ベトサイダの盲人の癒し
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書8章22-26節
旧約聖書 イザヤ書29章17-24節
イエス様の口づけ
 イエス様はベトサイダという町にお入りになりました。ベトサイダというのはガリラヤ湖に面した漁師の町で、イエス様のお弟子であるペトロ、アンデレ、フィリポの故郷でもありました(ヨハネ1:44)。すると、やはりと申しますか、イエス様のもとにはいつでも病める人や体の不自由な人が救いを求めて集まってくるのですが、人々が一人の盲人を連れてきて、「どうか彼に触ってください」と頼みました。イエス様は彼らの願いをお聞きになると、盲人の手をとってお導きになりながら、村の外に連れ出されたのでした。

 これは前回の話しでも同じようなことがありました。人々がイエス様の所に聾唖の人を連れてくると、イエス様はその人を人々の中から連れ出されて、そこで癒しを行われたということが書かれていたのです。その時に申しましたのは、これはイエス様の愛は、個人を非常に大切にするのだということです。目が見えないとか、耳が聞こえないとか、誰が見ても分かる問題だけではなく、個人の内面の問題とか、家族とか、その人の来し方とか、本当にその人を愛し、その人との深い交わりをもった人だけにしかわからないような、その人のストーリー全部を聞いて受け止めてくださる、それがイエス様なのです。

 それと同じ事が、今日のベトサイダの盲人の癒しのお話しにも見られるのです。イエス様はこの盲人を深く憐れんでくださったに違いありません。それと同時に、噂に高いイエス様の奇跡を見てみたいという人々の好奇心に満ちた多くの目が、この人に注がれています。イエス様はそのような人々の目からこの人をお守りになるように、「さあ、こちらへいらっしゃい」と、優しく盲人の手をお取りになって、村の外にお連れになったというのです。足下に気遣いながら、ゆっくりとゆっくりと盲人の手を引いて導いて行かれるイエス様のお姿を思い浮かべることができます。

 イエス様がこの盲人の目となり、光となって下さっているのです。その恵みの中で、当然、イエス様と盲人の間でいろいろな会話がなされ、心のふれあい、イエス様との個人的な交わりが深められたことでありましょう。

 そして、村の外れにきますと、イエス様は盲人と向き合って、ご自分のつばを彼の目に塗られました。この場面も、前回の聾唖の人のいやしを彷彿とさせます。前回は、イエス様がご自分のつばをつけて聾唖の人の舌に触れられると、舌のもつれがとれて話せるようになったというお話しでした。今回もまたイエス様のつばが塗られます。こうしてみますと、イエス様のつばに何か癒しの力があるのではないかと気がしないでもありません。

 しかし、そうではなく、これは一種の口づけだったのではないかと、私は想像するのです。もちろんユダヤ人の間でもつばを塗りつけるような口づけの形があったわけではありません。しかし、イエス様の癒しというのは魔術ではなく、愛の奇跡なのです。イエス様の愛に触れることによって人が癒される、それがイエス様の奇跡なのです。そういうことから考えますと、患部につばを塗るというのは、愛の表現である口づけと同じような意味をもっていたのではないかと、私は思います。

 次に、イエス様は盲人に目に両手を当ててから、「何か見えるか」とお訪ねになりました。盲人の目は確かに光を感じるようになっていました。しかし、まだそれは幽かであり、ぼんやりとしか見えなかったようです。それで、盲人は「人が見えます。木のようにしか見えませんが、歩いているのが分かります」と答えました。イエス様は、もう一度両手を彼の目に当てられました。すると今度は、おぼろげに見えていたものが何でもはっきりと見えるようになったというのです。
いやしを受けるまで
 今日のお話しは外に連れ出す点といい、つばを塗る点といい、前回の聾唖の人の癒しと共通点が多いのですが、逆に他のどんな癒しの話にも見られないとても特徴的な点が一つあります。それは、この盲人に対して、二回の癒しが行われているという点です。一回目の癒しでは、おぼろげに見えるようになりましたが、まだ十分ではありませんでした。それでもう一度癒しが行われますと、今度は何もかもはっきり見えるようになったというのです。

 これはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。イエス様のお力が足りなかった、ということではないと思うのです。だとしたらどういうことが考えられるのか? こうだということは言い切れませんが、いくつかの説明が可能ではないかと思います。

 一つは、イエス様のお力は十分であったけれども、盲人の信仰が足りなかったということです。先ほど、イエス様のお力は愛だと申しました。愛というのは、求めるだけでは受け取れません。信じなければ、受け取れないのです。

 ただし誤解を解いておきたいと思うのですが、「信仰が足りなかった」などと言いますと、殊にクリスチャンの世界では極悪人のごとく見なされたりしますが、決してそういう意味ではありません。私が言うところの「信仰の足りなさ」というのは、信仰を求めているけれども足りないということでありまして、反信仰的であるとか、無信仰であるということではないのです。

 先週、田原米子さんのことをお話しをしましたが、もう一度彼女を例にとってお話しさせていただきたいと思います。田原さんは、お母さんを亡くした悲しみに暮れて、人生の空しさを感じるようにまでなり、とうとう18歳の時に鉄道に飛び込み自殺を図ってしまいました。一命はとりとめたものの両足と左手を失ってしまうのです。両足と左手を失ったことを知った田原さんは絶望の谷底に落ちてしまいます。そういう時に、ある方の紹介で宣教師が尋ねてくるのです。最初、田原さんは宣教師になかなか心を開こうとしませんでした。

 それというのも、田原さんは宗教に苦い経験をしておりまして、宗教というものをまったく信頼していないばかりか、恨みをもっていたからなのです。どういう話しかといいますと、亡くなった田原さんのお母さんはある新興宗教の熱心な信者でした。田原さんは高血圧のお母さんを気遣って、集会に出かけるときはいつも送り迎えをしていたそうですが、ある日、お母さんは娘の帰りが待ちきれなくて一人で集会に出かけました。

 そして、訪問先の家の前で脳溢血で倒れしまったのです。お母さんを追って後から来た田原さんが、その倒れて意識が朦朧としているお母さんを発見しました。すぐに家の奥に寝かせてもらい、救急車を呼んでくれるように頼みました。すると、同じ宗教の信者であるその人は、「お医者さんなんか呼ばなくてもいい」と言って、「神さまのお水」というものを持ってきたそうです。

 田原さんは、こんなことじゃ駄目だと、自分の足でかけていってお医者さんを呼びに行ったそうですが、結局、手遅れになってしまったのです。そんなことがありましたから、宗教というものには絶対的な不信感がありました。宗教家というのは人々の迷信や恐怖心や頼りたい気持ちにつけいって、自分たちの勢力を伸ばそうとしているんだとしか思えなかったのです。宣教師だ、キリスト教だ、聖書だ、お祈りだと言われても、まったく聞く耳をもとうという気にはなれなかったと、田原さんはいいます。

 ところが、田原さんがどんなに冷たくしても、毎週毎週、宣教師がやってきます。田原さんも、神さまを信じる気持ちはないし、聖書を読む気もないけれども、宣教師の人柄の真実さ、明るさ、優しさ、思いやりというものに、何か心を惹かれるようになっていくのです。そのように田原さんの心が変わっていく時のことを、田原さんの言葉をそのまま引用して読ませていただきます。

 「わたしは、クリスチャンたちが、本当は一体どういう人種なのか、さっぱり掴みかねていました。どうも少し鈍いのではないかと思わせるようなところがあるかと思うと、頭は悪くないようにも見えるし、一体あの底抜けの明るさ、真実さそのもののような、あたたかい優しい態度・・・。あれはどこから出てくるのだろうか。何でもいい、人が何かを信じたら、その信心とか信仰心とかが、人を変えるのだろうか。それとも、この人たちが言うように、この人たちの信じている神が、この人たちが存在すると言っているキリストが、本当に人を救い、人を変えるのだろうか。わたしは、そのあまり歓迎されないお客様を迎えながら、次第に心の中に新たな疑問がわいてくるのを、どうすることもできませんでした。神を信じる気もなく、聖書に書かれていることに関心を持つこともありませんでした。しかし、この人たちが二人で美しい聖歌を歌ってくれた時に、わたしの心をうった真実のことば、わたしのために朝早く起きて、五歳の娘さんと一緒に焼いてくれた奥さんの手作りのお菓子をもらった時に感じた、真実のこもった思いやり、あたたかな愛情・・・。それはいつかわたしの心を捕らえて離さないものとなっていました。『この人たちのもっている美しいものを、わたしもほしい』 わたしは次第にそう思うようになりました」

 この段階で田原さんは、自分の救い主としてイエス様がはっきりと見えてきたわけではありません。けれども、おぼろげに何かをみえるようになってきているのです。この後、田原さんは宣教師たちに心を開くようになり、この人たちの言うことがウソかホントか賭けてみようという気持ちにさせられます。そして、ある夜、はじめて「神さま、助けてください」と祈ったそうです。

 その翌朝、先週もお話ししましたように、田原さんは本当に素晴らしい気持ちで新しい朝を迎えられたというのです。指が三本しかないという気持ちが、三本も在ると思えると素直に感謝できるようになっていた。病院で会う人たちに自然「おはようございます」と挨拶ができるようになっていた。努力してそうしようとしたのではなく、自然とそうなっていたというのです。昨日までの自分とはまったく違う自分がそこにいたのです。田原さんは「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく作られた人です」という聖書の言葉を思い起こして、はっきりとそれを信じたと言っておられます。

 田原さんのように本当に何もかも絶望している人というのは、神さまも、愛も、自分自身ですら信じる力がなくなってしまっているということがあります。けれども、そういう人こそ本当は誰よりも神さまを求めているし、真実の愛に飢え渇いているのです。ただ、それにもかかわらず、信じる力をどうしても持つことができません。だからこそ苦しむのです。

 そういう人はどうしたら救われるのか。「信仰が足りないだ」と何遍言っても、そういう人にはまったく意味をなさないに違いありません。かといって信仰がなければ救われないという現実も変わることはありません。信じる力をどうしたら持つことができるようになるのか、そこが大切な重要なのです。

 田原さんの場合は、宣教師たちの姿の中に、自分の知らない何かが確かにあるということを、おぼろげに見るようになったわけです。それが信じる力へと成長して、「神さま助けてください」と祈った夜、自分が生まれ変わった朝に結びつくのです。最初はおぼろげに、そしてはっきりと見る。そういう二段階の救いが田原さんにもあったんですね。

 ベトサイダの盲人は信仰が足りなかったから二段階の癒しが必要だったのだと言いますと、何か消極的な印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。イエス様はたとえ信じる力を失った者に対しても、このように二段階の癒し、救いをもって、必ずやはっきりと見えるようにしてくださるのだということを、この奇跡物語は私たちに教えてくれているのです。ですから、私たちも自分自身はもちろんのこと、どんなに人に対してもイエス様の救いがあるという希望を捨ててはいけないということなのです。
二つの癒し
 二段階の癒しということについて、もう一つ考えられる説明があります。それは、盲人の信仰が足りなかったということではなくて、二種類の救いをイエス様が盲人にお与えになっているのだということです。二度目の癒しについて、聖書は「何でもはっきり見えるようになった」と記しています。これはただ目が開いたこと以上のことを語っているのだと解釈するのです。

 ベトサイダの盲人の癒しの直前にこういうことがありました。8章18節をごらんいただきたいのですが、イエス様の言葉を聞いても理解せず、見当違いな心配をしている弟子たちに向かって、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と、イエス様がお叱りになるという話です。

 確かに、私たちには弟子たちのように「目があっても見えない」ということがあるのです。逆に言うと、物事をはっきりと見るためには目で見ているだけでは駄目だということではないでしょうか。「百聞は一見にしかず」という言葉もありますが、「見る」ということは意外と心の状態によって影響されるのです。

 先ほどの田原さんの話で言えば、残された三本の指が、「三本しかない」と見えるか、「三本も残っていた」と見えるか、そのような違いが起こってくるわけです。ベトサイダの盲人は、最初の癒しで目が開いて、人間が見えるわけですが、それは木が歩いているように見えたと告白しています。面白い話ですが、人間を犬猫のように簡単に殺したり、木のように燃やしたりする事件が相次ぐ昨今、人間と木の区別がつかないというのは笑えないような話しでもあります。

 田原さんも最初は自分の三本の指を見ていながら、それが何も出来ない無駄に生えている小枝ぐらいにしか見えなかった。しかし、イエス様の救いによって、それが決して無駄に生えている枝なんかじゃなくて、字を書くこともできるし、料理もできるし、裁縫だって出来るすばらしい指だということが見えるようになったわけです。おぼろげに見ていたものが、はっきりと見えるようになったわけです。

 盲人の二段階の癒しというのは、そのような肉の癒しと霊の癒しという二種類の癒しが与えられたのだという風に理解することもできるのではないでしょうか。 
神の時
 最後にもう一つだけ、簡単に申したいと思います。もしかしたら、これは一度目は信仰が足りなかったとか、二種類の救いだとか、そういうことをわざわざ考える必要はなく、連続した一つの救いだったかもしれないとも考えられるということです。

 イエス様の救いの御業というのは、一瞬に与えられるというよりも、時間をかけて私たちに徐々に、徐々に成就していくということがあるのです。もちろん、それはイエス様はじらしているわけではありません。神さまの救いが成っていく時間の中で、私たちはより完全なものとされ、より清められ、より大きな愛をいただくことができるようになることがあるのです。

 二段階の救い、二種類の救い、あるいは徐々になっていく一つの救い・・・いずれの解釈が正解という話ではありません。しかし、イエス様が私たち一人一人の心の状態、必要を知っていてくださり、それにあった方法で、必ずや救いを与えてくださるということに希望を新たにされて、この一週間も歩んで参りたいと願います。
目次

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