ペトロの信仰告白A
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書16章13-20節
旧約聖書 エレミヤ書23章5-6節
 人々のイエス様像
 今朝は「ペトロの信仰告白」というお話しの二回目です。イエス様と弟子たちがフィリポ・カイサリアというパレスチナの北の端っこにある小さな村にいらっしゃった時のことです。イエス様はお弟子さんたちに「人々は私のことを何と言っているかね」とお聞きになりました。すると、お弟子さんたちは口々に答えます。14節、

 「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」」

 イエス様に答える弟子たちは何だか嬉しそうです。自分たちが側でお仕えしているイエス様が、このように名だたる預言者たちと並び称さるということに、大いに満足感を覚えていたのでありましょう。では、イエス様もそのような人々の評判が気になさったということなのでしょうか? そうは思いません。イエス様がお知りになりたいのは人々の評判ではなく、人々の理解なのです。

 イエス様はたくさんの病人を癒されましたから、ある人々はイエス様を偉いお医者さんだと思っていたかもしれません。また神さまのお話や天国のお話しをたくさんしてくださいましたから、立派な聖書の先生だと思っている人々もいたかもしれません。蔑まされ、虐げられていた人々は、「あなたも神さまの子なのだよ」と自分をも一人の人間として扱ってくださるイエス様のいう愛に触れて、イエス様を愛の権化のように思ったかもしれません。逆に、イエス様に人気を奪われ、「中身のない形式主義だ」と批判された従来のユダヤ教のラビたちは、あれはペテン師だ、偽教師だと高をくくっていたようです。このようにイエス様はたったお一人の方であっても、人々の思い描くイエス様像というのはたくさんあったのです。

 弟子たちは評判の高さに満足をしていましたが、イエス様はいくら評判が高くても人々の理解が十分ではないということを少し残念に思われたようです。イエス様に対する理解が間違っていれば、イエス様と正しい関係も結ぶことはできません。イエス様と正しい関係を結ぶことができなければ、神さまと正しい関係を結ぶことができません。神さまと正しい関係を結ぶことができなければ、神さまの御心がその人に届きません。その結果、その人の生き方は終始的はずれなものになってしまうのです。 
ペトロの信仰告白
 そこでイエス様は、今度は弟子たちに向かってお聞きになりました。15節、

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 「あなたはどう思うのか」と聞かれて、先ほどまで「あの人はこう言っている」「この人はこう言っている」と賑やかだった弟子たちはハッとして静まりかえってしまいました。誰でも人のことをあれこれ言ったり、憶測するのは得意です。しかし、「自分の気持ちや生き方がどうなっているのか?」と批判的に問い、真剣に考えてみることは案外不得手なのです。

 だから、弟子たちも口ごもってしまったのでしょう。しかし、ペトロが沈黙を破り、真っ先に口を開いて答えました。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」

 「メシア」というのは、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。これがギリシャ語に訳されますと「キリスト」になります。「キリスト」というのはイエス様のお名前だと思っている方も多いのですが、実はそうではありません。旧約時代のイスラエルでは、王様、祭司、預言者は、頭の上から油が注がれて、神さまの選び人、神さまの特別なる僕にされました。そのように油注がれた人のことをヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」と言ったのです。そこから「メシア」、つまり「キリスト」は、来るべき救い主を意味するようになりました。

 今日、私達はイエス・キリストとまるで一つのお名前のようにお呼びしています。しかし、当時はイエス様と「キリスト」はまだ結びついていませんでした。それを最初に結びつけて、「イエス様がキリスト(メシア)です」と言ったのが、ペトロなのです。本当に素晴らしい、歴史的な信仰告白がここでなされたのでした。クリスチャンというのは、このペトロの信仰告白に声を合わせ、心を合わせて、「イエス様がキリストです」ということを告白しながら生きていく者なのです。

 それは教会の中だけでの話しではありません。9月に北山秋男さんの召天1周年の記念会が北山家で行われました。墓前で礼拝を捧げた後、お昼のもてなしがあったのですが、その際、列席者のみなさんに奥様の克子さんがクリスチャンとして本当に素晴らしいご挨拶をなさったのです。教会の中で、あるいはクリスチャンの集まりの中であるならば、神さまの恵みをお証しすることに何の遠慮もいりません。しかし、そこにいたクリスチャンは北山さんと私だけでした。そういうところで、北山さんは列席者の皆さんに丁寧に謝辞を述べられた上で、実は自分は毎週日曜日に教会に行っていて、この一年間支えられたのは本当に神さまの恵みとと教会のお陰であったのだということを臆することなく、しかし気負うこともなく、ごく自然な語り口でお証しをなさったのでした。神さまの恵みを語る私はそれを聞きながら、これこそがイエス様の求めおられる信仰告白なんだなと思ったのです。

 「あなたこそメシアです」というペトロの信仰告白を聞きまして、イエス様はたいそうお喜びになりました。そして、こう言われるのです。17節、

 「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」

 イエス様が、ペトロに「あなたは幸せだ」と仰っておられることに心を留めたいと思います。私は、北山秋男さんの召天1周年の帰りに、北山さんの車に乗せて頂き、その中で「先ほどのご挨拶は本当に素晴らしかったです」と正直な感想を述べたのです。すると、北山さんは「本当に感謝をしているから、どうしてもそのことを皆さんにお話ししたかったのだ」とお答え下さったのでした。

 なるほど信仰告白というのは、そういうものだと思うのです。つまり、一生懸命に勉強したら立派な信仰告白ができるというものではありません。義務感や使命感では口先だけの信仰告白に終わってしまう可能性があります。心からなる信仰告白というのは、神さまから頂いた幸せを感謝しているところから生まれるのではありませんでしょうか。もっと言えば、神さまが私たちに恵み深く、力強くあってくださることによって、私達の心に本当の信仰を芽生えさせてくださるということなのです。

 ですから、イエス様は立派な信仰告白をしたペトロに、「あなたは幸せな人間だ。あなたにその信仰告白を与えてくださったのは、神さまなのだ」と仰るのです。
信仰告白の上に
 信仰告白が神さまから恵みを頂いたことの結果です。だからと言って、信仰告白ができない人が神さまの恵みを受けていないということにはなりません。たとえば神さまの恵みをすぐに忘れてしまう人もいます。神さまの恵みに気づかない人もいます。そういう人は、神さまの恵みによって何不自由のない暮らしをしていても、少しも感謝の心がないのです。当然、そこから神さまへの信仰告白が生まれてきません。

 その反対に、大きな苦難の中にありながら、神さまの恵みを見ている人もいます。他の人から見れば何かも足りないように見えても、誰よりも神さまに感謝している人がいます。その人は、他の人には見えないでいる神さまのお働きがしっかりと見えているのです。このように、神さまの恵みを受けている者がみな同じように信仰告白をするわけではないのです。恵みを知ること、恵みを忘れないということこそが大事なのです。

 ですからペトロからしてみれば、信仰告白というのは神さまの恵みを頂いた者として当然の心を言い表したに過ぎないのですが、神さまからしてみれば、よくぞ私の恵みを漏らさず受け止めてくれた、あなたの信仰は立派だということになるわけです。こうして信仰というのは決して私達が誇るものではありませんが、神さまにしてみれば祝福の基となるわけです。そこでイエス様は、立派な信仰告白をしたペトロに、次のように申しました。18-19節

 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 イエス様は、「あなたはペトロ」と言われました。実はペトロというのは、イエス様がつけたあだ名でありまして、岩という意味があります。つまり、イエス様は「あなたは、わたしがつけたペトロというあだ名のように、本当に岩のような人になるだろう」と言っておられるのです。

 そして、次の言葉が問題です。「わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてる」と、イエス様は仰いました。実は、ここはカトリック教会と私達のプロテスタント教会で解釈が大きく分かれるところです。カトリック教会では、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」という言葉を、イエス様は十二使徒の中でもペトロを選び、ペトロに特別な権能をお与えになったのだと、解釈するのです。分かりやすく言えば、ペトロが教会の初代教皇に任命されたのだという解釈です。現在のヨハネ・パウロ二世は264代目のペトロの後継者、つまり教皇ということになります。

 しかし、私たちプロテスタント教会の解釈は違います。イエス様は決してペトロを教皇に任じたり、ペトロに特別な権能を与えたのではなく、ペトロのなした信仰告白の上に教会を建てると言われたのだと、解釈をするのです。ペトロのように、「イエス様はメシアである」と告白する人々の上に、わたしの教会を建て、天国の鍵を授けると言われたのだというわけです。

 ですから、私たちプロテスタント教会は、教皇(法王)という地位を認めていないのです。ペトロはもちろんのこと、現在のヨハネ・パウロ二世もたいへん立派なキリスト者です。カトリック、プロテスタントと問わず、世界中のクリスチャンの霊的な指導者の一人だと言っても良いとさえ思います。しかし、それは唯一の指導者という意味ではありません。またすべての教皇がそのように立派であるという意味でもありません。しかし、カトリック教会は、ペトロの後継者である教皇はキリストの代理人であり、全キリスト教徒の最高指導者だと信じているのです。

 私たちプロテスタント教会は、そういう意味での教皇を認めないのです。教会はペトロの上に立っているのではなく、あるいはその後継者である教皇の上に立っているのではなく、「イエス様はメシアである」という信仰の上に立っているのだというのが、私達の教会信仰なのです。私なりにいわせていただければ、やはり幾らペトロが立派な信仰であっても、人間という弱き者の上に教会が建つというのでは、あまりにも教会が頼りないものになってしまうと思うのです。

 イエス様は、「陰府の力もこれに対抗できない」と言われました。陰府というのは地獄のことだと誤解する人がいるのですが、そうではありません。人は死んだら誰でも陰府にいくのです。イエス様も十字架にかかって死なれ、陰府に行かれたのです。しかし、イエス様は三日目に復活なさいます。まさにイエス様は陰府の力に打ち勝たれたのです。「陰府の力もこれに対抗できない」というのは、死の力に対する勝利ということでありましょう。しかし、ペトロは死ぬのです。それで後継者が現れる。しかし、その後継者もいつかは死ぬのです。こうして連綿と続くことが、果たして「陰府の力も対抗できない」ということなのでしょうか。むしろ、人間の弱さ、限界というものを現しているようにしか思えないのです。

 ところが、信仰というのは違います。教会は誕生するな否や300年に及ぶ大迫害を受けました。多くのクリスチャンが殉教しました。しかし、それにも関わらず信者は増え続け、やがてローマ帝国の方がキリスト教にひれ伏すようになるのです。その後の2000年の教会の歩みもそうです。迫害によって、あるいは堕落によって、教会は幾度も試練を経験しました。しかし、必ずそこにイエス様に対する真の信仰を言い表す人がいて、その信仰によって教会は必ず建て直されてきたのです。

 荒川教会もそうです。記念誌の準備のために教会の歴史を調べていますけれども、勝野先生が隠退するまでの最後の二年ぐらいは、先生がご病気をして入院をしたり、長期静養をなさったり、説教も先生が果たされたのは半分ぐらいじゃないかと思います。ところが、それでも教会はつぶれないし、毎週の礼拝を一度も欠かさず守り続け、しかも受洗者まで与えられているのです。こういうことは人間を土台とした教会では、とても考えられないことではありませんでしょうか。たとえば、荒川教会が勝野先生という人間に頼っていたら、勝野先生が弱れば教会も弱ってしまうのです。

 ところが、イエス様はメシアである、救い主であるという信仰を基とし、その信仰さえ失わなければ、たとえ人は弱くなっても教会は建ち続けることができるのです。それが陰府の力に負けない教会の土台ということではないかと思います。
天国の鍵
 最後に、「天国の鍵を授ける」というイエス様のお言葉について考えたいと思います。天国の鍵とは、天国の門を開けたり、閉めたりする鍵ということです。つまり、それは教会が人の罪の赦しを語ったり、人の罪の裁きを語ったりすることができるということです。

 しかし、それもまた「イエス様はメシアである」という信仰を土台にしてのことであると言えると思います。教会が人の罪を裁いたり、赦したりする基準は、決して人間的な感情であってはなりません。またこの世の法律であってもいけません。「イエス様は救い主である」という信仰をもって、人の罪を裁き、赦すのです。それゆえに、この世の法律でどのように裁かれようと、また感情的にどんなに赦せない人間であっても、「イエス様は救い主である」という信仰を受け入れる人には、教会は罪の赦しを語ることができるのです。そして、その人を罪から自由にして、その人のために天国の門を開けることができるということなのです。

 みなさん、イエス様を救い主として信じる信仰は、まず私たちの個人の生活に大きな幸いをもたらします。そして、それだけではなく、教会に確かな土台をもたらします。さらには、世の罪に悩める者たちに罪の赦しを語るという素晴らしい福音をもたらすのです。何と大きな祝福でありましょうか。イエス様を救い主として信じる信仰の力をもって、この一週間の旅路を歩んで参りましょう。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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