聾唖の癒し
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書7章31-37節
旧約聖書 イザヤ書57章14-21節
イエス様の愛
 前回は、イエス様が国境を越えて異邦人の国であるティルス地方まで行かれたというお話しでしたが、今日はそこからまたガリラヤ湖のほとりに戻ってこられたということから書き始められています。すると、人々が耳が聞こえず、舌の回らない人を御許に連れてきて、この人の上に手を置いて祈ってくださいと頼んだというのです。

 イエス様がおられるところには、いつも病人や貧しい人や深い悩みをもって苦しんでいる人々が集まってきました。彼らが、イエス様の奇跡を行う力を求めてやってきたということは疑いようもありません。神の子イエス様だけが持ちうる素晴らしいお力をもって病気を治して欲しい、苦しみから救って欲しい、そういう願いをもって、人々はイエス様の御許にやって来たのです。

 けれども、それだけでしょうか。人々は力もそうですが、愛を求めていたのではないでしょうか。たとえば「手を置いて祈ってください」という願いもその現れだと思うのです。そこには当然、「癒してください」という切なる願いが込められていると読みとっていいと思います。しかし、「癒してください」と言わないで、「触れてください」「祈ってください」と願っているのではどうしてでしょうか。イエス様が自分に親密に関わってくださることを求めているからなのです。

 イエス様もまた、癒しをお与えになるだけではなく、魂の奥深い所から来る願いを汲み取って、この人と非常に密なる関わりをもってくださったというのです。33節

 「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」

 イエス様は、この人を群衆の中から連れだしたと言われています。これはイエス様が、この人と非常に個人的な関係を持とうとしてくださったことの表れだと思います。愛というのは、このように個人というものを非常に大切にします。

 聖路加病院名誉院長である日野原重明先生の本を読んでいましたら、こんなお話しがありました。末期癌で入院をしているお母さんを、娘さんがお見舞いにきました。ところが、普段持たないような大きなバックをもっているものですから、婦長さんは「おや?」と思います。しかし、すぐに何かピンと来るものを感じて気づかないふりをしていました。案の定、バックの中身は持ち込み禁止の犬だったそうです。娘さんは気落ちしているお母さんをなんとか元気づけようとして、お母さんがこよなく可愛がっていたペットの犬を抱かせてあげようと考えたのでした。もし、犬が一声でもワンと鳴けば病院から大目玉を食ってしまいます。そのことを十分覚悟しながら、お母さんを元気づけるのはこれしかないと思って、この娘さんは犬をこっそり運んできたのでした。このお母さんはきっと喜んで愛犬を抱き、叱られる危険を犯してまで自分を励まそうとしてくれたこの娘の気持ちを思って、「私も頑張らなくては」と思ったに違いありません。とてもいい話だなあと思うのです。

 しかし、この娘さんにもまして感心させられるのは、規則違反をそっと見逃してくれたこの婦長さんの思いやりです。婦長さんというのは、他のたくさんの患者さんにも責任があるでしょうから、もし自分の立場とか、規則とか、他の患者さんの手前とか、そういうことを考えたら、このような思いやりある行動はとれなかったに違いありません。

 逆にいうと、この婦長さんは自分の立場ではなく、この母娘の立場で物を考えてくれたのです。大勢の患者さんを持つ婦長さんとしてではなく、この母娘の看護婦さんとして物を考えてくれたのです。そのように個人というものを非常に大切にしてくれる婦長さんの思いやりが、絶望と戦っている母娘に大きな慰めを与え、希望を与えることになったわけです。

 人というのは背後にそれぞれのストーリーをもっています。同じ病気で入院していても、あるいは同じ障害を持つ聾唖者であっても、持っているストーリーは一人一人みんな違います。私たちも今、こうして教会に来て同じように礼拝を守っていますが、その背後にある一人一人のストーリーはみんな違うのです。それを無視すると、人間疎外ということが起こります。しかし、イエス様が聾唖の人を群衆の中から連れだして、まず個人的な関係をそこに築いてくださいました。それは、イエス様が私たちに一人一人のストーリーをも深い憐れみをもって聞いてくださり、恵み深く、力強く関わってくださるということの証しなのです。

 イエス様は、この聾唖の人に対して、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とあります。まるで呪術師か何かの仕草のように見えますが、そうではなく、これもイエス様が如何に濃厚にこの人と接せられたか、その愛の深さということを物語っているのす。この人は耳がきこえない人だったのですから、言葉ではなく仕草をもってその愛を伝えようとされたのではないでしょうか。

 そうだとしますと、次の34節に記されているイエス様の動作の意味も分かるような気がします。34節、

 「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。」

 イエス様は天を仰ぎ、深く息をつかれたとあります。普通なら、ここは神さまに祈る場面でありましょう。しかし、イエス様はおそらく最初に深く息を吸い、それから天を仰いでその息を吐かれたというのです。もし、聾唖の人が天を仰いで声なき声で祈るとしたら、きっとこのように天を仰いで深く息をつくような動作になるのではないでしょうか。

 ですから、ここでイエス様は、「さあ、こんな風に私と一緒に天を仰いで祈ってごらん」ということを、やはりジェスチャーで語りかけているのではないかと、私は想像するのです。聾唖の人がイエス様を真似して天を仰いだかどうかは書かれていませんからわかりません。しかし、きっとそうしただろうと思います。そこに、イエス様が「エッファタ」と、この人に向かって叫ばれたというのです。

エッファタ
「エッファタ」というのもやはり呪文のように聞こえるかも知れませんが、そうでありません。「開け」という意味をもった日常的な言葉です。けれども、ここにはイエス様が語られたアラム語がそのまま「エッファタ」と記されてしるされているのです。

 同じような言葉では、以前にお話しした「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)という言葉がありました。聖書が、このようにイエス様の語られた言葉のままアラム語で書き残したのは、そのお言葉のうちに霊的な非常に深い意味が込められていると判断するからです。34節以下をもう一度お読みします。

 「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」

 イエス様がこの人に「エッファタ」といわれると、耳が開き、下のもつれが解けて、はっきりと話すことができるようになりました。しかし、それだけではないのです。イエス様は、この人の耳を開き、声門を開いただけではなく、彼の心を、そして人生を開きました。そして、神さまを讃美する喜びと感謝と希望に満ちた人生を与えてくださったのです。

 耳と口だけではなく、彼を全人格的に救う言葉、それが「エッファタ」であったのです。イエス様は、私たちにも「エッファタ」の救いを与えてくださる御方である。つまり、イエス様は私たちの出口の見えない人生に新しい人生への入り口を開き、閉ざされていた心を開いてくださる。そういうことを、「エッファタ」というイエス様の言葉が象徴しているのです。

 ところで、この聾唖の人に新しい人生が開け、讃美に満ちた心が与えられたのは、イエス様が彼の耳と口が開いてくださったからだと思う人も多いと思います。しかし、そうではありません。私の知人に結核で十数年入院しておられる方がいました。その方がやっと退院できました。しかし、彼は手に入れた新しい人生を歩もうとはせず、退院してからも毎日結核病棟にやってきては友達とおしゃべりをして過ごすのでした。病気が治ったからといって新しい人生が開けるわけではないということは、この例からも分かります。

 逆に病を持ちながら、重い障害を持ちながら、本当に素晴らしい人生を生きている人も大勢いるのです。今日はその一人である田原米子さんという方をご紹介したいと思うのです。

 田原さんは、16歳の時にお母さんを脳溢血で失いました。そういうことは世間によくある話かも知れませんが、先ほども言いましたように同じように見えても人にはそれぞれ違ったストーリーがあります。田原さんというのは末っ子で、本当に溺愛されて育ったものですから、心に受けた痛手は非常に大きかったのです。母親の死をきっかけに、心にぽっかりと大きな穴が空いてしまった。それを埋めるために、人生の意味を深く追い求めるようになるのですが、ある時、図書館で読んでいた哲学の本に「人生にはじめから意味などはない。人類にとって最高の幸福とは生まれてこなかったこと、次善の幸福とは一刻も早く死んでしまうこと」だと書かれているのを読みました。それを読んで、16歳の田原さんは自殺を決意し、新宿の小田急線で飛び込み自殺を図ったのです。

 その結果、彼女は一命は取り留めたものの両足を失い、左腕を失い、残ったのは右腕と指三本だけになってしまいます。彼女は、ますます人生に絶望し、入院中から睡眠薬をため込んだりして、何度も自殺を図るようになるのです。そんな絶望のどん底にある田原さんが、キリスト教宣教師に出会いました。宣教師に出会って、イエス様の話を聞いただけで、簡単に救われるということはないのですが、ある時、その宣教師がイエス・キリストの復活の話をした。それを聞いた時の田原さんの気持に変化が起こります。田原さんの言葉をそのまま引用してお読みします。

 「ところが、『そのキリストは、三日目に墓からよみがえったのです』と聞かされた時『ん?』と思った。今までも宗教の話は聞いたことがあったが、死人が復活したなんて聞いたことがない。『あなたがこのことを信じて受け入れた時から、神の愛が心の中にあふれ、新しい命が注がれて生きていくことができるのです』。こう言われた時に思った。この人たちは生き生きしていて、心から人生を楽しんでいるみたいだ。キリストを信じることであんなふうになれるものだったら、私も信じてみようか。もし、神が本当にいるのなら、死からよみがえるくらいたやすく出来るだろう。神がいるのに、知らずに死んでいくとしたらつまらない。キリストは命を懸けて私を愛していて、信じる者に新しい命を与えると言っている。自殺するのはいつでもできるのだから、キリストが神かどうかわからないけれど、この人たちの言うことが嘘か本当か賭けてみよう。そう思って、生まれて初めてお祈りをして眠った翌朝、窓から差し込む朝日も、すべての情景が輝いて見えたことに驚いた。それまでは指が3本しかないと思って絶望していたのに、3本も残っていることに気が付いた。その指で字が書けた時、幼児のように嬉しかった。その日、病院内で会う人ごとに"おはようございます"と自分の方から無意識に挨拶していた」

 ここにはまさに田原さんが、イエス様を受け入れ、イエス様の「エッファタ」(開け)という祝福をいただき、新しい人生が開けてくる瞬間の思い、出来事が告白されているといえましょう。

 田原さんの救いというのは、決して両手両足が生えてきたわけではありません。しかし、イエス様と出会うことによって、心が開かれ、人生が開けていったのです。「指が三本しかない」という絶望的な考える人間から、「まだ三本も指が残っている」という考える人間に変えられた。死ぬことばかり考えていた人間から、生きるって素晴らしいと全国各地に講演して回る人に変えられた。これが田原さんの救いだったのです。

 その後、田原さんは、宣教師の通訳をしていた男性と結婚し、今は牧師夫人になっておられるます。今はもう60歳を過ぎておられると思いますが、全国各地のいろいろな集会で講演活動などもなさって、元気に活躍をしておられます。

 生きていくことの中には、いろいろな辛さやしんどさがあります。そうすると、そういう辛さやしんどさがなくなってくれればと、誰だって思うことでありましょう。しかし、実は、辛さやしんどさがなくなったら人生が開けてくるというのは、幻想に過ぎないのです。人間というのは、自分の人生の価値というものを見いださない限り、どんなに健康であっても死にたい死にたいと思うことがありますし、逆に自分の人生の価値をしっかりと見いだしている人は両手両足がなくなっても、生きるって素晴らしいと言える人になるのです。そういう意味で、イエス様の救いを苦難からの解放だと考えたら間違うことになります。イエス様の与えてくださる救いは、苦難からの救いではなく、神の愛なのです。

 愛とは「大切にする」ということです。イエス様と出会う時、私たちは、自分がどんなにちっぽけな存在に思えても、また自分の人生がどんなにしんどいものに思えても、その私を、私の人生を大切にしてくださっている神さまがいらっしゃるということを知るのです。そして、そこから自分と自分の人生に新しい価値、新しい意味を発見することができるようになります。その救いの根っこにあるのは、イエス様と出会い、個人的な、非常に密なる出会いなのです。

 イエス様が聾唖の人を群衆の中から連れ出して、一対一の関係の中で、非常に密なる関係をもってくださったということを、もう一度思い起こしたいと思います。イエス様は、私たちとも一対一の関係を持とうとして、私たちを静かな祈りの場所、祈りの密室へと招いておられるのではありませんでしょうか。その祈りの密室で、私たちはイエス様との個人的な出会いを果たし、そこから私たちの新しい道が開けていくのだということを、今日はご一緒に学びたいと思います。 
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