命のパンの説教
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書 6章22-71節
旧約聖書 申命記 8章1-10節
誤解を受けるイエス様
 今朝は、イエス様が「わたしは、天から降ってきた命のパンである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得る」ということを、人々に、また私たちに教えてくださっているところであります。

 ところがこのようにおっしゃると、人々の間に大きな波紋が広がりました、「ヨセフとマリアから生まれた子が、どうして『天から降ってきた』などというのか。神への冒涜ではないか」とか、「『わたしの肉を食べ、血を飲め』などと気味の悪いことを言って、いったい何をする気だ」と、人々はイエス様に不信感を持つようになってしまったのです。

 イエス様の弟子たちの間にも同じ事がおこりまして、「これは酷い言葉だ」とイエス様に躓く者が現れたと書かれています。そして、イエス様を離れていったというのです。

 それを悲しくご覧になったイエス様は、十二弟子たちにも「お前たちも、私を離れていきたいのか」とお聞きになりました。すると、ペトロが十二弟子を代表して、「主よ、私たちはあなたを離れてどこに行きましょうか。あなたこそ永遠の命をもっておられる神の聖者であると、私たちは信じ、知っています」と答えたというのが、今日のだいだいの粗筋でございます。
奇跡を求める人々
 まずここで注目したいことは、イエス様を非常に熱心に追い求めていた人たちが、ようやくイエス様を見いだしたにもかかわらず、結局はイエス様に躓いて立ち去ってしまったということです。どうしてこういうことが起こるかというと、彼らがイエス様に求めていたものと、イエス様が彼らに与えようとしていたもが違っていたからなのであります。

 彼らがイエス様に求めていたのは、イエス様のなされる救いの業でありました。イエス様は病を癒し、パンの奇跡を行い、嵐をも鎮められました。これは本当にすばらしい救いの業なのです。

 荒川教会にも大病を患っている兄弟姉妹がいます。本人やご家族はもちろんのこと、私たちも本当に心配しております。こういう病いの問題を、イエス様がことごく癒してくださるならば、それは全人類にとって本当に大きな福音となることは間違いありません。

 あるいはまた、荒川教会には三宅島の噴火で、家を失い、仕事を失い、故郷を離れて、なれない都会の町で不自由な避難生活をしている家族がいらしております。自然災害ということ、これも人間にとっては大きな脅威でありまして、イエス様が嵐を鎮め給う天の御力をもって私たちを守ってくださるならば、やはり人類に大きな福音になることでありましょう。

 さらにまた、日本にも、世界にも、パンに事欠く人たち、飢えた人たちがいます。イエス様が、五つのパンと二匹の魚の奇跡をもって世界中の飢えを満たしてくださるならば、これもまた病の癒し、災害からのお守りに勝るとも劣らない福音でありましょう。

 ですから、こういう救いの業を求めてイエス様を求めてやまない人たちが、本当に必死になってイエス様を追いかけていたのであります。

 その追いかけることの熱心さは尋常ではありません。何回か前のお話しで、イエス様は伝道から帰ってきた弟子たちを休ませようとして、舟に乗せ、人里離れたところに行かれたということを学びました。ところが、イエス様を求めてやまない人たちは、岸辺を辿ってイエス様の後を追いかけ、そして弟子たちがようやく一息つこうと思って辿り着いたそのところまで押し寄せてきたということを学んだのでした。

 イエス様は、この様にご自分を求めてくる人々の止む止まれぬ思いというものを深く憐れまれて、日が暮れるまで彼らを教え、彼らの心を満たし、また五つのパンの二匹の魚の奇跡をもって彼らのお腹を満たし、こうして身も心も神様の愛で一杯にさせて満腹させて、ようやく群衆を解散させられたのでありました。ところが、今日のところをお読みしますと、その翌日、解散させられたはずの群衆がなお岸辺に残っていて、イエス様を探し求めていたということが書かれていたのであります。

 しかし、前回お話ししたことですが、イエス様と弟子たちは夜のうちに舟で向こう岸に渡っておられました。イエス様を探す人々も、舟がそこにないことに気がついて、そうと悟るのです。ところがそれで諦めるような人たちではありませんでした。「さて、どうしたものか」と思っているところに、渡りに舟とはこういうことだと思いますが、ちょうどいい塩梅に数艘の舟が岸に近づいてまいりました。

 実はこの人たちもイエス様にお会いしようとしてやってきた人々だったのです。パンの奇跡の話を聞いて、その奇跡の現場に行ってみよう、そして私たちもイエス様に会ってみたいと、ティベリアスというところからからわざわざやってきたというのです。それで岸辺でイエス様を探していた人々は、湖からやってきた人々の舟に乗せてもらい、一緒をイエス様を追いかけることになりました。そして、とうとうカファルナウムまでやってきて、そこでイエス様を見つけたというのです。

 ところが、イエス様はこの人たちを見てがっかりするのです。そういう風に聖書にはっきりと書いてあるわけではありませんが、少なくともイエス様はこの人々が追いかけてきたことを、「よくぞ、ここまで追いかけてきたね」と、喜んで迎えているわけではないのです。24-27節をもう一度読んでみましょう。

 「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』」

 イエス様をようやく見つけだした人々が、本当に喜びに溢れて、「先生、本当に探しましたよ。いったい何時ここにおいでになったのですか。」と喜んで近づきますと、イエス様は「いったい何をしに来たんだ」と言わんばかりの厳しい言葉で、「はっきり言っておく。あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからに過ぎないのだ」と答えておられます。

 ここに、先ほど申しました彼らがイエス様に求めているものと、イエス様が彼らに与えようとしているものの違いというものが浮き彫りにされているのです。

 彼らがイエス様に求めているものとは何かといいますと、これははっきりしているのです。病の癒し、嵐からのお守り、パンの奇跡、そういう奇しき御業です。イエス様はそういう奇しき御業を行ってくださる。そして、それを私たちに与えてくださる。だから、本当に必死になって、イエス様を探し求めていたんですね。ところがイエス様は「それじゃあ駄目だ」と仰ったわけです。

 病気というのは癒されても、またいつか病気になります。嵐を鎮めるような奇跡が私たちを艱難から救っても、また次の艱難が私たちの人生に襲ってきます。お腹が空いているときに奇跡的にパンが与えられても、しばらくすればまた飢えが襲ってきます。奇跡というのはそういうものなのです。奇跡というのは一時に私たちを救いますけれども、永遠の平安、永遠の喜び、永遠の満足を私たちに与えるものではないのです。

 ですから奇跡によって人生の平安を得よう、喜びを得よう、満足を得ようとするならば、私たちは年がら年中休まることなく奇跡を求め続けなくてはなりません。実際、彼らはパンの奇跡を見ても、そのパンを食べても、飽きたらずイエス様に次なる奇跡を求め続けざるを得なかったのです。そういう彼らに対して、イエス様は、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくらないで永遠の命に至る食べ物をこそ追い求めなさい」と、彼らに仰ったのです。
イエス様が与えてくださるもの
 前回、私は奇跡を信じましょう、イエス様は神様の御力をもって私たちをお守り下さるのですということをお話ししました。ところが今日は、奇跡を求めるのでは駄目だというお話しでありまして、前回と矛盾するのではないかと思われる方もあるかもしれません。

 でも、そうでないのです。たとえば、海で溺れている人がいるとします。その人に向かって、水泳の教科書を見せて、さあ泳ぎ方を勉強して自分で救われなさいと言っても、それはまったく救いにならないことなのです。キリスト教というのはそんな宗教ではありません。溺れている者に、イエス様が御手を差し伸べて救ってくださるというのです。

 しかし、そうして奇跡的に命拾いをした人間でありましても、泳ぎ方を学ばない限り、また溺れてしまうでありましょう。その度にイエス様が御手を差し伸べてくださるとしても、それではまったく切りのない話しでありまして、とても救われた人生を生きるとは言えないのです。ですから、イエス様によって奇跡的に命拾いしたならば、その人は二度と溺れることがないように泳ぎ方を見つけなければならないでありましょう。この泳ぎ方というのがイエス様への信仰なのです。

 イエス様は確かに奇跡を行ってくださいました。そして、その奇跡を通して、イエス様への信仰を身に付けて欲しいと願われました。ところが、人々は即物的な奇跡ばかりを追い求めたのです。だから、彼らは何度奇跡を見ても、満ちたりることがありませんでした。すぐにまた飢え渇いてしまうのです。それがイエス様をがっかりさせました。それが、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」という厳しいお言葉につながったのであります。
命のパン
 すると人々は、「いったい永遠の命に至る食べ物と何ですか。そういうものがあるならば、それれを私たちにください」と、イエス様に願いました。そこでイエス様は、「私が命のパンである」と教えてくださったのです。34-35節を読んでみましょう。

 「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」

 生きていくためには、パンが必要です。ですから、イエス様は、「日ごとの糧を今日もお与え下さい」と毎日祈りなさいと教えてくださっているわけです。しかし、その一方で、イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」ということも仰っておられます。パンというのは、体を養うものでありまして、決して命を養うものではないのです。

 パンをいくら食べても、心が豊かになるわけではありません。養われるのは体であって、魂ではありません。しかし、実は私たちの生きる力というのは肉体にあるのではなくて、霊にこそあるのです。肉体が頑丈であっても、喜びなく、望みなく、弱々しい生き方をしている人がいます。逆に、体がどんなに弱々しくても、喜びに満ちあふれ、望みを満ちあふれ、力強く生きている人がいます。63節で、イエス様はこう言われました。

 「命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

 霊の力こそ生きる力であるというのであります。喜びに溢れた霊が、その人に生きる喜びを与えるのです。愛されたに満ちた霊が、その人を愛に生きる人にするのです。清められた霊が、その人の道を正しく、直くするのです。そういう霊に喜びを与え、愛を満たし、清さを与えるものは何か。それこそが、イエス様であるということなのです。それが「わたしは命のパンである」という意味なのです。

 もう一つ大切なことは、「わたしが命のパンである」とイエス様が言われたことでありまして、「私は命のパンを持っている」と、イエス様が言われたのではないということなのです。命のパンとは、イエス様がもっておられる何か、つまり教えとか、御力とか、愛とか、そういった一部のものを指すのではなく、イエス様という人格的な存在そのものが、命のパンであるということなのです。

 イエス様の教えを学ぶこと、奇跡な救いを体験すること、神の愛に触れること、それぞれが本当に素晴らしい体験であります。しかし、その素晴らしい体験ですらも、イエス様の命から溢れてくる恵みを部分的に体験したということに過ぎません。イエス様が私たちに願っておられることは、そういう素晴らしい体験を通して、イエス様と私たちが一つになることです。イエス様の命が私たちの内に生きるようになり、イエス様の命のうちに私たちが生きるようになることなのです。

 これは霊的な体験でありますから、言葉で説明するのは難しいことです。ですから、イエス様もちょっとドキリとするような言葉でそれを表現するしかありませんでした。53-56節を読んでみましょう。

 「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

 肉を食べ、血を飲むということが、何度も繰り返されています。イエス様の肉を食べ、血を飲んで永遠の命を得ることができるのだというわけです。そして、その永遠の命とは、私たちがイエス様のうちに生きることであり、イエス様が私たちのうちに生きてくださることだと言われているわけです。

 しかし、肉を食べ、血を飲むとはいったいどういうことなのでしょうか。今日もこの後で聖餐式が行われることであります。そこで私たちは小さなパンをイエス様の肉としていただき、小さな杯につがれたぶどう液をイエス様の血としていただきます。

 それは、信仰のないものにとっては、単なる見立てであり、儀式に過ぎないことかもしれません。しかし、私は聖餐式というのはどんな説教にもまさって私たちを教え、どんな力ある業にも勝って私たちを救い、どんな食物にもまさって私たちに命を与えるものだと思うのです。聖餐式において、イエス様は私たちの食べ物となり、飲み物となって、私たちの中に生きる方となってくださるのです。この聖餐式に与ることによって、私たちはイエス様の命の中に生かされるものになるのです。
他に道はない
 イエス様の肉を食べ、血を飲んで永遠の命を得るということに、多くの弟子たちが躓いて、イエス様を離れて行ったと書かれています。それを見て、イエス様は十二弟子に、「あなたがたも離れていきたいのか」とお尋ねになりました。すると十二弟子を代表して、ペトロがこう答えるのです。68-69節

 「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」

 素晴らしい信仰の告白です。特に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」という言葉に、信仰の深さが現れています。

 よく考えてみれば「他に行くところがない」ということは絶望的な言葉であります。道はたくさんあった方が希望が多いように思います。しかし、ペトロはそう思わないのです。イエス様という御方がおられる。それが私の命の何もかも満たす完全なことであるから、もう他の道は考えられないということなのです。どうぞ、私たちもただただイエス様のうちに生かされる者となり、イエス様によってのみ生きる者になり、イエス様という命をパンをいただきたく願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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