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先週は、伝道に遣わされた弟子たちがイエス様のもとに帰ってきたというお話しでした。弟子たちが帰ってきて、イエス様に自分たちの働きについて報告をしますと、イエス様は「人里離れたところに行って、しばらく休みなさい」と言われました。このお話しから、一つは私たちもまたイエス様に遣わされている者であって、一日一日について、また人生について、イエス様に報告しなくてはならないのだということを学びました。そして、もう一つは、イエス様は私たちをお遣わしになるだけではなく、私たちに真の安息をも与えてくださる命の主であるということを学んだのです。
今日は32節から見て参りましょう。
「そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。」
「人里離れた所」というのは、先週もお話ししましたが「イエス様の祈りの場所」(マルコ1:35)でありました。イエス様が神の子として天の父と親しくお交わりになる場所、それが人里離れたところであり、イエス様にとって何よりも安息の場所でありました。そこに弟子たちを招待されたのです。
さらに細かく読んでみますと、「舟に乗って」とあります。舟というのは、聖書の中で教会を表す大切な乗り物とされています。たとえば聖書の中で一番有名な舟は何かと言えば、「ノアの箱舟」でありましょう。神様は人間の罪を見かねて、この世を洪水で流し去ろうとされました。しかし、神様を恐れて暮らすノアとその家族だけはお救いになろうとしまして、ノアに大きな箱舟を造らせるのです。やがて40日40夜にわたる大雨が降り続き、大洪水によって地上の生きとして生けるものが亡ぼされてしまいます。しかし箱舟に乗ったノアと家族、選ばれた動物たちだけは、神様の裁きを免れたというお話しです。
また、こういう話しもあります。ユダヤ人がエジプトに住んでいた時の話です。エジプトの王は、国内にユダヤ人の人口が増えるのを恐れて、ユダヤ人の男の子が生まれたらナイル川に放り込んで殺すようにという恐ろしい命令を出しました。しかし、ヨケベドというユダヤ人女性は何とか赤ん坊の命を救おうとして、葦で編んだ籠に赤ん坊を乗せ、ナイル川にそっと流したのです。それがエジプトの王女に拾われ、王女の子として育てられるようになりました。その男の子こそが、後にイスラエルをエジプトから救うこととなったモーセであったというお話しです。
このように聖書には舟にのって救われるという話があります。舟は、神の守り、神の救いを表しておりまして、それが教会に喩えられるわけです。逆に言えば、教会というのは、この世というたいへん荒々しい海を渡り、私たちを天国の港へ都導いてくれる救いの舟であるということです。教会という舟に乗って、私たちはイエス様の安息へと招かれ、導かれていく。そういうことをここから読みとることができると思います。 |
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次に33節を読んでみましょう。
「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」
ところが! これは弟子たちの大きな期待はずれを意味する言葉です。31節を見ますと、弟子たちは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」と書かれているのでありまして、どんなにか休息を必要としていたことかと想像できるのです。そこに、イエス様が「人里離れたところに行って休もう」と仰ってくださったのでありまして、ようやく誰もいない静かな場所に来たと思いましたら、群衆が先回りをして待っていたというのです。
この時の弟子たちの気持ちは、みなさんにも容易に想像できるのではないでしょうか。やれやれ、これでやっと休めると思ったら、お客さんが来る、電話が鳴る、誰かが問題をかかえてやってくる、新しい問題で悩まなくてはならなくなる。そんな時、天を仰いで、「神様、いい加減にしてくださいよ」とぼやいてしまうことが、みなさんにもあるのではないかと思います。
教会も同じです。たった今、教会というのは、この世の闘いに疲れ果てた私たちが、神様のもとに逃れていき、そこで休息と癒しを与えられる場所であるというお話しをしてきたのであります。しかし、それだけであったら、牧師などというのは一年中、神様のもとで休んでばかりいることになるのですから楽で良いのですが、なかなかそういうわけには参りません。というのは、教会というのは人々のいろいろな問題を抱え込む場所でもあり、ある意味でたいへん忙しいところでもあるわけです。
それは、牧師だけではなく、みなさんにとっても同じ事だろうと思います。最初は教会に来て静かに礼拝を守って、静かに家に帰れば良かったかもしれません。しかし、洗礼を受けて、イエス様の弟子の一人になりますと、教会でもいろいろなご用が出てまいります。祈られるばかりではなく人のために祈る人間になること、仕えられるばかりではなく人に仕える人間になること、受けるばかりではなく人に与える人間になることが求められます。そうなりますと、教会生活も忙しくなったり、いろいろ悩みが生じるようになります。
特に、自分自身が問題を抱えていたり、弱っていたりしますと、そういう愛のための奉仕、教会の奉仕が大きな負担になってしまうのです。弟子たちは、まさにそういう状態にあったと思うのです。本来なら、弟子たちも、イエス様と同じように群衆を憐れみ、身を粉にして人々にお仕えしたでありましょう。しかし、彼ら自身がくたびれていました。彼ら自身に休息と癒しが必要でした。とても、人々を憐れんだりする余裕はなかったはずなのです。
けれども、そういう弟子たちの気持ちをよそに、イエス様は群衆をご覧になると、ご自分の疲れを忘れて、お腹が空いているのも忘れて、ご自分を求めてくる人々を深く憐れまれたと書いてあります。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
教会の忙しさというのは、このようなイエス様の愛の忙しさなのです。しかし、この時ばかりは、弟子たちもイエス様のこの限りない憐れみが徒に思えたのではないでしょうか。人間というのは勝手なものでありまして、群衆の立場に身をおくならば、イエス様の憐れみというのはこんなに有り難いことはないと身に染みるのです。しかし、弟子の立場に身をおきますと、イエス様の人々への憐れみ深さが苛酷な試練に思えてくる時があるわけです。
それならば、いつも群衆の立場に身をおいていれば幸せかと言えば、それも違います。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)と、イエス様はお教えになりました。イエス様が私たちに与えようとしておられる幸いは、私たちがイエス様と共に神の国の豊かさ、神の国の力強さを身に溢れあせて、弱い人々を助け、神様の恵みに与らせる者になることなのです。そのためにこそ、イエス様は貧しい私たちを憐れみ、神様の豊かさに与らせようとしてくださいますし、弱い私たちを助け、神様の力強さを授けてくださるのです。 |
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そうしますと、5000人の給食というイエス様の奇跡のお話しは、五つのパンと二匹の魚で満腹した群衆の立場に身をおいて読むことができないわけではありませんが、むしろ弟子の立場に身をおいて読むことが大切だろうと思うのです。つまり、いかにして貧しく、弱い私たちが、イエス様と共に人々に与える人間になるのかということであります。聖書もそのような書き方がしてあるわけです。
35-36節を読んでみましょう。
「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。』」
体のいい言葉で書かれていますが、要するに弟子たちは、「イエス様、もういい加減おわりにしてくださいよ、いつになったら私たちは休めるのでしょうか、私たちはもうくたくたです。限界です」と、弱音を吐いているのです。5000人の給食と言われる奇跡は、この弟子たちの言葉に端を発して行われるのです。群衆が「お腹が空いた!」と騒いだわけではないのです。お腹が空いてくたびれ果てていたのは、弟子たちの方だったわけです。
しかし、弟子たちは直接そういうことは言いません。自分がくたびれたとは言わないで、群衆がくたびれていますと問題をすり替えて、自分を正当化しているのです。ここに、弟子たちの内に正されなければいけない問題があったと思います。
弟子たちは、イエス様にどんなことも求めることが出来たのです。もし、くたびれているならば「くたびれた」と求めればいいし、お腹が空いていたならば「お腹が空いた」と言えば良かったのです。そうすれば、イエス様はそれをお聞きになって、弟子たちに必要な力を与えてくださってありましょう。
私たちもそうです。イエス様と共に働くといっても、イエス様なしに何かが出来るような人間ではないのです。いや、はっきり言えば、イエス様からのお力をいただくことなしには何もできない人間なのです。ですから、必要ならばどんなことでも求めれば良いわけです。それをしないで、「自分は大丈夫だけれど、あの人が・・・」というような問題のすり替えをしたり、言い訳をしたりしますから、自分に本当に必要なものを祈って与えられるということができなくなってしまうのです。
イエス様は、弟子たちの心の中にある偽善を見抜かれて、それに気づかせようとして、あえて弟子たちを困らせるようなお返事をなさるのです。
「これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った。」(37節)
そんなに群衆のお腹が気になるなら、自分たちで食べ物を与えればいいではないかと言われたわけです。もちろん、弟子たちが本気で群衆のお腹のことを心配していたわけではなく、それは口実にすぎないということをご承知の上で、イエス様はそのように言われたわけです。それは、「私にそんな誤魔化しはきかないぞ」というお叱りの意味もあったでしょう。しかし、それだけで終わらないのが、イエス様の素晴らしいところです。イエス様は、弟子たちの本当の求めを見抜き、それを満たしてくださろうとしておられるのです。 |
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いったい、弟子たちの本当の願いとはなんでしょうか。弟子たちは群衆の空腹を満たすことではなく、自分たちの空腹を満たすことを願っていたのです。しかし、それもまた、実は弟子たちの本当の願いではありません。弟子たちは、本来、イエス様と共に弱い人たちを助け、愛のために働きたいという願いをもっていたに違いないのです。だからこそ、イエス様が「狼の中に羊を遣わすようなものだ」と言われるような難しい伝道の働きに、喜び勇んで出かけもしたのです。
しかし、今はそれをする力がない。哀れな群衆を目の前にしても、イエス様のように優しい気持ちにはなれない。できれば、自分の疲れなど忘れてそういう気持ちを持つ人間になりたいと思っても、やはりその力がないのです。弟子たちの本当の願いというのは、その貧しさを満たされることにあったのではないでしょうか。つまり、体が疲れていても、弱っていても、そういう肉の弱さや貧しさを克服して真の弟子になること、それが弟子たちの本当の願いに違いないのです。
それは、私や皆さんの心の中にある願いもまったく同じ事であろうと思うのです。実際には肉の弱さや心の貧しさがあって、とてもそのように生きることはできないのですが、できればそうありたいという願いをもっているのではありませんでしょうか。イエス様はそれを知り、その願いを満たしてくださろうとするわけです。 |
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38節を読んでみましょう
「イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です。』」
弟子たちが持っているものは、わずかに五つのパンと二匹の魚だけでありました。それは、せいぜいイエス様と弟子たちが少しずつ食べて満たされる程度のものであったわけです。つまり、自分たちの分しか持っていないのです。これは、誰もが持っているもの貧しさを表しているように思います。私たちは、自分一人が生きていくのに精一杯の力しかもっていないのです。いや、それすらもあれば良い方でありまして、自分が生きていく力にさえも不足しているのが私たちの現実ではないでしょうか。まして、人に与える物などまったくないのです。
しかし、イエス様は、弟子たちの持ってきた五つのパンと二匹の魚をご覧になって、「なんだ、それしかないのか」とは仰いませんでした。ここは大切な部分です。確かに、私たちの持っているものは小さいのです。無きに等しいのです。「だから、私には何もできない」と、私たちは言います。しかし、イエス様はそうは仰っておられないのです。その小さなものでも良いから持ってきなさいと、イエス様は私たちの貧しい献げ物を求めておられるわけです。
続いて、41節を読んでみましょう。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 すべての人が食べて満腹した。」
イエス様が弟子たちのもってきた献げ物を受け取り、祈り、そしてそれをもう一度弟子たちの手に渡して、人々に配らせると、なんと五つのパンと二匹の魚は五千人を超える人々のすべてに行き渡り、みなを満腹させたというのです。
この奇跡の意味するところは、第一に、たとえ私たちのもてる物がどんなに小さく、貧しく、無きに等しいものであっても、イエス様の御手の中で神様の栄光をあらわす物へと変えられるということです。こんな小さな力、こんな貧しき力など何のお役にも立たないと言ってはいけません。もとより私たちの貧しさなどイエス様は先刻ご承知なのです。イエス様が求め給うのは、大きな力、多額の献金ではありません。真実の献げ物なのです。それを、イエス様の御手によって神様のお役に立つものに仕上げてくださるのです。
第二のことは見落とし易いのですが、「弟子たちに渡しては配らせ」とあります。イエス様は、パンと魚を祝福して裂かれた後、それをもう一度弟子たちの手にお返しになったのです。そして、弟子たちの手で、それを配らせたわけです。五千人の給食という奇跡は、確かにイエス様のなさった御業でありますが、そこで働いたのは弟子たちであった、いやイエス様が弟子たちにその働きをさせてくださったということなのです。弟子たちの願いは、自分たちの貧しさにもかかわらず、イエス様のまことの弟子となることでありましたが、イエス様はそれをここで実現してくださっているわけです。
みなさん、私たちもイエス様の真の弟子になることができるでしょうか。それができるかどうかは、私たちの知恵や力によるのではありません。私たちは、人に与えるようなものは何一つ持っていない人間なのです。ですから、自分を守ろうとするならば、それだけで精一杯の人間なのです。けれども、自分を守るということについては一切イエス様にお委ねして、小さく貧しい自分をイエス様の為にお捧げするということが必要であります。そうすれば、イエス様は、私たちを神の国の豊かさに与らせてくださり、その無尽蔵の豊かさから、人々のために多くのものを与えることができる人間としてくださるのです。どうぞ、そのイエス様の祝福の力を信じて、自分をイエス様にお捧げする者になりたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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