ペトロの信仰告白 @
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書16章13-20節
旧約聖書 列王記上18章20-40節
イエス様の問いかけ
 イエス様と弟子たちは、フィリポ・カイザリアという村にいらっしゃいました。そこでイエス様は、「人々は私のことを何者だと言っていますか」と、弟子たちにお尋ねになったというのです。

 これまでイエス様はたくさんの不思議な業をして病気を治したり、悪霊を追い出したり、五つのパンで五千人の人々を満腹させたり、嵐を鎮めたりしてきました。また、神さまの愛や天国について良いお話しをたくさんを聞かせてくださいました。けれども、考えてみますと、イエス様はご自分のことについては一切何も仰っておられていません。たとえば「私は救い主である」とか、「神の子である」とか、そういうことは誰にも仰っておられないのです。いったい、人々はイエス様をどういう御方だと見ていたのでしょうか。

 弟子たちはイエス様の質問に答えて、当時の人々の間で囁かれていたイエス様の評判について報告しました。14節

 「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤは、いずれも聖書に登場する偉大な預言者たちです。弟子たちは、自分たちのお師匠さんがそのような聖書のスーパースターたちと並び評されていることを誇らしげに思いながら、得々と人々の評判について話したに違いありません。

 しかし、実を言うと、イエス様の評判は他にありました。律法学者やファリサイ派の人々、つまりユダヤ教の従来の教師たちは、「あれは悪霊に憑かれているのだ」とか、「罪人たちと一緒に大酒を飲んでいるふしだらな男である」とか、「モーセの律法を冒涜している」とか、かなり辛辣な批評を下していたのでした。あるいは、イエス様に病気を治してもらった人たちの中には、「イエス様はすばらしいお医者さんだ」と思うだけの人がいたもしれませんし、イエス様のお話しを聞いた人々の中には「頭の良い先生だ」と思うだけの人がいたかもしれません。

 このようにイエス様が何者であるかということについては、人によっていろんな考えがあったのです。それは、今日も同じです。「あの人はこう言っている」、「この人はこう言っている」、「教会の先生がこう言った」、「本にはこう書いてある」・・・そういうことがあるのです。そういうことを勉強することも大事です。人の様々な考えや意見を聞く事は、ある意味で本当に良い勉強になるのです。しかし、人の考えを知るだけで終わってはいけません。

 「では、あなたがたは私を何者だと言うのか」と、イエス様は弟子たちにお尋ねになります。あなたはどうなのか、その答えをこそイエス様はお聞きになりたいというのです。それは今でも同じです。「私のことをどう思っているのか? あなたにとって、私はどういう存在なのか? 」と、イエス様は私たち一人一人に問いかけ、その答えを求めておられるのです。まず私たちは、そのようなイエス様に問いに気づくということが大事だと思うのです。
イエス様の愛を知る
 みなさんは、イエス様がどうして弟子たちに「わたしのことをどう思っているのか」とお聞きになったのか、その理由がお分かりでしょうか。それは、イエス様が弟子たちを愛しておられたからです。

 イエス様は、人の評判を気にするような御方ではありません。弟子たちの心を疑っているのでもありません。けれども、愛というのは、お互いに確かめ合いたいものなのです。親子でも、夫婦でも、恋人同士でも、友達同士でも、そういう気持ちが必ずあるのではないでしょうか。日本人は照れ屋ですから、面と向かって「愛している」なんていうことは滅多にいいませんけれども、マメに連絡を取り合うとか、何かにつけ相談してくれるとか、誕生日や結婚記念日を覚えていてくれるとか、そういうことを通してお互いの気持ちを確かめ合いたいという気持ちをもっているのです。

 もし、相手が「わたしのことをどう思っているのか」ということが分からなくなってしまったら、どんなに気をもむことでありましょうか。あるいは、それが自分の期待とはまったく違うものであったなら、どんなに悲しい思いをすることでありましょうか。そういうことからしますと、イエス様が私たちのことを愛してくださっているならば、必ず「私のことをどう思っているのか? あなたにとって、私はどういう存在なのか?」ということを私たちに問いかけ、その答えをお聞きになりたいと願っておられるに違いないのです。それに気づくとき、私たちはイエス様の愛を知るのです。

 今日、私たちは、弟子たちのようにその問いかけを直接イエス様の声として耳で聞くことはできません。けれども、たとえば聖書を読んでいる時に、それを遠い昔話として読んでいたら決して分かりませんけれども、今聖書を通してイエス様が「あなたはどう思うのか」と、私に問いかけてくださっている、その答えを求めておられるということに気づくならば、その時イエス様が私を愛してくださっているという事実を知るのです。

 教会でこのように説教を聞いている時もそうです。国府田牧師のお話しとして聞いている限りはそれは分かりませんけれども、今説教を通してイエス様が「あなたはどう思うのか」と、私に問いかけてくださっているということに気づくならば、私たちはイエス様の愛を知るのです。

 あるいはまた、人生には様々な試練があります。そういう試練をただ「いやだ、いやだ」と言っていたら分かりませんけれども、その試練を通してイエス様が「あなたにとって私は何者なのか」と問いかけてくださっている、その答えを求めておられる、そのことに気づくとき私たちはイエス様の愛を知るのです。

 そして、決して模範解答ではなくてもいいのです。ただ、私たちの真実さをもってイエス様にお答えする、それが信仰告白です。
ペトロの信仰告白
 さて、イエス様に問いに対して弟子たちが何とお答えたかと言いますと、ペトロが真っ先にこう答えたと言われています。

 「 シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」

 「メシア」というのは、旧約聖書の時代からユダヤ人がずっと待ち望んでいた救い主のことです。洗礼者ヨハネにしろ、エリヤにしろ、エレミヤにしろ、本当に人々から敬われ、尊ばれた人々でありますが、ペトロはそれでは飽きたらず「あなたはそれ以上の御方、あなたこそ生ける神の子、メシアです」と答えました。そして、このペトロの信仰告白を、イエス様はたいへん喜んだとも書かれています。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」、このペトロの信仰告白は、模範解答的な信仰告白に聞こえるかもしれません。けれども、そうではありません。では、ペトロの信仰告白が間違っているかというと、それも違います。これは本当に素晴らしい告白でした。けれども、決して模範解答ではないのです。それは、誰でもこれに倣って「あなたはメシア、生ける神の子です」と言えば、イエス様はみんな喜んでくださると思ったら、大間違いです。

 イエス様がペトロの信仰告白を喜ばれたのは、それが模範的な答えだったはありません。ペトロの告白の中に、ペトロの真実さがあったからなのです。その真実さが欠けていたら、いくら「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しても、それは「あなたにとって、私はどういう存在ですか」と問いかけて下さるイエス様の愛に対する答えになっていないのです。

 確かに教理的に正しい信仰告白というものはあります。今日もご一緒に唱和しました「使徒信条」は、正しい信仰告白の一つです。けれども、「使徒信条」をご一緒に唱えていましても、唱えている時の心というのは人によって温度差があると思うのです。「こんなことなかなか信じられない」という気持ちをもって唱えている人もあれば、心からアーメンという気持ちをもって唱えている人もあると思います。あるいは一人の人であっても、先週と今週ではその心に差があるということもあって当然だと思うのです。しかし、たとえ信じられなくても、「あなたはどう思うか」というイエス様の問いかけを真摯に受け止め、それに真実さをもって答えようとしているかということなのです。「信じられない」と答えが、イエス様の問いに対して精一杯の答えであるならば、それはそれでイエスもまた真剣に受け止めてくださるはずなのです。

 一番悪いのは、心がそこにないということです。いくら正しい信仰告白をしても、心がそこになく、口先だけでイエス様にお答えしているということこそ、イエス様の真剣な愛に対する侮辱はないのです。この点、皆さんも礼拝で「使徒信条」を唱和するときによくよくお考えになっていただきたいと思うのです。

 イエス様は、ペトロの真実なる信仰告白に対して、この上ない祝福をしてくださいました。「この上にわたしの教会を建てる」とまで仰ってくださったのです。教会には正しい信仰告白は必要ですが、教会を成り立たせるものは決して正しい言葉ではなく真実なる心なのです。私たちの信仰を問い給うイエス様の愛に、真実をもって応えようとするところに、教会を教会たらしめるものがあるということ忘れてしまいますと、教会は心のない教条主義に落ちって、イエス様の心に反した道を歩み始めてしまうということは、よくよく心しておきたいと思うのです。
生活の中で
 さて、今度はちょっと違った角度から、今日のお話しを見てみたいと思います。イエス様が弟子たちの信仰を問われたのは、フィリポ・カイザリアという村でした。フィリポ・カイザリアというのはパレスチナの北の端っこにある村です。もともとイエス様はエルサレムではなく北部のガリラヤを中心に活動をしておられまして、先週もガリラヤ湖の漁村ベトサイダで盲人を癒されたというお話しをしました。そこからさらに一日以上も北に歩いたところに、フィリポ・カイザリアはあるのです。

 このように北に行けば行くほど、信仰の中心であるエルサレムからは遠く離れ、多くの異邦人が住むようになり、異教的な色合いも濃い土地になっていきます。フィリポ・カイザリアも、昔からの偶像の聖所や信仰がそのまま残されていたり、カイザリアというのはローマ皇帝の町という意味ですが、ローマ皇帝を神として祭る神殿が建てられたりしていたのでした。そういうエルサレムからもっとも遠い土地で、異教徒たちの住む偶像礼拝の町で、イエス様は弟子たちの信仰を問われた、そのこともまた見過ごしてはならない大切なことだと思うのです。

 私たちは、なんとなく信仰告白というのは教会でするものだと思っているではないでしょうか。たとえば「主の祈り」とか、お祈りは教会ばかりではなく家でもいたしますけれども、「使徒信条」は教会の礼拝でしか唱えないという人が多いのではないかと思います。しかし、「あなたにとって私はどういう存在ですか」と、イエス様が弟子たちの信仰を問われたのは、礼拝の場所エルサレム神殿から最も遠く離れたフィリポ・カイザリアという異教徒の町、偶像礼拝の町、北の果ての出来事であったのです。

 私たちが住んでいる町も、言ってみれば異教徒の町、偶像礼拝の町です。統計的に言えばクリスチャンは100人に1人しかいません。たとえば皆さんのご家庭をみましても、あるいは親戚中を見回しても、クリスチャンは自分1人だけということも十分にあり得るのです。学校でも、職場でも、サークルでも、ご近所でも、キリスト教的環境からほど遠いところで私たちは暮らしています。

 教会にいれば、みんなイエス様が救い主だと信じて、讃美歌を歌い、お祈りを捧げ、聖書のお話しを有り難がっているわけですから、あえて自分の信仰ということが問われなくてもクリスチャンらしくすることができます。けれども、一度教会を出るとそうはいかないのです。家に神棚や仏壇があり、自家用車にはお守りがぶるさげてあり、道端にはお地蔵さんがあり、職場の近代的なビルの屋上にまで小さな祠があったりするのです。かといって人々が信心深いわけでもなく、人々が常に関心をもっているのは金儲けの話、人のうわさ話、ファッションの話、あるいは卑猥な話しばかりです。お酒を飲んで、カラオケを歌って、ゴルフをして、ショッピングをして、たまには家族でドライブなどをして、それができれば満ち足りた人生だと思っている人ばかりなのです。神さまも、信仰も、まったく問題にされない世俗の世界です。私たちが一週間暮らしている場所は、そういう教会とはまったく違う場所なのです。

 しかし、そういう場所だからこそ、「あなたにとって私はどういう存在なのか」というイエス様の問いかけが非常に大きな意味をもってくるのです。ちょっと皮肉な言い方をしますと、教会の中でなら口先だけの信仰告白を唱えたり、さも信仰者らしいことを言うことができるかもしれません。みんなが「そうだ、そうだ」と言ってくれるからです。しかし、ひとたび教会の外に出たならば、「わたしはクリスチャンです」とか、「わたしは教会に行っています」ということすら難しいのです。それが言えないのなら、いったい「あなたにとって私はどういう存在なのか」と、イエス様は悲しみを込めて問われるに違いありません。

 イエス様は教会の中でではなく、神さまも、信仰もまったく問題にされないような世俗の中でこそ、偶像礼拝に満ちあふれた異教の世界にあってこそ、「あなたにとって私はどういう存在なのか」という問いに対する私たちの答えを聞きたいと思っていらっしゃるのです。

 どうか、この一週間、イエス様の問いかけに真実をもって答える歩みをしたいと願います。教会の中だけではなく、この世にあって「わたしはクリスチャンです」「教会に行っています」ということを胸をはって言えるならば、それだけで「わたしはイエス様を無視した生き方はできません。それほど私の人生の中で、イエス様が大事です」ということを立派な表明する信仰告白になっていると言えるのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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