんか生きていてもしようがない」という声が聞こえてきて、絶えず自分を責め、蔑むようになってしまいます。自分というのは、「ありのままの自分」と「願望としての自分」と二人の自分が心の中にいるのでありまして、たいていは「願望としての自分」が「ありのままのを自分」を否み、抑圧し、痛めつけているのです。痛めつけるだけならまだいいのですが、「お前なんか死んでしまえ」と、願望としての自分がありのままの自分を殺そうとすることさえあるのです。 生まれつきの盲人もそうだったと思います。

 しかし、イエス様はそのような人に「あなたの罪ではない」「両親の罪でもない」とはっきりと仰ったのです。それはありのままの自分を肯定する言葉でした。「あなたは誰からも責められることはないのだ」「あなたの両親もまた誰からも責められることもないのだ」と、いじめられ、否定されるばかりの役回りだったありのままの自分に初めて投げかけられた優しい言葉、慰めの言葉、愛の言葉だったのです。もし、みなさんの中に自分を責めて、責めて、責めて、悩み苦しんでいる人がいるならば、自分の中のありのままの自分にイエス様のこの優しい言葉、慰めの言葉を伝えなくてはなりません。もう、あなたは責められる必要はないのだと。
苦難の原因と目的
 しかし、本人の罪でも、両親の罪でもないとするならば、いったいどんな原因があってこの人は生まれつき目が見えないような重荷を背負って生まれてきたのだろうかと、弟子たちの最初の疑問が残るのです。イエス様はそのことには一切お答えになっていません。本人の罪でもなく、両親の罪でもないとはいわれましたが、どこどこに原因があるとか、逆にどこにも原因がないとか、そういうことは言っておられません。その代わり、イエス様は「神の業がこの人に現れるためである」と言われたのでした。

 「だれのせいですか」という弟子たちの問いかけと、イエス様の答えとの間には大きな食い違いがあります。弟子たちは、この人が生まれつきの負ってきた苦しみの原因と責任(誰の罪か)ということを尋ねたのですが、イエス様は彼が生まれつき負ってきた苦しみの意味と目的(神の栄光の現れるためである)ということをお答えになったのです。それは、苦難の問題は原因ではなく、その意味と目的を知ることなのであるという、イエス様のお答えなのです。

 最初にも申しましたように、私たちはこの世を不条理だと感じています。「どうして私はこんな苦難を負わされているのだろう」と思うような事があります。そして、バチがあたったのだろうかとか、心がけが悪いからだろうかとか、誰かが邪魔をしているのだとか、世の中が悪いんだとか、自分の苦難の原因を知ろうと必至になって追い求めるのです。しかし、そんなことをしても救われない。苦難から救われるためには、「どうしてか」ではなく、「何にためにか」を追い求めなくてはならないのだと、イエス様は教えておられるのです。そして、「それは神の栄光が現れるためだ」と知ることによって、私たちは不条理を超えて、前向きに、希望をもって生きることができる人間になるのです。

 パウロはそういう人でした。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(『ローマの信徒への手紙』5章3-5節)

 パウロは、苦難を通して自分が神様の目的に向かって成長させられていくのだということを信じて、苦難をさえ喜ぶことができると言っているのです。

 どんな人にも重荷があります。しかし、その重荷をよく負うことができる人とそうでない人がいるのは、決して能力の差ではありません。パウロと自分が同じだとは思えないというのは私も同じです。けれども、パウロと私たちの違いは神様からいただいた能力の差だけではありません。苦難の大きさも違うのではないでしょうか。神様は真実な御方です。神様は決して私たちに負いきれない重荷や、苦難をお与えになりません。そればかりか、必ず逃れる道を備えていてくださるとてくださっています。(『コリントの信徒への手紙1』10章13節) しかし、「どうして私はこんなになってしまったのだろう」と苦難の原因ばかり考えている人は、心が過去に向かい、後ろ向きになっていますから、どうしても苦難の中に留まり続けてしまうのです。「何のために私にこの重荷が与えられているのだろうか」と苦難の意味や目的について考え、未来に目を向けることによって、神様が目的とそのための助けを信じる信仰と希望が与えられ、前へ前へと進んでいくことができるようになるのです。
「行わねばならない」ことがある
 「神の栄光が現れるためである」と仰ったイエス様は、さらに続けてこのようにも言われました。

 「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」

 「わたしたちは」というのは、イエス様と私たちです。「わたしをお遣わしになった方の業」というのは、神様の御業ということです。「まだ日のあるうちに」とは、命のあるうちに、生きているうちにということです。つまり苦難には意味や目的があるということは、苦難の中に私たちがイエス様と共に行わなければならない神様の業があるということだというのです。イエス様は苦難に対して、あるいは生まれつきに負わされた宿命的な重荷に対して、それを嘆くばかりでは駄目なのだ。その事の中に神様があなたにさせようとしておられ使命があるのだと仰っておられるのではないでしょうか。

 たとえば斉藤百合さんという日本の盲人女性の地位向上のために先駆的なお働きをなさったクリスチャン女性の方がいます。斉藤さんは明治二四年生まれで、三歳の時に失明しました。当時の盲人女性の地位というのは本当に悲惨なものでした。表向きは女按摩師になるのですが、立場の弱いことをいいことに売春を強要されたり、暴行されることは日常茶飯事でした。カタワ、メクラと蔑まされ、淫売と蔑まされ、幸せなど望むべくもない一生を過ごす人がほとんどだったのです。
 そんな中で斉藤さんの場合、出会いにも恵まれ、頭が良かったこともあり、一生懸命に努力をして、盲人にとっての最高学府である東京盲学校で学び、お世話になったクリスチャンの導きで信仰も与えられ、洗礼を受けました。結婚もし、ちゃんとした父親のいる子供を四人も産み育て、当時の盲人女性としては考えられないような幸せを掴んだのでした。
 ところが、ある日、行きずりの男から「按摩さん、お腹の子は誰の子だい、どこで拾ったんだい」とからかわれ、「ああ、所詮、盲人女性はそんな風にしか見られないのだ。私も世間から見れば、売春婦と同じ軽蔑された人間なのだ。それ以上にはなれないのだ」と侮辱され、今まで一生懸命に生きていたすべてが否定され、幸せの絶頂からどん底に落とされたような屈辱感と空しさを味わったのでした。
 しかし、この屈辱感こそが、彼女に「盲人女性の地位向上のために、自分が何かをしなくてはいけない。そのためならば死んでもいい」という使命感を与えたと言います。すると丁度その頃、東京女子大開校のニュースが新聞に載っていたのを夫が見つけて読んでくれました。「これまでの家政科でもなく、また教員養成でもなく、キリスト教精神により女性をひとりひとりの人間として伸ばすための高等教育を行う」と書いてあったのをみて、「これだ」と直観しました。当時は盲人男性が大学入学が許可されることはまずありませんでした。そういう時に盲人女性であり、結婚をしている主婦であり、子供までいた斉藤さんの入学がゆるされるということは、誰が考えても難しいことでありました。しかし、「このためなら死んでもいい」という強い、明確な使命感、生きる目的というものをもっていましたから、そういうことは恐れもせずに、「願書を出しもしないうちに諦めていたら何も実現しない。もし駄目であってもちょっと痛い思いをすれば済むことではないか」といって、願書を出しに行くのです。
 入学試験の面接の時の面接官は安井てつさん(二代目学長、ちなみに初代は新渡戸稲造)だったそうです。女子教育に一生を捧げ立派な教育者であるた安井てつさんですが、その安井さんでさえ、盲人女性の斉藤さんに「ここは勉学の意気に燃えているお嬢さんたちのあつまる場所です。結婚しているめくらの女がおおきなお腹にでもなったらどんな勉強ができるというのです」と言ったそうです。しかし、それにもめげず、駄目でもともとだから言いたいことだけは言っておこうと、盲人女性が置かれている社会的地位がいかに低いか、それを高めるためには一人でも、二人でも高等教育を受ける必要があるのですと訴えて帰ってきたのでした。
 それが功を奏したのか、彼女は晴れて東京女子大の一期生として入学をゆるされました。卒業はしなかったようですが五年間そこで学び、盲人女性の地位向上のためにまっしぐらに邁進していくのです。

 このようなさ斉藤さんの力の源は何かといったら、信仰でありました。信仰があればこそ、自分が盲人であるがために本当に大きな重荷を背負わされているということの中に、神様に与えられた自分の使命があるのだ、イエス様と一緒に行わなければならない神様のお仕事があるのだということを見つけることが出来、信じることができ、苦難をも自分に生きる力のバネにして、明るく、強く生きることができたのです。

 彼女のもとには、よくレイプされて身ごもった盲人女性が相談にきたそうです。そんな時、彼女は「あなたに少しでも育てられる事情があれば、私生児でもいいから産みなさい。私生児を育てる苦労もあるけれど、子供育てるということはもっと大きな喜びよ」と励ましたそうです。レイプされて身ごもるなどという女性としては考えたくもないような苦しみに対してさえ、今苦しくても、苦しみよりも喜びの方が大きくときが必ず来るから、がんばりなさいと言える。それは斉藤さんが「この人が目がみえないのは本人の罪でも、親のつみでもない、神の栄光が現れるためである。だから、その苦難の中にある、神様の仕事を私と一緒にしなさい」というイエス様をお言葉を信じ、受け入れた結果ではないかと思います。

 私たちにもそれぞれ人生の重荷や苦難、弱さや乏しさがあることでしょう。しかし、神の栄光のためであるというイエス様のお言葉をしっかりを心に刻んで、負けることなく、強く、明るく生きる者になりたいと願います。
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