会堂長ヤイロの娘の癒し <2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書5章21-43節
旧約聖書 ヨシュア記3章1-17節
イエス様だけが希望の光
 今日は、「ヤイロの娘とイエスの服にふれる女」というところから、前回の続きをお話ししたいと思います。

 ここに出てくるヤイロという男は、会堂長の役職につく町の有力者であり、人徳も、教養も、財産も、何一つ申し分ない立派な人物でありました。方やイエスの服に触れる女というのは、12年間難病に苦しみ続けた末、治療代で身代をつぶし、身も心のぼろぼろになってしまった名も知れぬ女性です。世の中は不公平に出来ています。同じように神様から命を戴いておりましても、会堂長のように何もかも持ち合わせる人がいるかと思えば、難病に苦しむ婦人のように何もかもついていない人もいるのです。

 しかし、神様は間違ったことをなさっているわけではありません。持っている人は持っている人なりの悩みや憂いというものがあります。名誉ある人や地位のある人は、それだけ重い責任を負い、厳しい批判にさらされ、窮屈な人生を送ることになります。「何も知らない人は幸せだ」などと言われますように、知恵や知識のある人はそれだけ憂いや心配も増します。そういうことを思いますと、私などは無名であろうと、無知であろうと、貧しかろうと、今の生活が性に合っているだなあと思ったりします。

 また、人生には持っていようが持っていまいが、そんなことには関わらず誰もが同じように抱えている人間の問題というものもあります。たとえば病気の問題、罪の問題、死の問題というのは、財産があろうとなかろうと、有名であろうと無名であろうと、すべての人間が同じように苦しむ問題なのです。

 こういうことを合わせて考えますと、人間というのは見かけ以上に平等なのではないかと思えるのです。そして、結局、誰にとっても重要なことは、人を羨んだり、蔑んだりするのではなく、悩みや苦しみを通してイエス様に出会うこと、イエス様を通して神様の愛と救いを知ること、そして自分の十字架を負ってイエス様の御跡に従うことだと言えるのです。

 会堂長とイエスの服に触れた女もそうです。地位や名誉や財産という点ではまったく違う人間でありましたが、共通することが一つありました。それは二人とも、あらゆる手だてを尽くしてもどうにもならなかったという深い絶望感しながら、その上でなお希望の光をイエス様に見いだして、イエス様のもとにやって来たということです。

 このように二人は別々の世界に生きる人間であったかもしれませんが、この世の望みという望みがことごとく消え去ってしまった時に、二人が行き着いたところは結局一つでありました。会堂長にとっても、名も知れぬ貧しい婦人にとっても、イエス様だけが、絶望の暗闇の中で、なお燦然と輝く唯一の希望の光だったのです。
絶望を越えて進む
 さて、35-36節をごらんください。

 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」

 前回のお話しの最後で、私はこういうことを申しました。イエス様が、どんな人間に対しても同じように恵み深くあってくださるということは、私たちにとって本当に大きな希望でありますが、幾らイエス様が愛してくださったとしても、娘が死んでしまったならばもう一巻の終わりではないか。事態はもう決まってしまったのだ。救いはなかった。それが結論ではないか。他に何があるというのだ? 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 もうイエス様の出る幕ではないという、この言葉が示しているように、イエス様を信じようが、信じまいが、そんなことはどうでもよくなってしまったのだということなのです。

 しかし皆さん、キリスト信仰というのは絶望からの出発だと言っても良いと思います。絶望というのはあらゆる灯火がすべて消えてしまうことで、これほど恐ろしいことはありません。絶望というのはとどのつまりであって、もうそこから先に道はないという終着駅です。しかし、イエス様は私たちの手を取って、「大丈夫だ、私を信じてついて来なさい。これからが先が信仰の道なのだ」と、絶望という名の終着駅を越えて、なお希望の道を歩ませてくださるのです。

 絶望を越えて私たちに希望を与えるものでなければ、それは希望と呼ぶに価しません。私たちがしばしば絶望感に打ちひしがれるのは、イエス・キリストという希望ではなく、失望を終着駅とするようなものを希望としていたからなのです。それは本当の光ではなく、まやかしの光なのです。

 まやかしの光というのは歓楽街のネオンのようなもので、輝いているときは花のようでもあり、蝶のようでもあり、喜んで人々が群がるのでありますが、朝の光に照らされますと、歓楽街というのは現実にはこんなにわびしい、汚らしい街であったのかと驚くのです。私たちの人生にも、信じていた友に裏切られたり、頼りにしていた財産が泡と消えたり、思いがけぬ失敗をして自信を喪失したり、病気をしたり、そういう夢が破れる経験をして、現実には自分はこんなに惨めな、頼りない人間であったかの気がついて恐ろしくなることがあるのです。それがまやかしの光です。このような光を愛して歩む道の終着駅が絶望なのです。

 しかし、そういう時になってもなお、私たちを照らそうと輝いている光があります。絶望という終着駅をなお始発駅として進むことができるような希望であります。その希望を与えてくれる光が、世を照らすまことの光であるイエス様です。

 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 イエス様はそういう事態になってもなお「恐れるな、ただ信じなさい」と、会堂長を励まされました。それは、どのような絶望であっても、イエス様と共に歩むならばその絶望を越えて進む道があるのだということなのです。

 絶望というのは、人間にとってたいへん恐ろしいことでありますけれども、それによってまやかしの光が輝きを失い、代わりにまことの光が燦然と輝き出すならば、その絶望はたいへん価値のある経験となるに違いありません。
信仰をもって進め
 けれども、この希望の道は、普通の道ではありません。普通の道というのは、見たり、感じたり、理解して歩んでいくものであります。しかし、そうやって歩むことができる道はもう行き詰まってしまっているのです。そこから先の道はもう見ることも、感じることも、理解することもできません。だから、絶望なのです。

 しかし、ある人は「信仰とは空虚と見える所に踏みだして下に岩を発見することである」と申しました。絶望から先の道はもう見ることも、感じることも、理解することもできませんが、それでもなお、イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われる、そのお言葉だけを信じて、おそるおそるでもそこから一歩足を踏み出すときに、はじめて私たちが考えもしなかったような仕方で道が開けてくる、つまり空虚の中に足を踏み出して下に確かな岩を発見する、これが信仰によって歩むことができる希望の道なのです。

 またある人は、それは、羽根の生えたての雛がはじめて羽根を広げて初めて空気に乗って飛び立とうとするのと同じであるといっています。私たちも、不信仰という止まり木、不信仰という巣から、信仰の翼を広げて飛び立たなければならないのです。それは最初、地上に墜落するしかないことに見えます。自殺行為に思えます。しかし、その恐れを乗り越えて、信仰の翼を広げて飛び立ってみるならば、たとえ目に見えなくとも必ず神様の手が私たちを支えてくださっていることを知ることになるのです。

 それを経験しなければ、平安はありません。希望はありません。一生、不信仰という止まり木に止まってぶるぶる震えていなければいけないのです。信仰の道というのは、このように石橋を叩いて渡るというわけにはいけないのです。御言葉を信じて大胆に進むこと、これが信仰の道なのです。

 今日は、旧約聖書からヨルダン渡渉の話を読みました。これはモーセの後継者であるヨシュアが、いよいよイスラエルの民を引き連れ約束の地に入るという所の物語です。イスラエルの民が約束地の地に入るためには、ヨルダン川を越えなければなりませんでした。しかし、そこには橋はありません。満水の水をたたえてとうとうと流れるヨルダン川をどうやって渡るのか。道なきところをどうやって進むのか。そういう困難に直面した場面です。

 この時、ヨシュアはそこに目で見ることも、感じることも、理解することもできない神の道があることを確信していました。ヨシュアは祭司たちに、まずあなたちが契約の箱を担ぎ、民の先に立って、満水のヨルダン川を渡れと命じます。もちろん、そんなことをしたら溺れてしまいます。しかし、祭司たちは、やはりそこに見ることも、感じることも、理解することもできない神の道があることを信じて、深い川に一歩足を踏み入れるのです。するとその時、本当に驚くべき事が起こりました。神様の御力によって、上流の方で川の水が堰き止められ、ヨルダン川の水かさがだんだん低くなり、ついそれが干上がって川底が現れたのです。

 「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」(ヨシュア3章14-17節)

 重要なことは、「祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。」という部分です。水が堰き止められたから、川に足を踏み入れたのではありません。水がとうとう流れているヨルダン川に、見えないけれども神の備え給う道があるのだと信じて足を踏み入れた、その時にその信仰に答えるかのようにこの驚くべき事が起こり、道が開けたのです。

 ヨシュアはまた、ヨルダン川に渡る民をこのように励ましています。

 「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」(ヨシュア記3章3節)

 「これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」このヨシュアの言葉は、信仰によって神の道を歩むとはどういうことかということを端的に示しているのです。「これまで一度も通ったことのない道」とは、私たちの経験を越えているということです。しかし、恐れずに、二の足を踏まずに、信じて前に進もうとするならば、あなたがたの行くべき道は必ず開けてくる、これが信仰によって歩む神の道、希望の道だというのです。
タリタ・クム
 さて、会堂長ヤイロの娘の話に戻りましょう。37節

  「そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。」

 イエス様がこのように、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけにお供をゆるしたという話は、他に二つあります。一つは、山上の変貌であり、もう一つはゲッセマネの祈りです。信仰の世界というのは、誰にでも開かれているものです。しかし、その中には、選ばれた者たちだけが見たり、経験したりすることができる特別な領域というものもあるのです。

 この世では、ある人々が選ばれるということは、他の人々は選ばれていないということを意味します。しかし、神の国においては違うのです。神の国には競争もなければライバイルもいません。ある者たちが選ばれたということは、必ずすべての人たちの利益になることなのです。

 そこを理解しませんから、間違った選民思想というものが生まれます。ユダヤ人だけが神の民であるとか、クリスチャンだけが救われるということです。しかし、それでは本当は選ばれた人間も幸せになれないんですね。みなさんであっても、家族の中でただ一人神に選ばれてクリスチャンになり、教会に来ているということがあるのではありませんでしょうか。それを自分だけは救われるが、家族は地獄行きだと考えるなら悲しいではありませんか。家族が地獄に行くなら、私も一緒に地獄に行く。私は絶対にクリスチャンにならないという人の方がずっと優しい人間ということになります。しかし、真実はそうではないのです。私たちがまず選ばれたのは、家族みんなの益となるためなのだ、そう考えるべきことなのです。

 続いて読んで参りましょう。38-40節

 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。」

 ここには、まさに私たちには見ることも、感じることも、理解することもできない信仰の道をまっすぐに突き進んで行かれるイエス様の御姿が描かれているのです。

 「人々はイエスをあざ笑った」と掻かれていますように、それは常軌を逸していました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」これが常識というものでありましょう。そして、死んでしまったからには為す術はなく、ただ大声で泣きわめくしかないというのが、私たちの現実でありましょう。しかし、イエス様は、もう為す術のないはずの道を、「恐れるな、ただ信じなさい」と進み、「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と家の中に入っていくのです。

 誰も、イエス様が、この期に及んで何をなさろうとしているのか、何をなしえるのか、知り得るものはありませんでした。しかし、そこで、「恐れるな、ただ信じなさい」「死んだのではない、眠っているのだ」というお言葉だけを信じてイエス様について行く者と、イエス様をあざ笑って見ている者では雲泥の差があります。

 お言葉を信じてイエス様について行く者は、人間の絶望を越えて進むことができる信仰と希望を持っているのです。そして心には平安があります。しかし、絶望した者はどんなに希望が語られていようとも、それを信じようとせず、あざ笑います。しかし、自分たちには何の平安もなく、泣いたり、叫んだり、わめいたりすることに終始するだけなのです。

 みなさん、イエス様を信じる者は、どんな絶望においても希望を持つことができますし、その希望は失望に終わることがないのです。41節からを読んでみましょう。

 「そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」

 「タリタ・クム」というのは何かまじないのような言葉に聞こえますが、実はそんな特別な言葉ではありません。ごく普通の日常語で、父親や母親が「起きなさい」と娘を起こすときの言葉なのです。ただ、それを聖書はどういうわけか、翻訳せずタリタ・クムというアラム語そのまま書き残したのです。アーメン(その通りです)、ハレルヤ(主を誉めたたえよ)、インマヌエル(神我らと共にいます)、マラナタ(主よ、来たりませ)、エファタ(開け)という言葉と同じです。どれも、信仰生活の鍵となるような重要な言葉であります。

 タリタ・クム、この言葉も私たちの信仰生活の鍵となる希望を与える言葉として与えられているのです。どういう希望でしょうか。私たちを神なき望みなき滅びの向こう側から、イエス様が呼び返してくださるという希望であります。その希望を持つということが、私たちの信仰であります。人間的な希望ではありません。人間的な希望が全て尽きてしまっても、なおそこから突き進んでいく希望であります。

 この希望をもって、ヤイロはイエス様を最後まで信じ通したのです。どうか、このような希望を持って、そして信仰をもって、私たちもこの一週間を歩んで参りたいと願います。
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