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今日お読みしましたところには、イエス様は私たちの良い羊飼いであるということがかかれていたと思います。ここに羊飼いという言葉は出てきませんけれども、イエス様がそのような御方として、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ということが書かれていたのであります。
実は昨日から今日にかけて教会学校の夏期学校が行われまして、ちょうどこの礼拝が始まる前に解散したのですが、今年の夏期学校の主題がちょうど「やさしい羊飼い」というものでありました。その夏期学校で三つの聖書の箇所を学びました。一つは、ヨハネによる福音書10章10-11節です。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
それから教会学校教師による恒例の寸劇では、迷子の羊の話をしました。これは、ルカによる福音書15章4-7節に書いてあるお話しです。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
そして、三つ目は詩編23編です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」
このように、聖書は私たちの救い主であるイエス様は、私たちの良い羊飼いであるということを繰り返して教えてくださっているのです。
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羊というのは洋服や織物、革製品などで、日本人である私たちも随分お世話になっています。けれども、生きた羊や羊飼いはあまり馴染みがありませんし、知識も乏しいのです。その点、私もみなさんとまったく同じなのですが、羊飼いの仕事というのは「羊の群れを導き、与え、守り、共にいる」ことであると言われています。
「導く」というのは、羊たちを新しい牧草地に連れて行くことです。日中は日差しが強すぎるので、涼しい夜に月明かりを頼りに、羊の群を牧草地に移動させるのだそうです。ところが、この羊は近眼だというのです。草を食べるときには目の前の草を無心に食べて進み、群れで移動するときには前の羊の後ろ足に頭を突っ込むようにして進みます。目の前のものしか見えないものですから、うっかり群れを離れたりするともう戻れなくなってしまうのだそうです。羊飼いはこういう羊の一匹一匹に気を遣いながら群れを導いていくわけです。
「与える」というのは、羊たちに牧草を与える、あるいは水を与えるということであります。どこにでも草があり、水があるというのならば、羊かもそんなに苦労して遠くに羊の群を移動させる必要もないのでしょうが、乾燥して暑さの厳しいパレスチナ地方では、どこによい牧草地があるか、どこに水飲み場があるか、そういう知識を羊飼いがちゃんと持っていなければ、羊の群に草や水を与えることはできないのです。
「守る」というのは、野獣や盗人から羊の群を守るということです。羊飼いは、杖と石を投げ紐をもって、これで野獣や盗人を追い払ったと言います。石投げというのは幼稚に思うかも知れませんが、少年ダビデはこれで巨人ゴリアトを倒したとありますように、たいへん有効な武器となったようです。もちろん、そういう武器がありましても、野獣と戦うということは羊飼い自身の身に危険が迫ることですから、雇い人に過ぎない羊を捨てて逃げてしまう羊飼いも多かったようであります。
それから、「共にいる」ということです。羊飼いは日帰りで羊を移動させるようであったようですが、季節によっては何日も牧草地から牧草地へと渡り歩いたそうです。そういうときには、夜も交代で羊の群の番をしたのだということです。つまり、昼も夜も羊と共にいるということが羊飼いの大切な仕事であったのです。
このように羊飼いの仕事が「羊を導くこと、与えること、守ること、共にいること」ということは、羊の生活すべてにおいて、いちいち深く関わる仕事であったということです。羊飼いがいなければ、羊はどこを歩いて良いのかも分からない。ご飯にありつけない。身を守ることもできない。安心して眠れない。それほど羊は羊飼いに密接な関わりをもって、頼って暮らしていたのです。 |
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ところでイエス様は町々を巡り、村々を歩かれて、そこで多くの悩める魂、悲しめる魂、病める魂に出会われました。それをご覧になるたびに、イエス様は「飼い主のいない羊のようだ」と、深く憐れまれたというのであります。
人間にも羊飼いが必要です。人間というのは独りでも、羊よりもうちょっとマシに生きられると思っているかもしれません。だから「自分の進む道は自分で決める」とか、「自分の身は自分で守る」とか、「人の世話にならないで独りで生きていく」とか、そういうことを平気で口にすることがあります。けれども、よく考えれば人間の命だって、誰の世話にならない、何のお陰でもない、まるでこの宇宙から切り離されて存在しているような、独立した命というのはないのです。自然の恵みというものもありますし、家族や社会といった人間関係によって支えられているということがあります。そのつながりを切って、「私」という人間は存在できないし、生きていないのです。
聖書は、その点を非常に大切にします。隣人愛や自然との共生ということもそうですが、もっと根本的には、「あなたの造り主である神様を心に覚え、神様との関係をしっかりともって生きなさい」ということを言うのであります。そこにあなたの命の根源があり、その上にしっかりとした人生が作り上げられるのだというのであります。
『ルカによる福音書』に「放蕩息子の譬え」があります。ある息子がお父さんと一緒に暮らしていました。ところがある日、息子は「お父さんがいなくても自分は生きていけるんだ」と主張して、無理に財産を分けてもらって、家を飛び出してしまうのです。
息子はそこで初めて世間というものを知ります。お金のあるうちはみんながちやほやと相手にしてくれて、「俺もなかなかのものじゃないか」と思っていました。しかし、お金を使い果たしてしまうと誰からも相手にされなくなってしまいます。その時になって、自分の力だと思っていたことは、全部、お金の力だったということに気づくのです。その上、飢饉が襲いました。彼は世間からもつまはじきにされたうえ、自然からも厳しくされて、本当に自分が無力で、何もできないちっぽけな人間なんだということに気がつくのです。
その時に思い起こしたのが、お父さんと一緒に暮らしていたときの自分の幸せであります。お父さんの優しさも厳しさも、すべてが懐かし思い出されました。家を出る前は、お父さんなんかいなくても、お金さえあれば自分一人で生きていけると思ったのですが、それはまったくの間違いでした。お金なんかよりも、お父さんの愛情、お父さんの人格的な存在そのものが、自分にとってなくてならぬ存在だったのだということが分かったのです。
息子は、「お父さん、ごめんなさい」という気持ちをもって、おそるおそる家路を辿ります。ところが、お父さんの方も息子の身を案じて、今か今かと帰りを待ち続けていたのです。お父さんは、まだ遠くにいる変わり果てた息子の姿を見つけるや否や、かけよって息子を力一杯抱きしめ、その帰りを喜んだという話です。
この譬え話は、自分は独りでも生きていけると込んでいた人間が、世間の冷たさに遭い、また自然の厳しさに遭い、独りで生きるということは本当に惨めで情けないことなんだということに気がついたということを物語っています。人間が独りで生きることができないということは、それなりにうまくやっていられる時にはなかなか気づかないものです。この譬え話でも、自分が裸にされるような厳しい経験をして、はじめてそういう自分の思い上がりとか、愚かさに気がつくのです。
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イエス様は、そのような群衆をご覧になって、「飼い主のいない羊のようだ」と深く憐れまれたのです。
この「深く憐れまれた」という言葉は、はらわたが揺り動かされるような激しい感情を表す言葉です。「人間というのは愚かなだなあ」と上から下へ見下すように憐れんだのではありません。イエス様は人間の愚かさを見て、決して軽蔑したりはしないのです。そうではなく、自分自身の胸とか胃が締め付けられるような、はらわたで感じるような苦しみ、痛みを覚えて、愚かな人間を憐れんでくださったというのです。
こういう苦しみを感じるほどの憐れみというのは、神様にふさわしくないという考え方があります。これでは、人間の愚かさに神様が振り回されていることになってしまうからです。神様というのは、もっと超越していなければいけないというわけです。
たとえば、私たち人間の場合もそうです。正直な話し、人の悩みや、苦しみや、悲しみが、自分の生活に入ってくるのはたまったものじゃないという気持ちは、みなさんにもあるのではないでしょうか。ですから、人の悩みや悲しみに対してもある程度までは同情するけれども、それ以上は背負いきれないと突き放してしまうのです。そうでなければ、人の悩みや悲しみで、自分の心や生活が振り回されたり、踏みにじられてしまうことになるからです。そんな深い憐れみや同情をもっていたら、自分が自分でなくなってしまうのです。
まして、神様が人間の悩みや愚かさに振り回されていたら、神様が神様らしくなくなってしまう、そういう考えもあるわけです。しかし、聖書はそういいません。どんなに心の優しい人間であって、自分の捨ててまで人への憐れみ、同情に生きることはできません。そこまで深い憐れみを持つことができるのは、神様のほかいないというと教えてくださるのです。
その神の愛の極みが十字架です。十字架にかかって人間に殺されるということほど、神様らしからぬことはありません。しかし、もしあそこでイエス様が、人々の罪深さや、愚かさ、罵りや、嘲りに対して、神様らしく立ち向かおうとされたならば、つまりそのような人々を非難し、裁き、懲らしめられるとするならば、どうでしょうか。私たちが、あの放蕩息子のように自分の愚かさに気づいたとしても、どこに帰るところがなくなってしまうのです。
しかし、イエス様は、決してそのようなことをなさいませんでした。「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と、罪深い人間、愚かな人間、惨めな人間を深く憐れまれたのです。それはまさに、自分が人の罪、愚かさに踏みにじられて生きられなくなるほどの深い憐れみでした。この憐れみがあるからこそ、天に対しても、地に対しても罪を犯して生きてきた私たちでありますが、もう一度立ち帰って神様と共に生きることがゆるされるのです。イエス様がそのように深い憐れに生きてくださったのでした。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
私たちが、主のような憐れみ深さをもって生きることは不可能のように思います。私たちは依然として、人の罪が許せなかったり、人のことよりも自分のことばかりを考えて生きざるを得ないような弱さをもっています。しかし、私たちが主のような憐れみをもって生きれなくても、主がその憐れみをもって生きてくださった、イエス様が私たちの良き羊飼いとなってくださる、そこに私たちの救いがあるのです。
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羊というのは、おとなしくて、素直で、従順な動物に見えます。しかし、実際はなかな言うことを聞かず、しばしば群れから離れてしまう、意外に扱いにくい動物なのだそうです。私たちもそうでないでしょうか。しかし、主がそんな私たちを深く憐れんで、忍耐強く導き、恵み、守り、共にいてくださる良き羊飼いとなってくださるのですから、私たちはできるだけ主の良い羊となって、主の導きに従えるように、今週も祈りつつ、尋ねつつ、歩んで参りたいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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