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キリスト教というのは、今でこそ世界に20億人もの信者を持つ宗教でありますけれども、イエス様がこの地上で生活なさった当時の社会におきましては、ユダヤ人の伝統的な宗教ユダヤ教の新興宗教として異端視されていた不遇の存在でした。イエス様はユダヤ教の神学校を出たわけでもなく、高名な先生のご子息、ご親戚というわけでもなく、忽然と現れてはたちまち群衆の心を捕らえ、イスラエル全土にその名が広めていったのであります。
イエス様の活動の中心は、都エルサレムから遠く離れた辺境の地ガリラヤ地方にありましたけれども、その恵み深い教え、力強い教えの評判は、テレビもラジオもない時代にもかかわらず人から人へと伝えられまして、ほどなく都エルサレムでも評判となりはじめました。すると、都の偉いお先生方が、「ガリラヤのイエスという男はたいそうな評判を呼んで、人々を騒がしているようだけれども、いったい如何なる男か」と、眉をひそめて鳩首協議をし、何人かを実情視察のためにガリラヤくんだりに派遣することになったのです。
それが今日お読みしました1節に書かれていたことの背景です。
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」
ところが、そこでファリサイ派の先生方、律法学者の先生方は、とんでもないものを目撃してしまうのです。何かといいますと、イエス様の弟子のある者たちが、オテテを洗わないで平気でお食事をしていたという現場でありました。それを見たエルサレムのお偉い先生方は、もうこんな破廉恥なことは見ていられないと言ったふうに、イエス様に対して猛烈な抗議をいたします。それが5節をです。
「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」
確かに、手を洗わないで食事をするというのは、衛生観念上あまり誉められたことではないと、私たちも承知しています。けれども、たまたま横着な人間がいても、そんなに目くじらをたてて言うようなことではないとも思うのです。ところが、エルサレムの先生方は違います。「なぜ、そのような不心得者の弟子を注意しないのか。ガリラヤに救い主が現れたと評判だからわざわざやってきたが、こんな基本的なことも教えられないなんて、まったくあきれた話だ」と、イエス様を責め立てたわけです。
するとイエス様も負けてはおりません。「あなたがは神様の本当の教えを無にして、人間の言い伝えばかりを重んじている偽善者だ」という、これまたたいへん厳しい反論をなさった、ということが今日のところに書かれていることであります。 |
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おそらく誰もがまずお考えになることは、食事の前に手を洗わないということがそんなに大変なことなのか、ということだと思うのです。これを理解するためには、まず食事ということから考え始めなければなりません。洗わない手で食事をしないということは、食事を汚さないということで、それだけ食事が神聖なものとして考えられているということなのです。
3-4節を見ますと、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」と書かれています。祭りの時の特別な食事に身を清めるというのは分かりますが、それだけではなく毎日の食事を、手を清め、身を清めてからいただいていたというのです。
私たちは先週、「わたしは命のパンである」というイエス様の御言葉を学びました。私たちのまことの食べ物、まことの飲み物であるイエス様の肉と血を、教会の聖餐式でいただくことの大切さ、有り難さを学んだのです。けれども、私たちがイエス様から命のパンをいただくのは、教会で聖餐式に与る時だけなのでしょうか。決してそんなことはないのです。
私たちが毎日の食事を、感謝の祈りを唱えていただいております。そのことを通して、私たちの必要を知り、蛇ではなく魚を、石ではなくパンを与えてくださる天の父なる神様を覚えております。また、そこに共に食事をする家族やお客さんがいるならば、そこで互いの健康を祈り、祝福を分かち合うという、まことに芳しい愛の交わりが起こります。そう考えますと、毎日の食事がこれ聖餐式であるということも言えないわけではありません。
食事というのは、「腹が減っては戦ができぬ」と言われますように、私たちの毎日の生活を支える基礎であり、極めて日常的、世俗的ものです。しかし、腹を満たすだけが食事の目的ではありません。私たちが天の神様との命の交わりをなし、隣人との愛の交わりをなす、まことに神聖な時でもあるのです。ちょっと難しい言い方をしますと、聖と俗の接点にあるのが食事だということができるのです。
そこまで考えますと、ユダヤ人がどうして食事の前に手を洗うことに拘るのかということも、少し分かってきます。「汚れた手」と訳されている汚れは、衛生的なことが問題になっているのではありません。ここで用いられている言葉は「コイノス」という言葉で、「日常的なもの」という意味です。日常生活というのは、世俗の生活です。それは決して清らかなものではありません。しかし、食事というのは神様と交わる時でありますから、そういう日常生活の汚れというものを清めなければならないという、極めて宗教上の理由から、ユダヤ人は手を洗うのです。
手を洗わないで食事をするというのは単に不衛生ということではなく、自分を清めることなく神様の前にでるという神様への冒涜にまで達する重大事件だったわけです。 |
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イエス様は、そのように手を洗うことに反対しているのではありません。食事というのは、確かに神様との交わりであるという信仰を、イエス様もまた持っておられたからこそ、五つのパンと二匹の魚の奇跡もなさったし、命のパンの説教もなさったし、最後の晩餐で聖餐式をお定めになったのです。そして、そのような神様の交わりのために、罪から清められる必要があるということも、イエス様は決して反対しないのです。
しかし、私たちの汚れというのは、手を洗うようなことで簡単に落とせるものなのでしょうか。もちろん、ユダヤ人の手の洗い方は決して簡単ではありませんでした。まず爪先を上げて、上から水を注ぎ、手首に達するようにしなければならない。それから手を擦るわけですが、握り拳で片方ずつ丁寧に擦らなければならない。それが済んだら今度は爪先を下に向けて、手の甲に水を注ぐ。このようにきっと決まった順序で手を洗うのです。
ある本にはこんなことが書かれていました。あるユダヤ教のラビが何かの理由で牢に入れられたのです。与えられる水は僅かでした。ラビは、いつもその僅かな水をすべて手を洗うのに使ってしまったため、飲み水がなくなって死にそうになってしまったという話しです。そんな話があるほどに、ユダヤ人は手を一生懸命に洗い、汚れから自分を清めようとしたのです。しかし、たとえそこまでしたとしても、やはりそんなことで私たちの罪が、汚れが清まるとは思えないのです。
いや、思えるか思えないということが問題ではありません。そんなことで私たちが罪から、汚れから清められることはないのだと、聖書にちゃんと書いてあるのです。まずエレミヤ書13章23節にはこのように記されています。
「クシュ人は皮膚を
豹はまだらの皮を変ええようか。
それなら、悪に馴らされたお前たちも
正しい者となりえよう。」
水で洗おうが、何をしようが、人間が皮膚の色を変えることができないように、豹がまだらの皮を変えることができないように、私たちに染みこんだ罪も取り除くことができないということを言っているわけです。
それから今日お読みしました詩編51編も、背きの罪をぬぐってくださいというダビデの祈りの詩編ですが、神様が罪を赦し、私を新しく生まれ変わらせてくださらない限り、清い人間になることはできないということを言っております。詩編51編12節を読んでみましょう。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、
新しく確かな霊を授けてください」
イエス様が仰りたいのは、このよいうに人間の罪や汚れというものは水で洗い流せるようなものではない、神様の深い憐れみによって、罪を赦され、新しく生まれ変わらせていただくということ以外に、自分を清める道はないのだということなのです。
もし手を洗うというのならば、それは罪を赦し給う神様の憐れみへの祈りを象徴するものでなければなりません。つまり、こうして水で手を洗うけれども、本当は水が手を清めるのではない。神様の憐れみだけが、私たちの罪を赦し、清めてくださるのだという信仰の表現でなければならないのです。
こういう神様の愛、神様の恵みへの信仰ということがなくなりますと、宗教というものは非常に恐ろしいものに変質してしまいます。宗教というのは、本来、神様と人を結びつけるものなのに、「お前は手を洗わないで食事をしているから、汚れている」と言って、人を裁き、神様との関係から引き離してしまうのです。
同じ事が、あらゆる律法違反者に対して、また異教徒に対して、あるいはハンセン病の人に対して、徴税人や売春婦に対して起こります。あなたたちは汚れた人間だから、一緒に食事はしないというのです。これは本当に恐ろしいことです。一緒に食事をしないということは、神様との交わりである食事の席から閉め出すということであり、お前は地獄に落ちるとか、救われないとか、悪魔の子だというのと同じなのです。
もちろん、神様はそんな御方ではありません。ですから、イエス様は異教徒とも、徴税人とも、売春婦の人とも、ハンセン病の人とも喜んで一緒に食事をしました。そうすることで、あなたがたも神様に招かれている神様の子どもたちだよということをお伝えなさったのです。 |
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だから、イエス様は非常に厳しく、このエルサレムから来たお偉い先生方に挑戦するわけです。手を洗わないぐらいで、そうやって人から天国の命を奪ってしまうあなたがたはいったい何様のつもりなのだ。あなたがたこそ天国から遠い偽善者だ、と仰ったわけです。
6-13節に、そのイエス様の痛烈な批判が記されています。その中で繰り返されているイエス様の言葉があります。8節、9節、13節を見てみましょう。
「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」
「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
「神の掟を捨てて」、「神の掟をないがしろにした」、「神の言葉を無にしている」と、イエス様は畳みかけるように言っておられます。「神の言葉を捨て、無にしている」とはどういうことでしょうか。それは神様の本当の声をかき消し、聞こえないようにしているということです。
聖書には「人は神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と言われています。神様の本当の声は、人に命を与えるものなのです。もし人が神様の本当の声を聞くならば、たとえ神様から遠く離れていた人でも悔い改めて立ち帰り、倒れていた人でも立ち上がり、うなだれていた人は顔を上げ、希望を持ち、信仰をもって再び歩み出すことができるようになるのです。ところが、そのような命の御言葉が聞こえないようにしてしまっているものがある。それは、あなたがたが大切にしている昔からの言い伝えであるというわけです。
「昔から言い伝え」とは何でしょうか。「食事の前に手を洗う」ということも、聖書に書かれていることではなく、昔からの言い伝えでありました。善意をもって解釈すれば、もともと聖書と無関係な話ではなく、さっきもいいましたように食事というものを神様との交わりとして神聖視する信仰から生まれてきたものでありましょう。だとすれば、どんな人間であっても手さえ洗えば清い人間になる、ということではなかったと思うのです。しかし、言い伝えだけが一人歩きしてしまった。どうしてかというと、エレミヤの言葉、ダビデの祈りにもありましたように、本来、自分を清めるということは非常に難しいことですが、手さえ洗えば清くなると言えばたいへん都合がいいからです。
イエス様はもう一つ例を挙げておられます。「父と母を敬え」という神様の言葉があります。しかし、心から尊敬できる親ばかりがいるわけではありません。あるいは自分の生活のことを考えたら、老いた親を扶養することに限界を感じることもあるでしょう。そこで、そういう場合には、「これは神様への供え物です」と言えば、神様は親よりも偉いのですから、親には何もしなくてもいいという律法の拡大解釈が生まれました。親を敬えない人間が、神様をだしに使って、言い逃れをする方法を生みだしたわけです。
こういう偽善的なことを平気でやったり、教えたりして、自分たちは罪がない人間だといい気になっている。それはとんでもない話だ。神様の本当の言葉を無にする話だ、と断罪するのです。
逆に言うと、イエス様がこのようにファリサイ人、律法学者の偽善に対してこのように厳しく仰るのは、神の言葉を人間世界に回復するためだと言ってもいいでしょう。神の言葉が、私たちの毎日の生活において、人生において尊ばれ、意味を持ち、生きる力となるようにするために、イエス様は世にいらしてくださったのだということなのであります。
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最後に、イエス様は群衆をみもとに呼び寄せられまして、このように仰いました。15節、
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。』」
「外から人に体に入るもの」ではなく、「人から出てくるもの」が、人を汚すのだと言われています。分かりやすく言えば、口からはいる食物で人間が汚されるのではない。口から出てくる不真実な言葉が人間を汚している。人間の言葉というのは、醜い言葉だけではなく、どんなに美しく語られても、どんなに最もらしく語られても、人間の悪い思いがにじみ出ているのだというのです。
20-23節を読んでみましょう。
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
確かに、私たちの言葉には、私たちの悪い思いが必ずにじみ出ているように思います。今、私が口を開いて語っている説教ですら、その中に私に傲慢さとか、無分別さとか、人の悪口とか、そういう私の悪い思いが混じり込んでしまう可能性を否めないのです。
だとしたら私たちはどうしたらいいのでしょうか。固く口を閉ざし、おしゃべりはもちろんのこと、讃美の言葉も、祈りの言葉も、証の言葉も、一言も発しない人間になりなさいということなのでしょうか。確かにそういう沈黙ということも、私たちにとって大事なことかもしれません。たとえば、説教の後で短い沈黙の時間をもちます。どんなに言葉を尽くした説教よりも、この沈黙の時にこそ神様の本当の言葉が聞こえてくるということがあると思うのです。
しかし、それだけではなくイエス様が私たちに授けてくださる讃美の言葉、祈りの言葉、信仰の言葉、愛の言葉、恵みの言葉、癒しの言葉というものがあるのです。イエス様は、私たちに神様の言葉を回復してくださるだけではなく、私たちの言葉をも清めて回復してくださる御方であるということなのです。
どうかこの一週間も、そのようなイエス様の恵みの力に支えられて、生きた神の言葉を聴き、また生きた神の言葉を伝え、神様の生きた御言葉に生きる者になりたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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