息子の癒しを願う父親
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書9章14-29節
旧約聖書 ミカ書6章8節
置き去りにされた弟子たち
 イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人のお弟子さんを連れになって、高い山の上にに登られました。その山の上で、この世のものとは思えない、すばらしい出来事が起こります。三人の弟子たちの見ている前で、イエス様の御姿が見る見るうちに変わり、お顔は太陽のように、お着物もまぶしい光のように白く輝きだしました。すると、そこに聖書を通してしか知るはずもない大預言者、モーセとエリヤがどこからともなく出現し、イエス様と親しくお話を始めました。最後には不思議な白い雲が立ちこめ、彼らをすっかり覆うと、雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という神様のみ声が聞こえたのです。それは、生きながらにして天国をかいま見るような神秘的で、清らかで、感動的な体験でありました。

 ところが彼らがそういう天にも昇るような至福の体験をしている間、麓にはイエス様についていくことが許されなかった九人の弟子たちがおりまして、彼らはペトロ、ヤコブ、ヨハネのような素晴らしい体験を出来なかったばかりか、厳しいこの世の現実に直面し、行き詰まり、窮地に立たされていたのであります。

 ある父親と息子が、彼らのもとを訪ねてきたのです。息子は口が利けず、しばしばてんかんにも似た症状を引き起こしていました。そのことで親子ともどものひどく苦しんでいたのです本当はイエス様にお会いしたかったのでありましょう。ところが、イエス様は山に登っておられて留守でありましたので、麓に残っていた弟子たちに救いを求めたのでした。

 最初、弟子たちは自分たちの力でこの親子を救ってやれるという自信があっただろうと思うのです。以前にお話ししましたように、彼らは一二使徒として特別に選び分かたれ、イエス様によって汚れた霊を追い出したり、あらゆる病を癒したりする権能を授かっていました。実際、町々村々に遣わされて、「イエスの御名によって命じる、悪霊よ、でていけ!」とやると、人々が悪霊から解放されたり、病を癒されたり、次ぐ次と奇跡が起こっていたのです。だから、この時も、イエス様は留守でありますが、イエス様から頂いた力をもってすれば、必ずこの親子は救われるという確信にも近い自信をもっていたに違いないと思うのです。

 ところが、どういうわけかこの時はうまくいきませんでした。彼らは、この親子を救おうと一生懸命にやってみたのです。しかし、何度やってみても駄目なのです。まるで髪の毛を切られたサムソンのように、イエス様がそばにいない彼らは無力でした。そのうち野次馬も集まってきました。しかも悪いことに、その中には日頃からイエス様と敵対していた律法学者もいました。そして、この時とばかりに弟子たちの失態をあざ笑い、無能ぶりを攻撃し始めたのです。弟子たちは焦り、動揺しました。イエス様の教えてくださったとおりにすれば出来るはずだと思い起こしながら、もう一度、もう一度とやってみるのですが、どうしても癒すことが出来ないのでした。弟子たちは完全に行き詰まり、窮地に立たされました。
教会の務め
 みなさん、イエス様と共に山の上に登り、この世の悲しみも苦しみもすっかり忘れるような至福の体験をしているペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちと、山の下に置き去りにされ、人間の悩み、苦しみ、悲しみに直面し、どうすることも出来ない無力さに喘いでいる九人の弟子たちの姿と、どちらの姿をみなさんは願うでしょうか? おそらくイエス様と共に山の上に行きたいと願う方も多いのではないかと思います。しかし、私は思うのです。この九人の弟子たちの姿にこそ、真実の教会の姿があるのではないかと。

 確かに置き去りにされた九人の弟子たちは、山上のすばらしい体験をしませんでした。光り輝くイエス様の姿もみませんでした。モーセとエリヤにも会いませんでした。その代わり彼らは人間を苦しめる悪霊の力を目の当たりにしました。必死になって救いを求めるあわれな親子にも出会いました。そして、彼らは一生懸命にこの親子の苦しみを感じ、言葉をかけて励まし、イエス様の愛と救いを分かち与えようとがんばったのです。そして、これこそ教会の姿なのです。

 教会は痛みも苦しみもない天国ではありません。むしろ、誰よりも人の痛みを感じ、苦しみを感じるところ、人の罪を悲しみ、人の無力さを知っているところ、それが教会です。そのような教会を、イエス様が願っておられるのです。山の上でペトロは、「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。ここに祠をたてましょう」といいました。しかし、それはイエス様の御心ではありませんでした。罪が満ち、悪霊が働き、争い合い、憎しみ合い、苦しみ悩んで、悲しみの尽きないこの世のただ中に、教会があること、それこそがイエス様の御心だったからです。イエス様は九人の弟子たちを軽んじたから、麓に置き去りになさったと考えてはいけないと思います。イエス様が山の上にいる間も、彼らによってイエス様の愛と救いがこの世の悩み苦しむ人々に注がれ続けるために、敢えて彼らを麓に残されたのです。

 たとえば、復活のイエス様が天国にお帰りになるときもそうです。弟子たちは、どんなにかイエス様と一緒に天国に生きたかったでしょうか。しかし、イエス様は弟子たちを置き去りにされました。ただ置き去りにされただけではありません。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」というとてつもなく大きな使命を残して、置き去りにされたのです。大宣教命令と呼ばれるこの使命と務めを引き継いで、この世にイエス様の愛と救いとを証しし続けていくのが教会であり、また教会の肢々として連なる私たちクリスチャンであります。

 ですから教会は、あるいはクリスチャンの生き方というのは、天国ばかりを追い求めていてはいけないのです。こういう言い方は、たしかに誤解を招きやすいかもしれません。もちろん天国は私たちの最大の希望です。イエス様は私たちを神の子としてくださり、天国の国籍を与えてくださいました。そこではもはや痛みも、苦しみも、悲しみもないと約束されています。この天国の約束にこそ、私たちの慰めもあり、希望もあるのです。しかし、それと同時に、なぜイエス様はすぐに私たちを幸せの国、天国に連れて行ってくださらないのか。なぜ、なおも苦しみや悲しみや争いの尽きないこの世に留まり続けなければならないのか。そのことの意味を考えなくてはならないのではないでしょうか。

 私たちが天国の子とされながら、今、天国ではなく、まことに悩みに満ちたこの世に生きているのは、天国に行く順番を指をくわえて待つためなのでしょうか? そうではありません。私達の苦しみや悩みに満ちたこの地上の生には、もっと積極的な意味があるのです。私達には、天国に行く前にこの世でやるべきことがあるのです。それは、この世にイエス様の愛と救いを証しすることです。この務めを果たすためにこそ、私たちは天国の子でありながら、なおこの地上に生きるように命が与えられているのです。

 中世のイタリアの聖者フランシスコはこのように祈りました。

 神よ、わたしを
 あなたの平和のために用いてください。
 憎しみのあるところに 愛を
 争いのあるところに 和解を
 分裂のあるところに 一致を
 疑いのあるところに 真実を
 絶望のあるところに 希望を
 悲しみのあるところに よろこびを
 暗闇のあるところに 光を
 もたらすことができますよう助け導いてください

 神よ、わたしに
 慰められることよりも 慰められることを
 理解されることよりも 理解することを
 愛されることよりも 愛することを
 望ませてください。

 わたしたちは与えることによって与えられ
 すすんでゆるすことによってゆるされ
 人のために死ぬことによって永遠に生きることができるからです。

 私たちは天国のイエス様を仰ぎ見るだけではなく、天国のイエス様のまなざしをもって、この世の現実を直視しなければなりません。痛みも苦しみもない天国ばかりを追い求めていてはいけないとは、そういうことなのです。イエス様の愛と救いに対する希望をもって、人間の罪や、悲しみや、苦しみに目に真っ正面から目を注ぐこと、それが教会の務めであり、イエス様の弟子であるクリスチャンの生き方なのです。
救いは主のみ業
 しかし、みなさん、今日の聖書を読みますと、九人の弟子たちは病に苦しむ親子のためにどんながんばっても、病を癒してあげることはできなかったとあります。

 教会は、この点においても彼らと同じ経験をいたします。癒しを祈っても癒されぬ時があります。慰めようとしても、かえって人を傷つけてしまうことがあります。自分の信仰について話をしようとしても、うまく話せない時伝えられない時があります。どんなにその人のことを思い、祈り、救いの手を差し伸べようとしても、うまくいかないことがあります。私もこれまで何度もそのような無力感に打ちひしがれてきました。おそらく、みなさんも、ご家族や、友人に対してそのような無力感を経験をなさったことがおありだと思うのです。

 しかし、最近、私はこれでいいのではないかと思うようになりました。それは決してどうでも良いという意味ではありません。人を救うのは私ではなく、イエス様であるということを、どんな時にも、どんな人に対しても信じていれば、それで良いということなのです。

 何年も前ですが、荒川教会に女の子を連れたお母さんが通い始めました。しばらくしてお話を聞くと、どうもご主人の暴力に悩まされているらしいのです。礼拝後にお話を聞いたり、電話でカウンセリングをしたり、私もずいぶんこの婦人のために祈りました。しかし、ある日から行方がしれなくなり、そのまま音信が途絶えていたのです。おそらくご主人から逃げてどこかに隠れておられたのではないかと思います。結局、私は彼女のために何もしてあげられなかったなという無力感だけが残りました。しかし、それから二年か三年してのことです。突然、彼女から電話がかかってきたのです。その声はとても喜びにあふれていました。そして、「国府田先生、私は今度のクリスマスに洗礼を受けることになりました。主人もすっかり変わって、一緒に教会に通っているのです。私はそのことをどうしても先生にご報告したかったのす」と言ってくれたのでした。

 本当にうれしい、そして慰められる電話でした。その時、わたしが何かをして人を救うとか、導くとか、クリスチャンにするなんて思うのはおこがましいことだ。救いは、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様にあるのだ、ということを思ったのです。だいたい、イエス様も、私たちに人を救えとは言っておられません。イエス様が私たちにせよとお命じになっているのは、隣人を愛することです。そして、御言葉を伝えることです。そして、祈ることです。それ以上でも、それ以下でもありません。

 今日のお話もそうなのです。九人の弟子たちは、この親子の苦しみを自分のものとして感じ、一生懸命に彼らの願いを叶えようとしました。しかし、できなかったのです。けれども、それで終わりではありません。そこに山から降りてきたイエス様がいらっしゃいます。そして、この親子に救いを与えてくださるのです。

 さらに、このような後日譚が記されています。弟子たちが、あとでひそかに「イエス様は、どうして私たちは失敗したのでしょうか」と尋ねたというのです。すると、イエス様は「祈りによらなければできないのだ」とお答えになったというのです。逆に言うと、弟子たちは「祈っていなかったのだ」ということになります。祈りらしきことはしたかもしれません。しかし、実はあなたがたは祈っていなかったのだと、イエス様は仰っておられるのです。

 祈りというのは、神様がしてくださることを求めることです。ところが彼らは自分でしようとした、だからイエス様はそう仰ったのです。自分の知恵、自分の力、自分の才能、自分の正しさ、それがたとえ神様からいただいた賜物でありましても、そういう自分のうちにある力に頼っていたならば駄目だということなのです。救いは神様から、イエス様から来るのです。ですから、祈りなさい。それしか方法はないのだということなのであります。
信じる者になれ
 最後に、21-24節についてお話をしたいと思います。

 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 イエス様は、この父親が「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言ったことに対して、もっとしっかりとした、確信に満ちた信仰を持ちなさいと促されました。イエス様は、私たちに力がないことをお叱りになりません。しかし、「イエス様にはできる」という信仰を持ちなさいといわれるのです。

 すると、子どもの父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだとあります。「信じます」という言葉と、「信仰のないわたし」という言葉は矛盾しています。論理的ではありません。しかし、おそらくみなさんもこの父親の言葉の意味を体験的にご存じだろうと思うのです。私たちの持ちうる信仰というのは、疑いや恐れが何一つない状態のことではありません。自分の心の中には疑いの嵐、恐れの嵐吹き荒れている。しかし、それにも関わらず、そのような疑いや恐れに負けず、イエス様を信じようとする気持ちに立とうとすること、そういう信仰ではありませんでしょうか。

 それで良しとしてくださるイエス様の優しさに、心から感謝をしましょう。そして、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という信仰を持って、この世の私たちの務めを、つまり愛すること、御言葉を伝えること、隣人のために祈ることに励んで参りたいと思うのです。
 
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