カナンの母親の祈り
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書15章21-28節
旧約聖書 ヨブ記2章1-10節
イエス様の祈りの生活
 前回は、エルサレムのお偉い先生方が、「イエスというのは一体どんな男か」と実情視察に来た。するとそこでオテテを洗わないで食事をするイエス様の弟子たちの姿を見て、エルサレムの先生方は憤慨し、イエス様と汚れの問題について論争になったというお話しをしました。イエス様はそういう欺瞞に満ちたお偉方の相手をするのにお疲れになったのではありませんでしょうか? いったん国を離れて異邦の地、ティルスとシドン地方に赴かれたというのです。

 けれども、イエス様はこの地で積極的に伝道しようとしておられた訳ではないようです。同じお話しが『マルコによる福音書』の7章にも記されていますが、それによりますとこのように言われています。

「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(マルコ7:24)

 イエス様は伝道するためではなく、人々からお隠れになるために異邦人の地に来たのだと書いてあるのです。これまでにも、イエス様が山に入られたり、人里離れた荒れ野に退かれたりして、祈っておられたという話がありました。異邦人の地に退かれたのも、お祈りの時間と場所を確保するためであったと言われているのであります。

 このことを通して、私たちの祈りの生活についても一つの学びが与えられます。それは祈りの時間、祈りの場所というのは、私たちがどうしても造り出さなくてはいけないものであるということです。

 この世に悩み苦しむ者がいる限り、イエス様に暇はありませんでした。朝早くからイエス様を訪ねてくる者があり、日が暮れても帰ろうとしない人々がおり、どこに行っても探して追いかけてくる人々がいました。そういうご生活の中で、イエス様が祈りの時間、祈りの場所を生み出すことは本当に容易ならぬことだったと思うのです。

 しかしイエス様は、人々が寝ている時に眠らないで祈られたり、人の来ないような山や荒れ野に身を退けたり、異邦人の地にまで赴いたりして、祈りの生活を造り出しておられたのです。そういう努力や苦労を惜しまないで祈りの生活を確保するということが、私たちの生活にも必要なのであります。

 なぜなら、私たちもまた神の子どもたちだからです。私たちは人の世に生きていますから、人との交わりが大切なことは言うまでもありません。しかし、この人の世は決して人間のものではなく、神様のものなのです。たとえ目に見えなくても、神様はこの世界の創造主として、私たちの天の父として、この世を愛し、私たちを愛して、優しく力強く見守っていてくださいます。そのことを絶えず思い起こして、天の父なる神様の御心を思い、また御助けを信じて生きるということが人の道でもあるのです。そして、その中心にあるのが祈りの生活なのです。

 祈りの生活を忘れるということは、天の父なる神様を忘れることであり、天の父なる神様を忘れるということは、この世を神なき望みなき孤児として心細く生きることなのです。しかし、もし私たちが神の子供らして神様に祈りたいと願いますならば、山の中でありましても、荒れ野でありましても、はたまた遠い異邦の地、異教徒の地でありましても、要するにどこでありましても、神様が一緒にいてくださり、私たちが神様の子供らして愛されていること、支えられていることを確信して、生きるための勇気や希望、また慰めや励ましを豊かにいただくことができるです。
動かされないイエス様
 さて、イエス様はわざわざ異教徒の国にお隠れになって、静かに祈りの時間を過ごしたいと願われたのですが、それもあまり長くは続きませんでした。ユダヤの国ほどではないにしても、イエス様の力ある業はこの異教徒の国にまで伝えられておりまして、そのイエス様がこの町におられるということを聞きつけた一人のお母さんが、自分の娘を救って欲しいと訪ねてきて、イエス様にすがりついたのでした。22節

 「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」

 このお母さんはカナンの女であったと言われています。ユダヤ人ではなかったのです。しかし、それが何でありましょうか? ユダヤ人であろうが、カナン人であろうが、「子供を救ってください!」というお母さんの叫びというのは、まったく変わらないはずです。たとえユダヤ人のお偉い先生方が何と言おうと、イエス様だけはそういうことをちゃんと分かってくださる御方だというのが、イエス様に対する私たちは思いだと思うのです。ところが、こう書いてあります。23節

 「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」

 イエス様はこのお母さんの叫びをずっと無視し続けたというのです。いくらお母さんが叫び声を上げても、訴えても、イエス様は少しも動こうとされなかったというのです。

 それでも、このお母さんは叫ぶことをやめません。そこには恥も外聞もありません。プライドも、礼儀もありません。とにかく子供を助けたいという一念でもって、他のものは顧みる余裕がないといいますか、すべてかなぐり捨ててイエス様に叫び続けるわけです。

 どんな人だってこのようなお母さんの姿を見れば、ユダヤ人とか、カナン人とか、あるいはまたクリスチャンであるとかないとか、そんなことを関係なく心を動かされることでしょう。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」 イエス様は、このお母さんの悲痛な叫びを聞いても、何も答えず、何もしてくれなかったというのです。

 それでたまりかねた弟子たちが、ついにイエス様にこう言います。23節、

 「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

 ここを読みますと、弟子たちがまるで犬を追い払うかのように、女にシッ、シッとやっているようですが、そうじゃないと思うのです。おそらく弟子たちは、このお母さんが可愛そうになってしまったのです。母親の悲痛な叫びを聞く度に、胸がぎゅっと締め付けられるような思いを、弟子たちはしているのです。しかし、イエス様はこの婦人の叫びを無視し続けている。どうしてなのか? 弟子たちはついに耐えきれなくなって、「先生、あの母親をいかがお思いですか。あのままでは可愛そうです。なんとか助けてあげられないものでしょうか。」と、カナン人のお母さんに助け船を出しているのではないでしょうか。

 ところが、イエス様は相変わらず母親の方を見向きもせずに、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、イスラエル以外の外国の女のことなんかどうでもいいんだといわんばかりに、お答えになったのでした。

 イエス様と弟子たちが何やら自分のことを話し合っていると察した母親は、今がチャンスとばかりにイエス様にすがりつくやら、ひれ伏すやらして、「主よ、どうぞお助け下さい」と必死の哀願し始めました。すると、イエス様はこの女に目をやり、冷ややかにこういうことを仰います。

 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」

 「子供たち」というのは、神の子供たちという意味でイスラエルの事です。それに対して、カナン人の女は「小犬」だと、イエス様は仰っるのです。これはずいぶん酷い言葉です。

 犬好きの人なら、小犬なんて可愛いじゃないと思うかも知れませんが、ここではそんな可愛らしい意味で言われているのではありません。ユダヤ人が豚を汚れた動物としていたことは知られていますが、犬もまた乱暴で、野卑な動物だと見なされていました。ですから、イエス様は「犬に聖なるものを投げてやるな」と教えられましたし、パウロも偽教師たちを犬呼ばわりしました。聖書では犬という動物は常に悪いものの譬えで語られているのです。

 きっと「小犬」というのはどう猛さはないものの、しつけられていないためにキャンキャンとうるさくつきまとうというぐらいの意味でありましょう。そんな酷い言葉を、イエス様はこのカナン人のお母さんに投げつけたのでした。

 どうしてイエス様は、こうまで厳しく、そして冷淡にカナンの女を拒絶されるのでしょうか。イエス様が仰るように、まずイスラエルが先だということもありましょう。それが神様のご計画なら、私たちはとやかく言えません。けれども、イエス様が異邦人の光となられるために世にこられたということも確かなことです。

 老預言者シメオンは、幼子イエス様を抱いて「この方こそ、異邦人を照らす啓示の光」と預言しました。実際、イエス様はローマの百人隊長の僕を癒されたり、サマリア人の女に救いを約束なさったりいたしました。たとえイスラエルが先であっても、イエス様がこのようにカナン人の母親に冷淡になる理由にはならないと思うのです。イエス様らしからぬとしか思えないのです。
イエス様の御心
 もっとはっきりと言うと、こういうイエス様を、私はどうしても好きになれません。このカナン人のお母さんの話は決して人ごとではないのです。母親が子供を愛し、子供のために一生懸命に祈るということは人としてまったく当たり前の話ではありませんか。

 決して贅沢なお願い、大それたお願いをしているわけではありません。私たちも、このお母さんと同じような祈りを持って生きているのです。けれども、どんなに一生懸命に祈っても、イエス様が黙って何も答えてくれない時があります。私たちがこんな苦しんでいるのに、何もしてくださらない時があります。

 先日の水曜日未明、神様は突然馬場そで姉妹のご主人の魂を御許に引き寄せられました。信仰の篤い馬場さんが肺ガンという重い試練を御旨として受けられて、厳しい治療に一生懸命に耐えて戦っておられたその時に、その馬場さんを支えておられたご主人の、まったくお元気だったそのお命を、神様は突然みもとに召されたのです。

 本当は言ってはいけないことかもしれませんが、敢えて申しましょう。神様はどうしてこのような酷いことをなさるのか。馬場さんがどんなに祈り深い御方であるか、皆さんはよくご存知です。馬場さんは、いつも自分のことよりも家族のために、人のために祈る御方でした。本当なら人の10倍も20倍も祝福を受けて良いような忠実な姉妹に、どうして人の10倍も20倍も大きな悲しみをお与えになるのか。神様の厳しい御手に恐れおののきます。カナンの母親が味わったような厳しい拒絶を感じます。

 神様の御心はどこにあるのか? イエス様の御心はどこにあるのか? 異邦人だから、ユダヤ人ではないから、まだ信仰が弱いから、隠れた罪があるからとか、そんなことが理由ではないことは確かです。私にはわかりません。私だけではなく誰にもわからないことかもしれません。何か私たちには悟り得ない深い御心があるのでありましょう。

 神様は、ヨブの神様でもあります。今、聖書の学びと祈り会でちょうど『ヨブ記』を学んでおりますが、ヨブもやはり理由なく苦難を受けた信仰者でした。そのことについて内村鑑三は、「私たちの人生というのは、表舞台だけではなく、楽屋裏にもあるのだ」ということを言っております。その楽屋裏というのは、天国にある神様の御心、イエス様の御心のことでありまして、そこで私たちの人生が決められ、そこから私たちの人生に喜びや楽しみだけではなく、悲しみや悩みをもお与えになるのだというのです。
カナンの女の祈り
 私は、カナン人のお母さんを小犬呼ばわりイエス様が好きなれないと申しました。その叫びを、祈りを無視し続けて拒絶なさろうとする厳しさが分からないと申しました。しかし、好きになれなくても、分からなくても、それでも神様の御心を信じなければならないと思うのです。そのことを、私たちはこのカナン人のお母さんの信仰、そして祈りから学びとらなくてはならないと思うのです。

 最初、イエス様はこのお母さんの叫びをまるっきり無視されておりました。可愛そうになった弟子たちが助け船を出すと、「わたしは、イスラエルの失われた羊のもとにしか遣われていない」とお答えになりました。しかし、それでも母親がすがりついて哀願しつづけますと、イエス様はこのお母さんに「子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない」と言い放ちます。このように、このお母さんは三度もイエス様に拒絶されるのです。

 しかし、そこからこのお母さんの本当の信仰というものが開花します。子供の病気を治してくださいというだけであったら、誰にでもできる。しかし、このようにイエス様に拒絶され続け、犬呼ばわりまでされても、このお母さんは、「主よ、ごもっともです」と答えるのです。27節

 「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」

 「小犬」といわれても、「それは差別です」なんてことは言わないのです。「こんなに一生懸命に頼んだのに!」ともいいません。「あなたにはそれができるのに、私の子供を見殺しにするのですか」というようなことも言いません。「本当に、あなたの仰るとおりです。」と言うわけです。

 「助けてください」と祈ることは誰にでもできます。しかし、こう言うときにも「あなたは正しい方です」と言うのは、本当に大きな信仰がいるのです。苦しめる義人ヨブであっても、それを言うまでは本当に苦悩の道を歩みました。そして最後にやっと「あなたは正しい方です」と言えるようになるのです。それを思いますと、このお母さんの信仰は、本当に素晴らしいではありませんか。これこそ信仰だと言ってもいいと思うのです。

 そして、さらに私たちの目を覚ませるような言葉が、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という言葉です。このお母さんは、これほど拒絶されても、まだイエス様の恵みが自分のために用意されているということを信じ切っているわけです。

 確かに、イエス様は最初にユダヤ人のためにお働きになるべきだとしても、それで自分の分がなくなってしまうような貧しい救い主ではない。イエス様の恵みというのは、ユダヤ人から異邦人へ、どんな深い溝をも埋めて溢れてゆくのだと信じ切っているのです。

 五つのパンと二匹の魚の奇跡から始まって、「わたしは命のパンである」というイエス様の説教、そして今日の食卓からこぼれるパン屑の話と、パンの話が続けてで参ります。全部つながった話しだと思うのです。イエス様は五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人々に分け与えて満腹させました。そして、そのパン屑を拾い集めると十二の籠に一杯になったと言われています。これはイエス様の恵みの無尽蔵の豊かさを示しています。カナン人のお母さんは、それを信じ切っているのです。

 私たちもそれを信じなくてなりません。イエス様の御手が私たちに厳しく臨む時があります。二重に、三重にその厳しい御手が加えられることがあります。それでもなお、「あなたは正しい方です。わたしの救い主です」と告白し、なお主の恵みを求め続ける信仰です。28節、 

 「『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」

 信じつけるならば、主の栄光を見るのです。信じましょう、主の恵み深さを、力強さを。
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