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イエス様と弟子たちの一行が、パレスチナの北の端にあるフィリポ・カイサリアという村に行かれたときのこと。弟子たちの中でもリーダー格であったペトロが、イエス様に「あなたはわたしの救い主です」という素晴らしい信仰告白をいたしました。そこでイエス様は、弟子たちのうちに本物の信仰が芽生えているということをお感じになったのでありましょう。ご自分の辿るべき運命というものについて、弟子たちにお話しになりました。16章21節
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
イエス様は、ご自分の運命を悲観されて、このようなお話しなさったのではありません。運命ではなく、本当は使命といった方がよいと思うのです。「迫害を受けて、十字架にかかるということは、わたしのの使命である。この使命を、神様への信頼に立ち、勇気をもって受け入れて生きることにこそ、私が世に生まれてきた意味があるのだ」ということを、イエス様は仰っておられるのです。
また、イエス様はただ殺されるということを言っているのではありません。たとえどんな苦しみを受けて殺されても、決してそのままでは終わらない。神様の御業というのは死を乗り越えてでも必ず成就するのでありまして、それをイエス様は「わたしは復活する」と言っておられるます。
けれども、肝心の弟子たちはそうは受け取ることができませんでした。イエス様が弱気になっていると思い、そんなことになったら自分たちはどうなるのだろうと不安におののいたでした。そこでペトロが再び弟子たちを代表してイエス様にお答えします。22節、
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」
ペトロはまったくの善意で、イエス様を励まそうとして言ったのかもしれません。が、イエス様はペトロをキッと睨みつけて「サタンよ、引き下がれ」と、たいへん厳しいお声でお叱りになったというのです。23節、
「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
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イエス様は「あなはサタンだ。悪魔だ」と、ペトロに言いました。「イエス様は少々厳しすぎるのではないか?」と思われる方も多いと思います。確かに、イエス様が弟子たちをお叱りになるのはこの時に限った話しではありませんが、これほどに激しい言葉で叱られるということはありませんでした。
イエス様がペトロを厳しく叱られたたのは、ペトロが神様のことではなく人間のことを思って、イエス様の進まれる道に立ちふさがろうとしたからだと言われています。しかし、ペトロはそれを心外に思うのではないでしょうか。ペトロはペトロなりに一生懸命イエス様のことを思い、心配して、「主よ、あなたが殺されるなんてとんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったのであって、イエス様の邪魔をしようなどという考えは、これっぽちもなかったのだと思うのです。
しかし、イエス様はそのペトロの中に、サタンの影をご覧になったのです。邪悪な考えなど何一つない心の中に、悪魔的な考えが潜んでいることがあります。ペトロも、他の弟子たちも、そして私たちも、まったくそのことに気づかないで、「何も悪気があってやったことではないのに」と思ってしまう。しかし、そこに危うさがあるのです。悪気がないぶんだけ、自分の中にある罪というものにまったく気づかないという危うさです。
先日、熊本県の黒川温泉のホテルが、元ハンセン病患者の宿泊を拒否したという事件が起こりました。これなんぞは、まさに「悪意がなかった」、「無知であった」で済まされないことがあるということを教えてくれる事件だと思うのです。みなさんも、この事件のことはお聞きになっていると思いますが、元ハンセン病患者のふるさと訪問事業ということで、熊本県が黒川温泉のホテルに22人の宿泊を申し込みました。ところが、宿泊者が国立ハンセン病療養施設の入所者だと気づいたホテル側が宿泊を拒否してきたというのです。これに対して、熊本県はホテル側に説得や抗議をしましたが、「ほかのお客さんのに迷惑がかかる」との一点張りで、ついに聞き入れられませんでした。宿泊拒否事件が明るみ出されて世間が騒ぎ出しますと、ようやくホテル側は慌ててハンセン病療養施設に行って謝罪をいたしました。しかし、その一方で、「勉強不足、認識不足であったが、差別の意図はまったくない」という弁明もしています。つまり「悪気があったわけではないので、ゆるしてくれ」というわけです。
私は、たとえ悪気がなくても、これは悪質な事件だと思うのです。差別を受けて、本当に悲しい、辛い思いをして生きてきた人々に対して、勉強不足であった、認識不足であったということ自体が、すでに差別的なことなんですね。本当に差別が悪いことだと思うならば、差別されている人たちの痛みについて無知であってはいけないのです。こういう差別がなくなるためには、差別されている人たちの痛みを一生懸命に感じようとしなければなりません。それをしないということは、彼等と一緒に生きようとしていないということであって、その差別の根が自分の中にあるということは、普段はまったく気づいていなくても、差別されている人たちと何らかの形で関わりを持ったなければならなくなったときに、差別の根というものが必ず表面化してしまうわけです。
これは人間と人間の関係における問題ですが、神様と人間の関係においてもこのようなことが起こります。ペトロは、イエス様に死んで欲しくなかったのです。それはイエス様を愛する人間として、まったく自然な感情です。その感情が悪いわけではありません。しかし、ペトロはイエス様を諫めたとあります。自分の思いを是とし、イエス様のお言葉を非としてしまった。たとえペトロにそのようなつもりがなくても、それがイエス様が行こうとする神の道の前に立ちふさがるようなものになってしまったのです。悪意がなくても、罪はあるのだということを私たちは忘れてはなりません。 |
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それに対して、イエス様は「引き下がれ、サタン」と、ペトロがびっくりするような荒々しい言葉で叱責します。この厳しさの中にこそ、イエス様の愛情があるのです。私たちには、たとえそんなつもりではなくても、神様の御心に反して間違った考えに取り憑かれたり、誤った道を行こうとしてしまう時があります。特に調子にのって、いい気になっている時にそういうことがあります。ペトロが、「あなたはわたしの救い主です」と立派な信仰告白をして、イエス様に誉められた直後に、今度はこのような失敗をやらかして叱られたというのは決して偶然ではないのです。人間はそういう時に、道を外れやすいわけです。しかも、なかなかそのことに気づきません。
そこに、「サタンよ、引き下がれ! あなたは間違っている」というイエス様の叱責がとんでくる。いい気になっている私たちの鼻をへし折るような、ハッとさせられるような事が身に起こるのです。もし、そのようなことがなかったら、私たちはどこまでも間違った道を突き進んでしまうに違いありません。しかし、イエス様は、そうならないように私たちを叱ってくださるのです。懲らしめてくださるのです。それで、ようやく我に返り、自分の思い上がりを反省し、遜ってイエス様に従う者とされるというのが、私たちの信仰生活ではありませんでしょうか。
今日は箴言3章をご一緒に読みましたが、この中に今申し上げたようなことがきちんと書かれています。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。」
(箴言3:5-7節)
「自分の分別に頼るな、自分を知恵ある者だと考えるな」と、忠告されています。思いがあるな、調子にのるな、いい気になるなということであります。では、どうすれば良いかと言えば、「常に主を覚えよ、主があなたの道をまっすぐにしてくださる」というのです。さらに、こんなことも言われています。
「わが子よ、主の諭しを拒むな。
主の懲らしめを避けるな。
かわいい息子を懲らしめる父のように
主は愛する者を懲らしめられる。」(箴言3章11-12節)
神様は、私たちをかわいい息子、娘として懲らしめてくださるのだというのです。それは、私たちが道を間違えないため、悪しき者、サタンに心を捕らえられないためです。ですから、私たちは、主から懲らしめを受けたときは、それを避けてはいけない。逃げようとしてはいけない。苦しいこと、辛いことを味わい、その中で神様の御心をしっかりと分かりなさいということなのです。
ちょっと細かい話しになって恐縮なのですが、イエス様は荒れ野で断食をなさっている時にもサタンの誘惑を受けまして、そのサタンに対して、「退け、サタン」(4章10節)と一喝なさいました。そして、今日のところでは、ペトロに対して「サタン、引き下がれ」と言われています。「退け」と「引き下がれ」には、日本語としてはたいした意味の違いはないと思います。でも、敢えていうならば、「退け」というのは、「どっかに言ってしまえ」という意味になります。それに対して「引き下がれ」というのは、「引き下がって、そこにおれ」という意味になるのではないでしょうか。
実は、原典を見ますと「引き下がれ、サタン」と文章には、「退け、サタン」にはない言葉、「私の後ろに」という言葉が加わっているのです。ペトロは、イエス様に対して出しゃばりすぎた、イエス様は神様の御心というものをお話しになっているのに、ペトロは自分の感情や願いをイエス様に押しつけようとした、だから、もう一度、私の後ろに引き下がって、そこにいなさいということなのです。
そして、それだけではなく、かつてイエス様が漁師だったペトロを弟子にするとき、「わたしにつきてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしよう」と言われました。この「わたしについてきなさい」という言葉の中に、今もうしました「わたしの後ろに」という言葉が原典にはあるのです。つまり、私の後ろに引き下がりなさい、そこがあなたの場所だというだけではなく、そこから私についてきなさいという招きがあるわけです。「引き下がれ、サタン」というのは、まことに厳しい言葉ですが、イエス様は決してペトロを退けたのではなく、自分の後ろからついてきなさい、従ってきなさいと、改めて従うように招いているということなのです。
私たちも、ペトロのように、イエス様から荒々しい叱責とか、拳固でゴツンとやれるようなことがあるかもしれませんが、そういう時、決しておへそを曲げてはいけないのです。その厳しさの中に、イエス様の愛情がありまして、さあ、もう一度原点にもどって、はじめの時のように私の後ろからしっかりとついてきなさいという招きがそこにあるということを知って欲しいと思います。イエス様はペトロを叱った後に、弟子たち全員に向かって、「私に従ってきなさい」という招きの言葉を語っているのです。
「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
この大切な御言葉については、次回、改めてお話しをさせていただきたいと思います。ただ一つだけ申し上げておきたいのです。それは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」というお言葉です。全世界と一人の人間の命というものを、イエス様は天秤にかけてお話しになっておられます。そして、一人の人間の命というのは、全世界をもってしても贖うことはできない、本当に重たいものなのだと仰っておられるのです。
イエス様は、私たちの命というものをそのように尊んでいてくださる御方です。それゆえに、時には厳しく叱り、私たちのうち一人も失わないで神様のもとにお返ししようとしてくださっているのです。どうぞ、そのようなイエス様を信じて、そのお言葉、招きに従う者でありたいとねがいます。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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