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今日はイエス様が湖の上を歩かれたというお話しであります。火の上を火傷もせず素足で歩く人がいるというのは聞いたことがあります。肉体的、精神的修練を積むと、人間の体というのはそういうことが出来てしまうのですから不思議です。同じように、たいへんな努力や特殊な訓練を積んで、人の常ではない力を身に付けた人というのは確かに存在するのです。身近なところではスポーツ選手などがそうでしょうし、速読術、記憶術、暗算術などちょっと普通の人間では考えられないような能力を身に付ける人もいます。目の不自由な人が指先で点字を読んだり、耳の不自由な人が唇を読んで話を理解したりするということも、私には考えられないような奇跡的能力のように思えます。
こうしてみますと人間にはまだまだ秘められた能力があって、普通の人は大抵それを使い切っていないで生きているんだなあということを思わされるのです。それが「火事場の馬鹿力」のようにいざという時に瞬発的に発揮される場合もありますし、天才のようにもともと力を発揮しやすいように生まれついた人もありますし、肉体的な一部の障害を補うように発達していく能力もありますし、血のにじむような努力や訓練によってよくやくそれを開発する人もあるのです。
しかし、たとえ火の上を火傷もせず素足で歩く術を身に付けた人がいましても、水の上を沈みもしないで歩く術を身に付けた人がいるという話は聞いたことがありません。そんなことは、人間にいくら潜在能力がありましても、まったく不可能なことなのです。あり得ない話なのです。
しかし、聖書を読みますと、そのあり得ないことが、イエス様によって色々となされているのです。ただの水が上等のぶどう酒になっていたとか、たった五つのパンと二匹の魚をちぎって配ると、ちぎってもちぎっても減らないで五千人を満腹するほど食べたとか、死んだ人が生き返ったとか、人間の能力を100パーセント使い切ったとしてもできる話ではないことを、イエス様は次から次へと行われたとあります
そんなことは作り話だという人もいます。イエス様をどうしても神様に祭り上げたい人たちが生み出した神話だというのです。残念なことに、クリスチャンの中にもそう考える人がいるのです。たとえば『信徒の友』の中に「イエスさまのおはなし」という連載がありますが、その中に五千人の給食の話が載りました(2003年7月号)。そこではパンと魚が奇跡的に人々の空腹を満たしたのではない、イエス様がわずか五つのパンと二匹の魚を細かく砕いて人々に分け与えようとされると、人々はイエス様のお心を悟ってそれぞれ自分の弁当を出して、見知らぬ人とも分け合って食べ出したのだと説明されていました。要するに、イエス様がなさったのは奇跡ではなく、互いに分け合い、助け合って満たされるということを教えるためのパフォーマンスだったというのです。
聖書の読み方としては決して主流ではありませんが、聖書の奇跡をこのように合理的に解釈しようとする人たちがいることは確かなのです。そういう人たちは、もちろんイエス様が湖の上を歩いたという話しもそのまま信じるということはしません。実は、湖には沖に向かって道のようにのびる浅瀬があったのだ、といいます。イエス様はその上を歩いておられた。それが弟子たちには湖の上を歩かれているように見えたのだというわけです。
こういう聖書の解釈をするクリスチャンというのは、たとえ神様の奇跡を信じくても、聖書にはそれなりの価値があると思っているわけであります。イエス様が互いに愛し合いなさいということを教えてくださった。たとえ貧しくとも、病んでいても、そこに幸せがあることをおしえてくださった。どんな苦難の中にも希望があるのだということを教えてくださった。そういうイエス様の説かれた人の道、神の道を学び取るということが、聖書を読む価値だと思っているわけです。
しかし皆さん、それでは聖書の価値がないと、私は思っているのです。聖書の価値というのは奇跡にあると言ってもいいのです。奇跡というのは、人間の力ではなく、世の中の力学でもなく、自然界の法則でもなく、神様のご意志と御力によってなされる救いの御業です。奇跡があるということは、神様は今も生きておられて、私たちを愛してくださっていて、たとえどんなどん底からであっても必ず私たちを救い出すことがおできになるなるのだということを物語る、聖書の一番大切なメッセージなのです。
それが信じられなければ、イエス様の十字架も、復活も、聖霊の付与も、再臨の約束も、自分とは何の関係もないお話しにしか聞こえないのです。しかし、奇跡があるということは、神様の愛、救いの力は単なるお話しではなく、私たちの現実の中に起こる話しであるということなのですから、そこで初めてイエス様の十字架も、復活も、聖霊も、再臨の約束も、私たちの現実生活に意味を持ち、力をもってくるのです。 |
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ちょっと違った角度から申しますと、それは人間も、自然も、実は当たり前のように生きて存在しているのではなくて、神様の御手によって支えられているのでありまして、その神様の支える御手というものが見えなくなりますと、私たちには何の希望もなくなってしまうということなのです。たとえば教会の帰りに交通事故に遭わないと言えるでしょうか。通り魔に遭わないという保障があるでしょうか。自分がいくら気をつけていても向こうから飛び込んできましたら、私たちには防ぎようがないのです。あるいは大地震が起きて、家の下敷きになってしまうかもしれません。
夏休み中、私の運転する車の後ろの車が突然道路を外れて田圃の中に落っこちてドライバーが大けがをするという事故がありました。田圃の中の舗装された一本道です。信号もなければ、人も歩いていせんし、車さえも、私の車と事故を起こした車の二台の他は走っていませんでした。私はバックミラーを通して事故を目撃しまして、慌てて車を止め、駆けつけてみますと、そのドライバーは日産のつなぎをきた車の整備士でした。自動車のプロが、そんな事故など起こりようがないとところで、事故を起こしたのです。もちろん、本人も自分がこんな事故を起こすなど夢にも思わなかったことでありましょう。
「一寸先は闇」と申しますが、本当に何があるかわからないのが、私たちの人生なのです。ですから、保険会社などは「備えあれば憂いなし」と宣伝します。皆さんも保険に入っておられるでしょう。しかし、もしもの時にも本当に安心できるためには、いったいどこまで備えをしておいたらいいのでしょうか。これでは足りないかも知れないなどと考え出したら、本当に切りがないのです。際限なく、心配は広がります。そういう風に人生というのは、まことに不安定なものなのです。薄氷を踏んで歩くようなものなのです。いつ沈んでもおかしくありません。決して沈むことのない確かな道など何一つないのです。ただ、あまりそういうことを考えないようにして生きているだけなのです。
けれども、それでは人生の解決にはなりません。聖書は、考えないのではいけない、まず自分の足下がどんなに不安定なものか、そのことを知ることはとても大切だと教えているのです。たとえば、愚かな金持ちの話があります。新しい大きな倉を建てて、そこに一生遊んで暮らせるだけの穀物を蓄えて、その金持ちは「ああ、これで安心だ」と言ったのです。ところが、その夜、神様はその金持ちの命を奪われたという話しです。つまり、今立っている場所だって、どんなに安心に満ちた場所であっても、次の瞬間に底が抜けてしまうかもしれないということを、聖書は語っているわけです。
そして、そこから、「しかし、恐れるな。神様は生きておられ、あなたを愛しておられ、力強い御手をもってあなたの人生を支え、また救い出すことができるのだ」ということを、聖書は私たちに教えてくれるのです。その証拠が、奇跡なのです。神様が、あなたを沈まないように支えてくださる。だから、「備えあれば憂いなし」ではなく「主の山に備えあり」という信仰をもって生きることだけが、あなたの生きることができる確かな道をなのだというわけです。
イエス様が沈むことなく水の上を歩かれたという話もそうです。それは、人間の力では、いくら潜在能力があるとしても、決してできないことであります。だから、そんなことはあり得ないと言ってしまえばそれでお終いですが、そうではなく神様が支えてくださるならばたとえ水の上でも沈まないで歩くことができるのだということを、イエス様は見せてくださったのです。
それは、私たちが水の上を歩くためではありません。「神様は、たとえ水の上であってもあなたを沈ませないで歩かせることができる。そのような力強い御手をもってあなたの沈むばかりの人生を支えてくださるのだ。だから、恐れるな、安心せよ」ということを、奇跡を見せて教えてくださっているわけです。
ところが、イエス様は浅瀬を歩いて来たのだなどと言いますと、聖書を読んでいてもまったく意味がないのです。繰り返しますが、たとえ湖に浅瀬があったとしても、私たちの人生には浅瀬などありません。人生を生きるということは、弟子たちがそうであったように落ちたら溺れてしまうような深い海の上を、いつひっくり返ってもおかしくない小さな舟で、しかも逆風の吹きすさぶ中を、一晩中波に悩まされ、漕ぎあぐねて進んでいくようなものなのです。
そして、もう一つ重ね合わせて言うならば、弟子たちは自分の意志でそのような危なっかしい海の上に繰り出したのでありません。イエス様のご意志によって、強いて舟に乗せられたのだと聖書に書かれているのです。これも人生というものを表しているのでありまして、いったい人生の中で自分の願い通りに選べるものというのはいったいどれだけあるでしょうか。生まれきたこと自体、私たちの意志ではありません。人生の多くのことは、私たちの好むと好まざるに関わらず、天の御心として私たちは与えられていることなのです。
そこへもって、神様が浅瀬を進みなさいなど仰るというのは、まったく説得力にかける話でありますし、救いにも何にもならないのです。しかし、実際、イエス様は深い水の上を、逆風の吹きすさび荒れる海の上を、沈むことなく歩いてこられたのです。そして、弟子たちの舟のそばまで来て、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、語りかけてくださったのです。水の上でも沈まない、嵐の中で沈まない、どんなことがあっても沈まない、神様の御手が私を支えてくださる。そういう奇跡があることを信じてこそ、私たちは沈むばかりの人生にまことの平安というものを得ることができるのです。 |
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今日の聖書には、もう一つ興味深いことが書かれています。イエス様だけではなく、ペトロもほんの少しでありますが、湖の上を歩くことができたというのです。
「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」
ここで気づかされるのは、ペトロが水の上を歩いたのではなく、イエス様がペトロにも水の上を歩かせてくださったということです。いくら単純なペトロでありましても、イエス様が水の上を歩くのを見て、それなら自分もできるだろうなどと楽観的なことを思ったのではありません。しかし、自分には出来なくても、イエス様にならできるということを、ペトロは信じました。そこがペトロの信仰の偉いところです。
奇跡を信じるというのは、まさにこういうことでありまして、自分にできることを信じるのではなく、イエス様ならばできる、してくださるということを信じて生きることなのです。そして、「わたしにはできない」と失望するのではなく、イエス様を一心に見つめて「あなたの力で歩かせてください」と願いつつ、生きることなのです。そうしますと、不思議と力や元気というものが与えられて歩けるようになるのです。
ペトロも、イエス様が「来なさい」と呼んでくださると、喜んで舟から降りて、実際に水の上を歩くことができたというわけです。どうして、こういう事が起こるかと言いますと、目には見えませんが神様の御手がペトロを沈まないように支えてくださっているわけです。
ところが、イエス様から目を離し、強い風に気がついた途端に、ペトロは溺れてしまったと言われています。
「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」(28-31節)
ペトロというのは、イエス様を見ると途端に元気がでて、イエス様から目を反らすと途端に沈んでしまう、そういう人間であったということです。では、イエス様から目を反らさなければ良いということになるのですが、強い風が吹いてきてそれを妨げるわけです。私たちの信仰生活をしていますが、やはり浮き沈みというものがあります。信じれば、元気も出てくるし、力も与えられて歩けるようになるのですが、ちょっとしたきっかけで疑いだし、落胆し、沈みそうになってしまうのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と、イエス様のお叱りの言葉はいつも私たちに向けられているようなものです。
ところが、そのようなお叱りの前に、イエス様はまず手を伸ばしてペトロを掴まえ、ペトロが沈まないように支えてくださったとあります。イエス様の救いというのは、沈まないで歩くことができるように支えてくださるだけではなく、溺れてしまったものを引き上げてなおも支えてくださるということにもあるわけです。いずれにしても沈まない、そういうイエス様の救いがありますから、どうぞどんな時にも希望をもってイエス様と共に歩む者でありたいと願います。
今日は詩編62編をお読みしました。ダビデの詩とあります。ダビデはイスラエルの王様でありますけれども、いろいろ逆風があったようであります。逆風というのは、人の暴力とか、裏切りとか、欺きとか、自分に敵意をもった人間たちの存在でありました。そういう人たちの存在に、ダビデは幾度も苦しみ、悩み、悲しみ、幾度も沈みそうになったに違いありません。
しかし、そういうときに、ダビデは「神様だけが私の救いである」「神様だけが私の希望である」と、信仰のみを力とすることによって耐え忍び、また敵に勝利をしてきたのだというのであります。
「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは決して動揺しない。」
「わたしは決して動揺しない」、これは「わたしは決して沈まない」と言い換えてもいいかもしれません。私は沈まない、そういう信仰をもって、この一週間もイエス様の御手に支えられて歩みたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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