十二使徒の派遣
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書10章1ー11章1節
旧約聖書 イザヤ書52章7-10節
収穫は多い
 イエス様は失われた魂をどこまでも探し求め、愛してくださる良い羊飼いです。イエス様が町々、村々を歩いて伝道をされていますと、そこで多くの悩める魂、迷える魂、病める魂に出会われました。イエス様はそれをご覧になって、「飼い主のいない羊のようだ」と深く憐れみ、胸を痛めてくださったのです。そして、イエス様は、弟子たちに「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈りなさい」(37-38節)と言われました。

 飼い主のいない羊のような人々を、イエス様が「収穫」と言ってくださっていることに大切な御心があります。人々が神様を信じないで勝手な生き方を送り、親が子を殺したり、子が親を殺したり、子供が残忍な殺人者と化したり、このような悲しむべき事件が頻発しているこの時代を見て、みなさんは嘆いたり、たじろいだり、ため息をつくばかりになってしまっていないでしょうか。こんな時代に幾ら神様の愛を説いても無駄だと半ば諦めていないでしょうか。しかし、イエス様は、人々が生きる道を失い、右往左往し、荒れ狂ったり、悩み疲れたりしているのを見るとき、そこにこそ愛すべき魂があると言ってくださったのです。そして、それを「収穫」と言ってくださいました。この言葉には、これらの魂を集めて、そっくり神様への献げ物としようというお心がそこにあるのです。時代が悪ければ悪いほど収穫が多い、今こそ収穫の時であると、イエス様はますます伝道への意欲と希望を膨らませておられるのです。

 けれども、収穫の時には「ネコの手も借りたい」と言いますように、兎にも角にも多くの働き手が必要です。イエス様も、飼い主のいない羊のように迷える多くの魂をごらんになって、これらを根こそぎ神様のもとにお連れしたいと思いました。しかし、働き手が少ないということをお認めになるのです。

 荒川教会もそうかもしれません。収穫すべき魂は、この荒川区にもたくさんあります。少ないのは収穫ではなく、働き手なのです。ですから、イエス様は、「働き手を送ってください」と主に祈りなさいと言われました。「あなたたちの働きが足りないのだ」とお叱りになるのではなく、「働き手を求めて祈りなさい」と言ってくださるところに、イエス様の私たちへの優しいお心があると思います。多くの失われた魂を神様のもとにお返しすることができるように、収穫の主に「働き手を送ってください」と祈っていこうではありませんか。
十二使徒の派遣
 しかし、それは自分には信仰も力もないから、他の人を送ってくださいという虫のいい祈りであってはなりません。もし、私たちが本当に失われた魂のことを思い、神様にお返しするために何とかしなくてはと思うならば、働き手を送ってくださいと祈ると共に、自分自身もまたその一端を担う働きとしてくださいという祈りも起こるはずだと思うのです。

 イエス様も、「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と十二使徒たちに命じられただけではなく、十二使徒をまず働き手として聖別され、彼らにご自分の権能をお授けになり、また様々な指示をお与えになって、町々、村々に遣わされたというのが、今日お読みしましたところなのです。10章1節

 「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」

 「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ」という部分がとても重要です。イエス様のために働くということは、この世の小さき人々のために働くということです。しかし、「よし、やるぞ」と思って、自分のやる気だけで、あるいは親切心だけで、人々のところに言っても駄目なのです。

 人間の優しさ、人間の親切、人間の愛、人間の思いやり、それだけは人の魂は救えません。私は何度もそういう経験をしてきました。時には絶望したくなる時もありました。しかし、これはイエス様がしておられる仕事なのだ、私はそのお手伝いをしているに過ぎないのだと思うとき、不思議と希望が湧いてきます。たとえ自分にできることに限界があっても、イエス様は御業を最後まで成し遂げてくださるという確信です。この希望を失わないためには、私たちがいつもイエス様のもとに呼び集められて、そこで力を戴いて、イエス様のもとから人々のところに出ていくということが一番重要なのです。

 人に親切にするとき、人のために何かをしようとするとき、あるいは福音を伝えようとするとき、自分の優しさや熱心さから行動を起こすなら、必ず失敗します。そうではなく、「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ」とありますように、まずイエス様のもとに集められ、イエス様の愛、イエス様の御心、イエス様の御力を戴いて、イエス様のもとから、私たちの行いを始めるということが必要なのです。
派遣にあたっての指示
 さて10章5-42節はとても長いところですが、要するにイエス様が十二使徒を世に派遣するにあたって与えられた指示について書かれています。問題は、わたしたちにとってこれらの御言葉がどういう意味をもっているかということです。みなさんは十二使徒ではありませんし、宣教者として世に遣わされているわけではないから、あまり関係ない御言葉だと思う部分もあるかもしれません。しかし、クリスチャンというのは、どのようば場所で生きているにしろ、イエス様によってそこに遣わされているのだという気持ちを持つことが大事だと思うのです。

 身近なことを言えば、夫に対して、妻に対して、子供に対して遣わされているということもありましょう。仕事やボランティアをしていれば、職場や施設、あるいは地域に遣わされていることもあります。いずれせよ、わたしたちはイエス様の僕として、家族や、隣人や、この世に対して生きる者とされたのです。

 そういう意味からしますと、十二使徒に与えられたイエス様の御言葉は、わたしたちが、イエス様の僕として、隣人やこの世に対してどのように生きるべきかというイエス様の教えとして受け止めることができるのです。

 今日はすべてを事細かにお話しをする時間がありません。七つのポイントに的を絞ってお話しをさせていただきたいと思います。

@ 「天国は近づいたと宣べ伝えなさい」 7節

 第一のポイントは7節です。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」とあります。わたしたちクリスチャンは、この世のどんな悲しい現実、恐ろしい現実を前にしても、決して絶望してはいけないのです。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」とは、そういう絶望的な状況にも、神様が来てくださるのだ、そして救いが訪れるのだという希望を語りなさいということなのです。

 誰にそれを語るのか、みなさんがイエス様に遣わされている人々にそれを語るのです。家族かもしれませんし、職場の仲間かもしれませんし、友人の誰か、困っている人の誰かかもしれません。誰に対してであれ、わたしたちは神様から来る希望を人に与える者になりたいと願うのです。

A 「平和があるようにと挨拶しなさい」 12節

 第二のポイントは、12節です。「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」とあります。実は、これは、ユダヤ人にとっては特別なことが言われているわけではありません。ユダヤ人は誰もが「平和があるように」、つまりシャロームという言葉を挨拶の言葉にしていたのです。韓国人であれば「アンニョンハシムニカ」ということであり、日本人にしてみれば「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」ということです。つまり、クリスチャンたる者は、誰に対しても挨拶を心を込めてしなさいということなのです。

 アンニョンハシムニカという挨拶は、シャロームと同じように平安がありますようにという意味です。日本の挨拶の場合は、相手の健康、元気さを喜ぶような思いが込められていると思います。このように挨拶というのは、どこの国におきましても相手の幸せを祈る言葉です。家を尋ねるとき、誰かに出会う時、心を込めて挨拶をすることは、相手の幸せを祈るということであり、それを基本として人間関係が育っていくということで、本当に素晴らしいことだと思います。

 イエス様はクリスチャンだからといって特別な挨拶をしなさいと言っているわけではなく、当たり前の挨拶の言葉であっても、本当に心を込めて相手の幸せを祈って、挨拶をしなさいと教えてくださっているわけです。

B 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」

 第三のポイントは、16節です。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」とあります。クリスチャンというのはオオカミではなく、羊であります。しかし、羊というのは弱いし、おとなしいし、愚かな動物ですから、それでは世のオオカミに負けてしまうことになります。

 では、オオカミに勝つためにはどうしたらいいのか。普通は、オオカミよりも強い獣にならなくてはいけないと考えるでしょう。「毒をもって、毒を制す」という言葉がありますが、クリスチャンだからと言って良い子にしていたらオオカミの犠牲者になるだけです。オオカミに勝る毒、牙、力、策略というものを持たなければいけない、これが普通の考えです。

 しかし、イエス様はわたしたちを羊として世にお遣わしになるのだと言っておられます。オオカミになれとは言わないのです。弱い、愚かな羊として、飼い主がいなければ生きることができないような羊として、オオカミの中に遣わすと言われるのです。

 それはなぜでしょうか。イエス様の御心、すなわちそれは神の御心でありますけれども、それは羊がオオカミになることではなく、この世のオオカミとして生きているような人々がすべて、神の羊になることだからです。そんなことは不可能だと誰もが思うのです。しかし、人にはできないが、神にはできるということを信じて、どんな救われがたい人間も、どんなにわたしたちに害悪を与える人間も、神様は造りかえて神の羊にすることができるという希望をもって生きるのが、わたしたちの生き方であるべきなのです。

 そうしますと、蛇のように賢くと言われているのは、決してクリスチャンもオオカミや蛇のようにこの世の力や知恵が必要だという意味ではありません。クリスチャンにとって賢さというのは、神の言葉に従うということなのです。それがわたしたちの知恵であり、賢さです。そして、それに鳩のように、幼子のように素直に従う信仰が必要だということなのです。

C 「人を恐れるな」 26節

 第四のポイントは、26節です。「人々を恐れてはならない。」とあります。そうは言っても、人間というのは恐い存在です。間違っている人を注意したら殺されてしまったとか、理由もなく殺されてしまったという事件が頻発しているではありませんか。そういうことではなくても、人の言葉や行いが、わたしたちの心を深く傷つけることがあります。そう思うと、正直に言って、わたしも人が恐いです。言葉で、暴力で、自分が人から傷つけられたり、拒絶されたりするかもしれないとビクビクしてしまいます。

 しかし、イエス様は、こう言われるのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節) 私を傷つける人間がいないといっているのではありません。わたしたちの心や体を深く傷つける人間がいるけれども、あなたがたの魂を神様の御手から奪い取ることができる者は誰もいないのだと言っているのです。別の言い方をすれば、わたしたちは肉体や心が傷つくことを恐れてはいけない。魂が神様を離れていくことを恐れないということではないでしょうか。

D 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」

 第五のポイントは、32節です。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」イエス様のために何かをするということができない時もあると思うのです。しかし、そういう時でも、自分がクリスチャンであるということを、どのような時にも、どのような人に対しても、堂々と言い表す者でいなさいということです。簡単なような事ですが、大切なことなのです。

E 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」 38節

 第六のことは、38節、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」ということです。これまでのお話しで分かりますように、イエス様は「羊をオオカミの中に遣わす」とか、「体を殺しても魂を殺すことができない者を恐れるな」とか仰いまして、クリスチャンとして、神に遣われて生きるということは決して楽で、楽しいことばかりではないのだということを予告しておられます。それは、この世的に見れば、敗北と思えるような人生を生かされることもあるということなのです。

 クリスチャンの人生というのは、イエス様に従う道ですから、決して自己実現の道ではないのです。イエス様は自分を捨てて十字架におかかりになりました。この一見敗北とも思える道が、神の勝利であるというのが、イエス様の道であり、クリスチャンの歩む道なのです。自分を捨てて、十字架を負う。そこにわたしたちの霊的な勝利の道があることを信じたいと願います。

F 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」 42節

 最後は、42節「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」というお言葉です。まず、ここではイエス様の弟子であるわたしたちは、小さな者であると言われています。先ほども申しましたように、クリスチャンというのはこの世の中で弱くて、小さな羊なのです。何かをするとしても、心を込めて挨拶をするとか、自分がクリスチャンであることを表明するとか、苦しみに耐えるというような貧しい業しかできない者であります。しかし、そういうわたしたちを見て、この小さな羊に水一杯を恵んでくれるような親切や、優しい言葉をかけてくれる人がいることも事実です。わたしたちは人に与えるだけではなく、そういう人々の優しさや親切を受けることによって、人々にイエス様の救いを与えることができるというわけですから、本当に感謝なことでありませんか。

 今日はたいへん長い御言葉を、少し無理をして一度にお話しをしましたので、少々雑駁なお話しになったかもしれませんが、わたしたちがイエス様に世に遣わされている人間なのだということを覚え、この一週間、主の力によって証し人として歩ませていただきたいと願います。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp