姦淫の女をゆるす
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書8章1-11節
旧約聖書 詩編51編
神の宮から始まる一日
 静かな朝のひととき、神殿の境内では大勢の人々がイエス様が御許に集まり、教えに耳を傾けておりました。一日の始まりに、このように主のみ言葉を聴くということは本当に幸せなことであり、また大切なことであります。彼らの一日は、神の宮から始まりました。

 毎日毎日、今日という日が、このように神様と共にあるところから始まることは、私達にとってもどんなに必要なことでしょうか。私は夜型人間で朝が苦手でありますから、とても朝早くというわけにはまいりませんが、一日のはじめに先ず祈りによって神の宮に入ります。「さあ、今日もがんばるぞ」と元気よく目覚める日ばかりではありません。できれば一日中布団を被って寝ていたいと思うような、目覚めることが本当に辛い日もあります。だからこそ、どのような日にも、まず聖書を開き、祈り、神の宮に入って聖霊を戴くという良き習慣を身に付けることが必要なのです。それが、希望の朝にも、悲しみの朝にも、一日を生きる大きな力となり、恵みとなるからです。 
引き裂かれた朝の時間
 ところが、この神の宮の聖なる朝のひと時を、土足で踏みにじるかのように無遠慮に引き裂く者たちが現れます。彼らは静かにイエス様のお話しを聴いている人々の間に騒々しく割り込んで来て、ぐるりとイエス様を取り囲みました。そして、荒々しく一人の若い女をイエス様の前に引き立てると、「先生、この女は姦通をしている時につかまりました」と告発をしたのです。彼女はまさしくその現場を取り押さえられたのでありましょう。見るのも恥ずかしいあられもない姿で、恐怖にうち震えながら弱々しく立ちつくしておりました。

 ユダヤでは、どんな罪も二人以上の証人がいなければ訴えることができません。姦通罪というのは成立すれば死刑というたいへん重い罪でしたが、亭主が妻の浮気を勘ぐっているだけであるとか、あるいは一緒に有らぬ所から出てきたのを目撃したという状況証拠があったとしても、それだけでは姦通罪は成立しないのです。姦通罪で訴えるためには、まさしく現場そのものを取り押さえなければなりませんでした。しかも、二人以上の目撃が必要なのですから、逆に言うとこういう罪は普通ではなかなか成立しにくいものだったと言えます。

 ある人が、「仕組まれでもしない限り、現場を取り押さえられるということは滅多にないことだろう」と言っています。しかも、姦通というのは相手がいるはずなのに、ここでは女ひとりが訴えられています。そういうことを考えると余計に怪しい。ファリサイ派の人たち、律法学者たちが、イエス様を試すためのダシするために、罠をしかけてこの女を捕らえたのではないかと言うのです。
無視をする主イエス
 そういうことを何もかも、イエス様は見抜いておられたのでありましょう。かがみ込んだまま、この女に目をやることもせず、地面に何かしきりに文字を書いておられました。いったい何を書いておられたのだろうと興味をそそるところですが、聖書に書いてないことは知りようがありません。それよりも、ここで大切なことは、イエス様が挑発に乗らず、彼らをまったく相手になさらなかったということにあるのです。

 そのような態度に苛立ったファリサイ派や律法学者の人たちは、イエス様に執拗に問い続けました。

 「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」

 「あなたはどう思いますか」と言うのは、分からないから教えて欲しいという意味ではありません。聖書にも「訴える口実を得るためであった」と言われておりますように、彼らはイエス様を窮地に陥れる罠にかけようとしていたのです。

 もしもイエス様が「この女を赦してやれ」とお答えになったならば、彼らはイエス様をモーセの律法に背くことを人々に説いて回り、人々の心を惑わしている者として、すぐにでもとらえて、宗教裁判にかけるつもりでした。では、「モーセの律法に従って、この女を石で打ち殺せ」と、イエス様が仰ったらどうなったでしょうか。それこそ彼らの思うつぼで、イエス様を罪人の友と信じていた群衆はみなイエス様に失望することになるでしょう。イエスという男は罪人の友であると嘘ぶっているが、罪を犯した一人の女性も救うことができないではないか、と。要するにどちらに答えても、あなたは救い主ではない、救い主であるはずがないと言い込める悪意に満ちた罠が仕組まれていたのです。

 しかし、イエス様は彼らを相手になさらなかったと、聖書は書いてあるのです。これは案外、大切な教えではないかと思います。みなさんも、人のねたみや悪意を感じたり、挑発を受けたりすることがあるかと思うのです。そういう時、イエス様は決して軽々しく相手の挑発に乗らなかったということを思い起こしてみたらいかがでありましょうか。私たちが平常心を失えば、喜ぶのサタンです。サタンは私たちの信仰を台無しにしようとあらゆる機会をねらっています。サタンは無視をいたしましょう。私たちが平常心を失わず、信仰にしっかりと踏みとどまっているならば、神様のお守りの中にいます。サタンは、そのような私たちに対して何の手出しもできないのです。




罪あるものが・・・
 さて、律法学者やファリサイ派の人たちは、執拗にイエス様に問い続けます。イエス様もついに身を起こされて、たった一言だけ彼らにこうお答えになります。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられたと言われています。しかし、イエス様の発せられたこの短いお言葉は、彼らの心にグサリと突き刺さりました。おそらく長い沈黙の時が流れたことでありましょう。そのうちに年長者から始まって、一人また一人と静かにその場を立ち去っていったというのです。

 「年長者から始まって」と書いてあるのがいいじゃありませんか。イエス様のお言葉を聞いて、真っ先に目覚めて、自らの行いを恥じて、そっとその場が身を引いたのは人生の酸いも甘いも知り尽くした年長者、つまりお年寄りであったというのです。長い人生を生きてくれば、一つや二つぐらい人に言えないような過ちを心に秘めているものなのです。ですから、「あなたがたの中で罪のない者が・・・」というイエス様の言葉を聴いたとき、胸の中にしまっていた罪の記憶、古傷がちくりちくりと痛み出したのではないでしょうか。

 それに対して若者というのは、自分の正しさとか、力というものをまだ純粋に信じ切って、他人の忠告などに耳を傾けずにまっしぐらに進んでいくということがあります。その際、他人の罪を責めたり、過ちを批判するのも若者の特徴です。悪く言えば「青臭い」ということになるのでしょうが、それが若者の良さでもありますから、否定はしません。しかし、そういう彼らでありましても、少々時間はかかるでしょうが、自分の中に罪なしとは言えないということに気づかされる時が必ず来ます。

 結局、イエス様が「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われると、だれもそこにいなくなってしまったと、聖書は言うのです。老人も若者も、律法学者やファリサイ派の先生たちも、だれも「私には罪がない」と言える者はいなかったということです。これは大事なことです。「それならばあなたがたには他人の罪を裁く資格もないではないか」と、イエス様は仰るのです。

 しかし、ここで一つの疑問が起こります。確かに私達には人を裁く資格はありません。しかし、それでも悪いことは悪いと言っていかないと、世の中はたいへんなことになってしまうのではないでしょうか。みんな罪人なのだから、お互い大目に見てあげましょうというと言うだけでいいのでしょうか。泥棒も、殺人者もゆるしてやるというだけで本当に良いのでしょうか。それでは人間社会は成り立っていかないのです。

 イエス様はそういうことを仰っているのではありません。イエス様が仰るのは、他人のことをあれこれ言う前に、自分はどうかということを考えなさいと言うのです。自分も同じ罪人であるということを深く自覚した人間が他人の罪を裁くのと、自分のことを棚に上げて他人の罪を裁くのでは、まったく裁きの内容が違ってくるはずなのです。自分も同じ罪人であると自覚をしているならば、ただ他人を責めて、悪人と切り捨てたりて、賠償を要求するだけではなく、そこには同じ罪人として、一緒に罪の重荷を負おうとする優しさや、励ましというものが、必ず現れてくるはずだと思うのです。

 教会の中もそうです。教会の中でありまして、やはり目に余る罪を犯した人がいるならば注意や警告を発し、悔い改めを求めなければならないこともあるかもしれないのです。けれども、それはあの人は罪人だと言って切り捨てるのとは違います。同じ罪人として、イエス様のみ救いに与る兄弟姉妹として、共に罪の重荷を負う愛をもって忠告し、悔い改めを促すということが大切になってくるのではないでしょうか。

 
私も罰しない
 さて、ついにそこはイエス様と姦淫の女だけになってしまいました。イエス様は静かに声をかけます。

 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

 女はまだ震えながら、弱々しく答えます。

 「主よ、だれも」

 すると、イエス様は彼女に言われました。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 「わたしもあなたを罪に定めない」と主イエス様は言われました。律法学者やファリサイ派の人たちが彼女を罪に定めなかったのは、彼らには罪を裁く資格がなかったからです。しかし、イエス様は違います。罪を裁く権能をお持ちの御方として、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。これは罪の赦しなのです。

 みなさん、今までイエス様のご生涯を学んできまして、病の癒しの話が何度も出てきました。イエス様の救いとは人間の病の癒しではないかと思うぐらいです。しかし、今日の話は違うのです。病ではなく罪の赦しなのです。病というのは肉体の重荷だとすれば、罪は魂の重荷です。それからの解放が、罪の赦しなのです。

 罪とは何でしょうか。人の道に反することを罪というのです。泥棒は人の道に反するから罪です。殺人もそうです。今日の聖書の中では、一人の女性が姦通罪に問われています。今日、姦通罪を罰する法律は日本にありませんが、やはり人の道に反するものですから罪です。人の道というのは、私達が人間としてどう生きるべきかということなのです。聖書は、これについて三つのことを申します。一つは、あなたの造り主である真の神を礼拝しなさいということです。もう一つは、隣人を愛しなさいということです。そして三つめは神様がお造りになった自然を大事にしなさいということです。自分のエゴによって、この三つの事に反するような生き方をすることが、人の道に外れたことであり、罪なのです。

 実は、この罪こそが私達が生きていく上でもっとも深刻な重荷なのだと、聖書は教えています。私達が喜びがもてなかったり、希望がもてなかったり、生きる力が湧いてこないのは、病気のせいではありません。自分に嫌がらせをする周りの人々のせいでもありません。お金がないせいでもありません。自分自身の生きる道を誤っているからなのです。そして、その罪の重荷が魂にずっしりとのしかかっているからなのです。逆に言えば、この罪の重荷さえ取り除かれれば、たとえ病んでいても、たとえ多くの人が自分を理解してくれなくても、お金がなくても、私達の心は軽やかであり、平安であり、喜びや希望をもって生きる力を持つことができるのです。

 しかし、罪を取り除くというのは本当に難しいことなのです。罪は自分一人の問題ではありません。どんな小さな罪でありまして、神様を悲しませ、隣人を傷つけ、自然を破壊します。私達はどのようにして神様の悲しみを取り除き、隣人の傷を癒し、自然を元通りにすることができるでしょうか。聖書は、イエス様が私達の罪を赦してくださる。罪の重荷から私達を解放し、魂を自由にしてくださると教えてくれるのです。

 今、みなさんの魂は喜びに満ちておりますでしょうか。希望に溢れておりますでしょうか。良き力がみなぎっているでしょうか。もしそうでないならば、それは健康のせいでもなければ、仕事がうまくいかないせいでもなければ、貧乏のせいでもありません。罪の重荷が魂に重くのしかかっているからなのです。どうぞ、イエス様の罪の赦しの素晴らしい救いを経験していただきたいと願います。

 人は罪に弱き者です。罪に破れてしまう者です。罪に苦しみ、罪に泣くものです。しかし、この罪深き世に、キリストがおられることを、神のゆるしがあることを知って欲しいと願うのです。聖書は、キリストにある限り、罪に定められることがないと約束してくださいます。私どもの罪は、イエス・キリストのゆるしによってすっかり取り除かれるのです。そして、罪人としてではなく、神の子として生まれ変わり、神様の愛の中で生きることがゆるされているのです。ゆるされた喜びをもって、解放された魂をもって、新しい人生を生き生きとした喜びをもって生きる者になりたいと願います。
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