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イエス様はガリラヤの町々村々を歩かれて、人々に神様のお話しをしたり、病気を治したり、悩める彷徨える魂を神様のもとへと、導いておられました。しかし、どこに行きましても、イエス様の行かれる所には、病める人、罪に悩む人、人生の落伍者となってしまった人、そういう人が後から後からやってくるのです。普通の人でありましたら、そういう人が後から後からやってきましたら、「ああ、もういやだ。疲れた」と音を上げてしまうところですけれども、イエス様は一言もそういうことを仰いませんでした。それどころか、群衆の飼い主のいない羊のような有様をご覧になって深く憐れまれたと、聖書はイエス様の優しいお心について語るのであります。
しかし、だからこそイエス様には休む間もありません。そこでイエス様は弟子たちをお集めになり、伝道者としての心構えを一通りお教えになってから、ご自分の力を弟子たちに授け、町々村々にお遣わしになったといわれています。嬉々として出ていったか、恐々として出ていったか、いろいろであったでしょうけれども、弟子たちはそれなりに良い働きをして、イエス様のもとに戻ってきたのでありました。
今日のお話しはそこから始まっております。
「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」
遣わされた者は、遣わされた方のところに帰ってきて、ちゃんと報告をしなければなりません。
第一に、私たちはイエス様に遣わされて一日一日を生きる者でありますから、毎日寝る前にお祈りをして、ちゃんとイエス様に一日のご報告をしなければいけないと思うのです。その時、良いことばかり報告できればいいのですが、なかなかそういうわけにはいきません。ですから、だんだん報告をサボってしまうような事があるかもしれませんが、良いことだけではなく悪いことも、出来たことだけではなく出来なかったことも、ちゃんとイエス様に報告することが大切なのです。
そうすることによって、私たちはその日の務めから解き放たれます。イエス様は「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6章34節)と仰いました。しかし、報告をしなければ、私たちはその務めを、失敗を、困難を、ずっと自分の中に抱え込んでしまうことになるでありましょう。
第二に、教会の働きの報告ということも大事だと思います。週報の報告、教会総会の報告、それは誰のための報告かと言えば、私たちを遣わされている御方、イエス様への報告なのです。特に荒川教会は創立50周年を迎えまして、これから教会の伝道の歴史を振り返る記念誌の発行も計画されています。この件につきましては、これから皆さんに原稿執筆や献金など具体的にお願いをすることになると思いますが、これもまた、私たちを遣わしてくださっている御方、イエス様への報告として教会の大切な仕事であるということを覚えて、ご一緒に良い報告を編纂してまいりたいと願うのです。
第三に、最後の審判において、私たちは人生の報告をしなければいけないといういことであります。その時、私たちはイエス様にどういう報告をできるでありましょうか。私も、そのことはとても心配なのですが、聖書には「信仰による義人は生きる」と言われております。自分の人生を誇らしげに語る者が必ずしも義とされるのではないのです。むしろ、自分の行いを誇る者は自分の行いによって裁かれるだろうと言われております。一方、小さき者として主の憐れみにすがる他なく生きてきた者は、主の憐れみによって救われると教えられているのです。ここに、私たちの希望があります。どうか、自分の立派さではなく、主の救いの恵み深さを誇るような生き方をしたいものであります。
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その点につきまして、伝道から帰ってきた弟子たちの報告はいかがであったか、私はちょっと気になるのです。彼らは「自分たちが行ったことや教えたことを、残らず報告した」と、書かれています。これだけでは本当のところがよく分かりませんが、たとえ彼らの伝道がどんなに素晴らしい働きであったとしても、それは果たして自分の行い、自分の教えとして誇ることができるものなのかどうか、と思うからです。
聖書には「誇る者は主を誇れ」という御言葉があります。それを語ったパウロという人は、ほかのどんな使徒よりも多く働いた人でしたが、決して自分のことをほこりませんでした。そして、すべては主のお陰であると、主をたたえた人なのです。その点からしますと、今日に書いてありますのは、弟子たちが「自分たちが行ったことや教えたこと」を報告したというのですが、本当はそうではなくて、イエス様が何をしてくださったのか、そのことを感謝と喜びをもって報告するというのでなければいけなかったのではないか、と思ったわけです。
参考にご紹介しますと、ルカによる福音書10章17-20節には、72人の弟子たちが伝道から帰ってきてイエス様に報告したというお話しが書かれています。これは今お読みしているお話しとはまた別の時の話なのですが、参考にはなると思いますのでご紹介しましょう。
「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』 イエスは言われた。『わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』」
弟子たちが伝道の成果を喜んで報告したという話であります。しかし、イエス様は、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と諭されました。つまり、あなたに与えられた力を誇るのではなく、あなたがに約束されている救いを喜びなさいと仰られたのです。
私たちがイエス様に何を報告するにしましても、すべては「誇る者は主を誇れ」(1コリント1:31)という原則をわすれていけない、私たちは主の恵みによって活かされているのだということを、肝に銘じたいと思います。 |
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さて、兎にも角にも弟子たちの報告を聞いたイエス様は、「しばらく休みなさい」と弟子たちに言われました。31節
「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」
イエス様は私たちに働きもお与えくださる御方ですが、このように休みをもお与えくださる御方ですから、感謝でうs。
昔から日本人は勤勉だと言われてきました。その一方で、働くことにあまりにも高い価値観を持っているために、休んだり、遊んだりすることが苦手だとも言われてきたのです。
しかし聖書は「休む」ことの大切さを真剣に語ります。それをもっともよく表しているのが、モーセの十戒の第四番目にある「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という掟でありましょう。これは、六日目の間働いて七日目には休まなければならない、この日にはどんな仕事もしてはいけない、何が何でも休まなければいけないという掟です。このように、聖書では、神様が人間に休むことの必要をお定めになっているというのです。
ユダヤ人たちは、滑稽なぐらいに、この「休み」を守ろうとしました。イエス様の時代には、この休みを完全に守るために1500以上もの禁止事項があったといいます。その中には、「六スタディオン(約1キロ)以上歩いてはいけない」とか、「アルファベットを二文字以上書いてはいけない」とか、「結び目を造ったりほどいたりしてはいけない」とか、もっと馬鹿馬鹿しいのは「安息日にめんどりが生んだ卵を食べてはいけない、なぜならそのめんどりは安息日の律法を犯して卵を産んだからだ」というものや、「動物は屠殺してはいけないが、しらみは除いてもよい」ということまで決められていたというのです。そこまで真剣に「仕事を休む」ということを守ろうとしたというのは、ある意味で見上げたものだと思います。
しかし、こうなると本末転倒といいますか、安息日は規則を破らないように神経をすり減らすばかりの日になって、確かに仕事はしないのかもしれませんが、とても心休まらない日になってしまうのです。イエス様には、このような律法学者たちの造った規則が、人々から真の休息を奪っているとんでもない悪法にみえたのでした。
それで、イエス様は、「安息日のために人がいるのではなく、人のために安息日があるのだ」と、律法学者やファリサイ派の人々の安息日の守り方を真っ向から否定されました。さらに、イエス様は「わたしは安息日の主である」、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と仰いまして、人々に本当の休みを、つまり魂の安息を与えようとなさったのです。
当然、律法学者やファリサイ派の人々はそんなことを認めようとしませんから、イエス様との間に激しい論争が繰り広げられるようになります。それがもとで、イエス様は律法学者、ファリサイ派の人々に憎まれるようになり、ついには十字架にかけられてしまうことになります。ですから、イエス様という御方は、ご自分の命をかけて「真の安息」についてお語り、その休みを人々のお与えになるために、実際にご自分の命をさえ捧げになった御方であるということができるのです。
そういうことを考えますと、「しばらく休むが良い」というのは真に自然な言葉でありますが、何気なく聞き過ごしてはいけない、本当にしっかりと受け止めなければいけないイエス様のお言葉なのです。 |
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「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」
「人里離れたところに行って」と言われています。私たちが目まぐるしい日々の生活から離れ、またこの世の人々とのつき合いからも離れて、退いて、静かな寂しい場所に行く必要があるのだということが言われているのです。
仕事に忙しい、子育てに忙しい、人のお世話に忙しい、そういう忙しさが楽しく、充実感があり、幸せであるということもあります。しかし、「忙」という字は「心を亡ぼす」と書きます。私たちは「出入りする人が多くて食事をする暇もない」というような忙しさに、いつまでも耐えることはできないのです。イエス様は、あなたがたは日々の生活を離れ、人々のいる場所から退き、この世のすべてのことから解き放たれて休むことが必要だと、言われるのです。
実は、「人里離れた所」というのは、主イエスの祈りの場所でありました。マルコによる福音書1章35節には、こう記されています。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
イエス様はしばしばこのように、神に祈ることによって、安息を得ておられたのです。そして、その私の安息の中に、あなたがたもいらっしゃいと招いてくださっている、それが「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」というイエス様のお言葉なのではないでしょうか。
私は、これは教会のことではないかと思うのです。教会というのは、荒川教会もそうですが、町の中にあるのでありまして、決して人里離れたところとは言えません。しかし、教会というところは、たとえ町の中にあっても、この世とは違ったところでもあります。日々の生活から切り離された場所です。この世のどんな修羅場にありましても、私たちは教会に来て、神がいますことを思い起こし、信仰と希望と愛とを回復するのであります。その時、私たちの魂は休むことができるのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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