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今日はイエス様がご自分の受難と復活を予告されたというお話しでありますけれども、その前に今日のところとも関わってきますので前回までの復習をしておきたいと思います。
イエス様と弟子たちが、フィリポ・カイサリアというパレスチナの北の端っこにある村に行かれた時のことでありました。イエス様が弟子たちに向かって、「人々は私のことを何といっているかね」とお聞きになります。すると弟子たちは得意満面の顔をして、「そりゃ、先生の評判はたいしたものです。預言者エリヤだという人もいれば、エレミヤだという人もいるし、洗礼者ヨハネだという人もいます」と答えたのでした。
しかし実のところ、イエス様はそんな人々の評判をお聞きになりたかったのではありません。「なるほど、人々は私についていろいろなことを言っているようだが、ではお前たちは私のことを誰だと思ってついてきているのかね」と、イエス様は弟子たちに次なる問いを発せられました。実は、これこそイエス様が弟子たちに本当にお聞きになりたかった事だったのです。
イエス様について行くということは、ある意味では他人は関係ありません。自分自身の問題です。あの人が行くから私も行く、あの人が行かないから私も行かないということはきっかけにはなるでしょうが、いつかはちゃんとイエス様という御方を前にして、その一対一の関係の中で、「あなたは私をどう思うのか」という問いを突きつけられて、そこで一生懸命に考えに考えて答えを決めなければならないことなのです。イエス様は弟子たちの決心のほどを確かめられたのだと言っても良いと思います。
ところが、人のことならああだ、こうだと幾らでも達者なことを言う弟子たちでありましたが、いざ矛先が自分に向けられるとたちまちモジモジして何も答えられなくなってしまいました。そんな中で、「あなたはわたしの救い主です」と、まっさきに答えたのがペトロです。これは非常に意味のある告白でした。ペトロは、人々がイエス様を預言者の一人として見ていたときに、「あなたはわたしの救い主です」と告白したのです。
預言者と救い主とではまったく違います。預言者というのは、聖書の言葉で言えば「荒れ野で呼ばわる声」です。意気阻喪して人生の荒れ野を歩む人々に、あるいは間違った道を突き進んでしまっている人々に、あるいはまた行き詰まって生きる道を失った人々に、「神様の道はあそこにある」、「あなたの道はあそこにある」と教えてくれる声、それが預言者という存在なのです。預言者というのは、そのように私たちの人生に、道を教えてくれたり、渇いた魂を潤す泉のありかを教えてくれたり、灼熱の太陽をさける木陰を指し示したりしてくれるたいへん有り難い存在です。エリヤも、エレミヤも、洗礼者ヨハネも、そのように人々の魂に慰めを与え、希望を与える本当に偉大な声でありました。
しかし、彼らはあくまでも道そのものではなく、泉そのものではなく、木陰そのものでもなく、そのありかを教える声に過ぎない者でもありました。それに対して、「あなたは、荒れ野の中で見いだした私の道です。泉です。木陰です」と言い切ったのが、ペトロの「あなたはわたしの救い主です」という告白であったわけです。イエス様は荒れ野の声ではなく、荒れ野で叫ぶ預言者たちの声の内容そのものであったということです。
イエス様はこのペトロの告白をとても喜ばれまして、「あなたにそのように言わしめたのは人間の知恵ではありません。神様があなたに与えてくださった知恵、素晴らしい神様の知恵ですよ」と仰ってくださったのです。
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イエス様は、ペトロの信仰告白を聞いて、弟子たちのうちに確かな信仰が芽生えているという手応えをお感じになったのだと思います。そこで、「そろそろ話してもいいだろう」というお気持ちになれまして、ご自分の辿る運命について弟子たちにお話しになりはじめたというのです。21節
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
イエス様は、このようにご自分の運命というものを知り、それを勇気をもって受容して生きておられる御方でした。運命というと、「これも運命だと諦めよう」とか、「残酷な運命だ」というように、とかく悲観的な考え方をする人が多いのです。しかし、運命を嘆く前に、その運命を定めている神様という御方をきちんと知るということが大切ではないでしょうか。
神様が残酷であるなら、運命も残酷になりましょう。神様が気まぐれであるなら、運命も気まぐれになりましょう。しかし神様は御心は、如何なる時にも徹頭徹尾、必ず深い愛で貫かれているのだと、イエス様は教えてくださいました。運命というのは、その愛なる神様が私たちに与えてくださる人生でありますから、残酷のようでも豊かな恵みが貫かれており、気まぐれのようでも考え抜かれており、無意味のようであってもちゃんと意味があるのだということなのです。
しかし、何でもかんでも運命論的に、なかば諦めをもって肯定してしまうということではありません。どんなに大変であっても、どんなに時間がかかっても、変えていく努力をし続けなければならないことがあると、私は思います。しかし、その上で、すべてが私たちの願い通りに作り上げていくことができるわけではないということも謙虚に、勇気をもって受け入れていく必要があるのです。
二十世紀のアメリカに、ラインホルド・ニーバーという神学者がおりました。信仰に生きるということと、この世の現実に生きるということが、どのような関係をしうるかということを一生懸命に探求し、現代的キリスト教に多大な影響を与えた人です。その人がこのような祈りの言葉を残しています。
「神よ、変えることのできないものを受けいれる潔よさ、
変えることのできるものを変える勇気、
そして両者の違いを見分ける知恵を、
私たちにお与えください。」
私たちが努力しなければならない問題と、受容しなければならない問題を見分ける知恵ということを言っているのです。結局、この知恵が重要なのでありましょう。
スウェーデンの福音歌手レーナ・マリアさんという方がおられます。レーナ・マリアさんは、生まれながらの障害者で、両手がありません。また片足が子供のような足で短いんです。そういう体でこの世に生まれてきたのです。もし皆さんが悲観的な運命論者であったら、彼女を見て「神様ってなんて残酷なの!」と嘆かれるに違いありません。しかし、私も二度ほどコンサートに行きましたが、彼女は本当に素敵な笑顔で、「わたしの人生は、とってもいい人生です」と言うのです。それは決してきれい事ではなく、本当に彼女からその喜びがあふれてうて、コンサートに行った人は、みんな彼女の幸せをお裾分けしてもらって喜びや感謝の心に満たされて帰っていくんですね。彼女は、こんな文章を書いていました。
「神は全能ですから、私の手や足を造り変えることもおできになるはずです。でもそうならさらず、私に障害を残しておかれるのは、人間にとって第一に大切なものは、体の健康よりも、魂の健康であることを明らかにするためだと思っています。私はそんな神様を讃えるために、よくコンサートで旧約聖書から作曲した『詩編第二三編』を歌います。
主はわたしの羊飼い
わたしには乏しいことがありません。
聴き手は、『この人は両手がないのに、あんなに喜んで「わたしには乏しいことがありません」と歌っている』と驚くかもしれません。
私は心からこの歌を歌うことができます。神様は私に手の代わりに心の中の豊かさを与え、私が自分を愛せるようにしてくださいました。だから私には、このような体で生きることの意味を、いつも見つけるゆとりがあるのです。
私は生涯を持っていたためにたくさんの友人を得、パラリンピックに出場し、歌うことも、海外への旅行もできました。もちろん、コップ一杯の水をこぼさずに飲めるようになるのさえ、普通の人には考えられないくらい時間がかかりました。でも、そのお陰で忍耐強くなり、いろいろな知恵を与えられたのです。
このように私が生きるのに必要な力や喜びは、すべて神様が与えて下さるのが分かったので、まさに「乏しいことはない」のです。だから、神様に、『この体をどうしてなおしてくれないのよ』などと言って腹を立てたり、恨んだりしたことは一度もありません。いい人生だと思っています。」
たしかに、運命というのは自分ではどうすることもできない厳しい現実であるかもしれません。もう生きていけないとさえ思うかも知れません。しかし、「神は愛なり」ということを知りますと、いかなる運命も神様の愛によって考え抜かれた私の人生として、勇気をもって肯定することができ、希望を持って人生を受け入れることができるようになるのです。
そうすると、そこからはただ受け入れるだけではなく、変えることができるものは変えていこう、チャレンジできることにはチャレンジしていこうという人生に対する前向きな気持ちが起こってきます。自分を支配するその大きな力の中に、残酷さをみるのか、それとも神様の愛を信じるか、それが問題なのです。それを信じて、あなたの人生を肯定し、自分の人生としてきちん受け入れる時、他の人とは違うかもしれませんが、けっしてクヨクヨすることなく自分らしい人生を胸を張って生きていくことができるようになるのではないでしょうか。
ある時期、私は自分が牧師として本当に適切な人間だろうかと悩み、挫折感に打ちひしがれて暗い心の道を彷徨ったことがあります。その頃は、まだ若かったし、理想に燃えていたと言っても良いと思います。しかし、自分が思い描く牧師の理想像が、必ずしも自分の現実の姿ではないのです。「牧師とはこうあるべだ」と思っても、自分はそのようになれないのです。自分の無能さを、無力さを、臆病を呪いました。もう牧師をやっていけないというぐらいに思いました。しかし、その時に神様が教えてくださったのは、「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」ということであり、また文語訳で申しますが、「汝らのうちたれか思い煩いて身の丈一尺を加え得んや」ということでした。
私は、この神様の教えによって、一つは「自分が牧師になろうとしたのではなくて、神様がわたしを牧師にさせようとしておられるのだ。」ということに気づかされました。それならば、自分に資格があるとかないとか、そういうことを自分で云々するのはおかしいのです。神様がしなさいというからには、何か私にできることがあるからだろうと、そんなふうに考えられるようになったのです。それからもう一つは、「人間は誰にでも身の丈というものがある、それは神様が一人一人に決めて下さったものなんだ、それを足りない足りないと背伸びしようとすることが間違いなのだ」ということに気づかされたのです。このように神様が与えてくださった自分の姿とか、力とか、人生というものを、神様の贈り物として受け取ることができた時、私は自分というものから解放されて、すごく心が軽くなりました。その心の身軽さがあるからこそ、無力な私でも、なんとか挫けないでやってこれたのではないかなと思います。
さて、もう一度、イエス様に目を向けてみたいと思います。イエス様は自分が神様の御心に従っていけば、必ず迫害者によって殺されることになるということを弟子たちに打ち明けたというのですが、それは決して悲観的な思いで告白しているのではないのです。神様が与え賜う十字架を負うことが、私がこの世に来た目的であり、意味であり、価値でもあるのだという確信をもって、「わたしは殺されることになる」と伝えているわけです。
ですから、殺されるだけではなく、復活するということも、イエス様は信じておられました。神様の御旨ならば、たとえ殺されても敗北ではないのだ。それは神様の御心を貫くことであり、必ず最後に神様の勝利が訪れるのだと信じておられたわけです。
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ところが、イエス様の口から「私は殺されることになる」などと言うことを聞いた弟子たちは、ただただ大きなショックを受けてオロオロするばかりです。そこで登場するのが、先ほども井の一番に「あなたはわたしの救い主です」と告白して、イエス様から祝福されたペトロでした。ペトロはイエス様をわきにお連れして、「主よ、なんていうことを仰るのですか! そんなことがあってはなりません」と、主なるイエス様をお諫めしたというのです。するとイエス様は非常に厳しい顔をなさって、「サタンよ! 引き下がれ」と、ペトロを一喝されたというのです。
前回のお話しと合わせて読みますと、イエス様の弟子たちというはモジモジしたり、オロオロしたり、あるいは天にも昇るようなお褒めの言葉を頂いたかと思えば、地獄に突き落されんばかりに厳しく叱られたりと、イエス様の弟子たちですらこんな風であったのかと、いささか驚くのです。あんなにイエス様の側にいて、いつもいつもイエス様の教えを受けていながら、この程度の信仰であったということなのです。
ただし、大切なのは弟子たちがこのように誉められたり、叱られたり、たちつくしたり、うろたえたりしながら、なおイエス様のお側に居続け、そこで信仰を成長させ、やがて聖霊を頂いて、本当に素晴らしい働きをする者になっていったということです。ここに、私たちの希望もあるのではないでしょうか。
「あなたはわたしの救い主です」という信仰は、たとえその後で「サタンよ、退け」と叱られても、決して偽物ではなく本物だったと思うのです。しかし、到達点ではなかったのです。私たちの信仰生活もまったく同じですね。決して偽物の信仰ではないのだけれども、いろいろな弱さや悪魔的な性分が頭をもたげてくるということがあるのです。だからといって、すべてを否定することはありません。過ちを犯す時がある、挫けるときがある、しかしどんな時にも、イエス様を離れないで清めの道を歩み続けるということが本当の信仰だと思うのです。
今日から始まる一週間の生活もそうです。私たちは何の欠けもない信仰者ではありません。信仰者でありながら、立ちつくしてしまうこともありましょう。うろたえてしまうこともありましょう。我が儘がでる時もありましょう。こうして神様や人に罪を犯すことがあるのです。では、私たちは信仰者と呼べない人間なのか、私たちの信仰は偽物なのかと言えば、そうではありません。
ペトロは、イエス様からサタン呼ばわりされましたが、破門されたわけではありません。弱さを、破れをもって、どこまでもイエス様についていく信仰、そして清めの道を歩み続ける信仰、それが本当の信仰なのです。どうぞ、そのような信仰をもって、一週間の歩みをイエス様と共に過ごしたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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