仮庵の祭りでのイエス
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書7章1-52節
旧約聖書 イザヤ書55章1-7節
仮庵の祭り
 今日のお話は、背景に「仮庵の祭り」というユダヤの祭りがあったことが記されています。どんなお祭りでしょうか。仮庵の祭りは、旧約聖書の出エジプトに由来するお祭りの一つで、過越しの祭り、五旬祭とならんで盛大に祝われたユダヤ三大祝祭の一つです。「仮庵」という言葉が表していますように、この祭りの間の七日間、人々は外にテントを張ったり、枝葉で仮小屋を建てたりして、そこに住んで過ごします。そして、昔、先祖たちが荒れ野に天幕を張りながら苦しい旅を続けて、その間、絶えず神様のご加護があったからこそ、今自分たちがこの土地に住み、また豊かな収穫を楽しむ幸せをいただいているのだということを思い起こして、神様に収穫の恵みを感謝するというお祭りでした。

 今でも、ユダヤ人はたとえマンションなどに住んでいましてもベランダなどにテントを張って、このような仮庵の祭りを守っているそうです。おそらく子どもたちはキャンプ気分で仮庵での暮らしを楽しく過ごすのではありませんでしょうか。
神の時
 さて、その仮庵の祭りが近づいてきた時のことです。イエス様のもとにご兄弟がやってきて、「こんなガリラヤの田舎くんだりで人々を教えて少々評判を得たとしても、とても成功とは言えない。成功するためには、エルサレムで認められなければならない。ちょうど祭りでたくさんの人がエルサレムに巡礼に来る時でもあるし、いっそエルサレムに行ってはいかがだろうか。そして、あなたの教えや、行っている業をたくさんの人に認めてもらったらどうだろうか」と、提案したというのです。

 この世で成功しようということならば、都会に出て自分を売り込みなさいというのは尤な話であります。けれども、イエス様のお働きはこの世で認められることが目的ではありませんでした。イエス様は彼らにこのようにお答えになります。8節、

 「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」

 「時」というのはチャンス、ある事をやるの絶好の時、であります。ご兄弟たちは「今が名を挙げるチャンスではないか」と言ったのですが、イエス様は「いや、わたしの時はまだ来ていない。あなたがただけで祭りに行きなさい」とお断りになったということなのです。

 聖書は、天下の物事や業にはすべて定められた「時」があると教えています。私たちの人生もそうです。生まれる時、死ぬ時。泣く時、笑う時。捜す時、見出す時。黙する時、語る時。戦いの時平和の時。人生にはいろいろな時があるのです。それは必ずしも楽しい、願わしい時ばかりでありませんけれども、すべて神様が私たちの人生に授けてくださった時であります。悲しみの時は悲しみを生き、悩みの時には悩みを生き、病の時には病を生きる。それが神の授けてくださった「時」を生きるということになります。どんな時であれ、その一瞬一瞬を神の時として一生懸命に生きるということが、命を大事にして生きるということなのではありませんでしょうか。

 著述活動で一般の方にも随分名前を知られている渡辺和子さんという、カトリックの修道女の方がおられます。ノートルダム聖心女子大学の学長を長年にわたって務めてこられた方でもあります。渡辺さんは三十歳までは仕事をバリバリとこなす優秀なキャリアウーマンでありましたが、思うところあって修道院に入られました。覚悟してお入りになったのですが、修道院の生活というのは毎日毎日、朝から晩までお手洗いの掃除、草取り、お料理の下ごしらえ、洗濯、アイロンがけといった単純労働の連続でした。若い子たちとは違って学歴もあり、社会で様々なやりがいのある仕事をこなしてきた渡辺さんはそれが辛くて、「もっとやりがいのある仕事をしたい。もっと知的な仕事、もっと自分の能力を生かした仕事をしたい」とイライラしたそうです。

 ある日、渡辺さんがいつものごとく食堂でテーブルのセッティングをしておられると、先輩の修道女から声をかけられて、「あなたは何を考えながらお皿を並べているのですか」と聞かれたそうです。まさか「つまらない、つまらないと思っております」とも言えなくて、「何も考えておりません」と答えますと、先輩の修道女はたいへん厳しい顔をなさって「あなたは時間を無駄にしています」と仰ったのだそうです。渡辺さんは、確かに心の中ではあまり面白くないとは思っていましたが、けっしておしゃべりをしていたわけでも、ダラダラと仕事をしていたわけではありませんでしたから、どうして「時間を無駄にしている」と言われたのか分からなくて困っていました。すると先輩の修道女が今度は笑顔で、「シスター、お皿を並べるんだったら、やがて夕食にお座りになる一人一人のために祈りながらお皿を置いたらどうですか。一枚一枚のお皿をつまらない、つまらないと思いながら置くのではなく、お幸せに、お幸せにと心を込めて置いていったら、時間は無駄にならない」と諭してくださったそうです。

 渡辺さんはこう言っておられます。「つまならいと愚痴や不平を言うのではなくて、どなたがお座りになるかわからないけれども、お幸せに、お幸せに、お幸せにと祈りながらお皿を置いていく・・・。その事によってお座りになった方がお幸せになるかどうか知りません。しかしたった一つ間違いのないことは、わたしが不幸せにならなかったということ、わたしがその十五分、二十分という単純な労働に費やされる時間をわたしらしく、わたししか使えない愛をこめて使うことができた、わたしの一生の間のその時間に意味ができてきたということです。時間の使い方は命の使い方なのです」

 イエス様は、ご兄弟に「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」とも仰いました。イエス様は一瞬一瞬を神様に授かった「時」として、神様の導きに従って生きておられましたから、エルサレムに行くということ一つとっても、いつでも自由に気の向くままに行くということはなさらなかったのです。それと同時に「あなたがたは別だ。あなたがたにはあなたがたの「時」というものが、いつでも神様によって備えられている。それを大切になさい」と、イエス様は仰っておられるのです。それは渡辺和子さんの仰るような意味で、時間を大切にするということだろうと言ってもいいのではないのでしょうか。

 さて10節を読みますと、イエス様の不思議な行動が書かれています。

 「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。」

 ご兄弟達が「エルサレムに行ったらどうか」と言ったときには、はっきりと「わたしは行かない」と言われたはずですが、ご兄弟達がエルサレムに行くと、イエス様も密かに身を隠しながらエルサレムに上って行かれたというのです。これでは、まるでイエス様がご兄弟を欺いたようにも見えます。
 しかし、ご兄弟は「エルサレムに行って自分を世にあらわしなさい」と言ったのですが、イエス様はまったく反対に人目を避け、隠れるようにしてエルサレムに行ったと言われています。つまり、ご兄弟のいうような意味ではエルサレムには行かないが、別の意味でエルサレムに上って行かれたということなのです。あくまでもイエス様は神様の導きによって歩んでおられるのだということが、ここで強調されているのだと思います。
イエスを巡る人々
 ともあれ、イエス様は結局エルサレムに行かれました。そして、隠密裡に過ごそうとされたと思うのですが、なんとエルサレムではイエス様は時の人でありまして、町の中でも、神殿の境内でも、イエス様の噂で持ちきりでありました。ユダヤ当局、つまり祭司長、律法学者、ファリサイ派といった人たちまでもが「あの男はいないか」と捜し回っておりますし、エルサレムの巡礼者たちは「イエス様はいい人だ」と言ったり、「いやいや、人々を惑わしているとんでもない男だ」と言ったり、まあ色々な意見があったようですけれども、ともかくイエス様のことがああでもない、こうでもないと囁かれていたというのです。

 祭りの半ば頃、イエス様はついに人々の前に公然と姿をあらわされました。そして、神殿の境内で人々に教え始められたのです。すると、イエス様を巡るうわさ話、論争、ユダヤ当局の動きはたちまちヒートアップしました。今日のみ言葉を読んでいて面白いのは、イエス様を巡って色んな人が色んなことを言っている、それを通して当時の人々が、イエス様をどのように見たり、考えてたりしていたのかということが分かってくることにあると思うのです。

 ある人々は、イエス様のお話しを聞いて、「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)と驚きました。

 しかし、ある人々は、やはりイエス様のお話を聞いて、「この人は悪霊に取り憑かれている」(20節)と言いました。

 またある人々は、イエス様が自分を逮捕し、殺そうとしているユダヤ当局をまったく恐れることなく、公然と人々に教えておられるのをみて、ついにユダヤ当局もイエス様をメシアと認めたのではないかと勘違いする人もいたといいます。(25-27節)

 もっと積極的に、「メシアが来られても、この人より多くのしるしをなさるだろうか」と言って、イエス様はメシアに違いないと確信する人たちもいました。(31節)

 そうかと思えば、イエス様がガリラヤ出身であると知っている人は、「メシアがガリラヤのような辺境地から出るだろか」と、否定する人もいました(42-42節)。

 ユダヤ当局の動きについても書かれています。彼らは何度もイエス様を捕らえようとしますが、それが「できなかった」、あるいは「しなかった」ということが繰り返されています。おそらく、イエス様を指示する人々が大勢いましたので、その面前でイエス様を逮捕したりしますと、大混乱が起きると思って躊躇したのでしょう。

 それだけではなく、イエス様が神様と共におられることを感じ取って、手が出なかったということもあったと言われています。45-46節

「祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。 下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた。」

 さらにユダヤ当局の中にも、イエス様を巡って内輪もめが起こって、イエス様を敵だとか、異端だとか、最初から決めつけないでちゃんと話を聞いてみるべきじゃないかという人も出てきたとうのです。

 要するに、大きく分けて、ユダヤ当局と群衆と二つ立場の人々が出てきますが、ユダヤ当局の間でも、群衆の間でも、イエス様を支持しようとする人々とイエス様を批判的な目で見る人々がいて、さらにそれぞれの立場に付和雷同する人々がいて、両者に分裂や、対立や、もめ事が起こったということが書かれているのです。
正しい判断をするためには
 そのような中、イエス様がいくつかのことを仰ってくださっています。すべてをお話しする時間はありませんが、二つのお言葉を取り上げてみたいと思います。一つは24節、「うわべだけで裁くのはやめ、正しい裁きをしなさい」ということです。

 人間はだれもで正しい判断をしたいと思っているに違いないのです。イエス様を「悪霊に憑かれているのだ」と言ったり、「ガリラヤからメシアが出るものか」と言ったりする律法学者やファリサイ派の人々だって、自分たちは正しいと思っているわけです。しかし、神様から見ると間違っているという結果になってしまいます。そのことに気がつかないのです。それは私たちも同じことでありましょう。正しくありたいと願っていても、本当にそれが神様の目から見ても正しいことだと言えるのかどうか、考え出したらきりがなくなってしまいます。

 では、どうしたら正しい判断をすることができるのでしょうか。イエス様は「うわべだけで裁くな」と仰いました。うわべというのは、自分の目で見ることができること、自分の耳で聞くことができることでありましょう。しかし、それだけでは真実を知ることはできないのだと言うのです。皆さんだってそうだと思います。あなたはこういう事をした、ああいうことを言った、そういううわべだけの事実で自分を判断して欲しくないと思うのではありませんでしょうか。自分の本当の姿は、もっと奥深いところに隠されているのだと思うのではありませんでしょうか。

 では、どうしたらうわべではない、自分の本当の姿を人に分かってもらえるでしょうか。心を開いて、自分の本当の姿を打ち明けるしかないと思うのです。逆に言うと、ある人を本当に正しく知ろうとするならば、まずその人を信じて、その人との間に信頼関係を築いて、その人が自分の本当の姿を打ち明けてくれる時を待つしかないと思うのです。

 私たちがイエス様を知ろうとする時、神様を知ろうとする時も、同じ事が言えるのではないでしょうか。自分はこう思う、ああ思うということは幾ら言っても、自分なりの考えに過ぎません。そうではなく、まずイエス様のお言葉を信じて聞いてみる、そうするとイエス様がどういう御方であるのか、分かってくるのだと思うのです。

 最後の方でニコデモがこう言っています。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」自分の印象ではなく、まず本人から真剣に聞くということが大事だと言っているのです。これが正しい判断、正しい裁きのために一番大切なことなのです。ところが、ユダヤ当局者たちはそれを一笑に付し、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」と聞き流してしまうのです。もしユダヤ当局者が真剣にイエス様に聞こうとすれば、イエス様がガリラヤではなく聖書の預言どおりユダヤのベツレヘムで生まれたことが分かったかもしれません。しかし、謙虚に聞こうとしないで、自分が正しいと思い続けてしまうところに大きな過ちがあるのです。

 
イエス様の招き
 それから、最後に37-38節のみ言葉についてもお話しをしておきたいと思います。

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」

 あまり時間がありませんから簡単に申しますが、イエス様は魂の飢え渇いた人々を「わたしの所に来なさい。あなたの渇きを癒してあげよう」と言って招いておられます。渇きを覚えてイエス様のところに来る人こそ、イエス様のうちにある神様の御霊の働きを見、また体験することができるのだということなのです。

 自分の知恵や経験をもって、イエス様を知ろうとするのではなく、自分の魂の渇きを満たす御方としてイエス様を知るということが必要なのです。そのようにイエス様を求め、イエス様を知ろうとするならば、イエス様がみなさんの魂を聖霊で満たしてくださるという事実をもって、イエス様が救い主であるというが明らかになるでありましょう。
目次

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