会堂長ヤイロの娘の癒し <1>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書5章21-43節
旧約聖書 イザヤ書 40章27-31節
12年間、苦しんだ女性
 今日お読みしましたところには、二つの救いの物語が絡み合っていました。前回は、その中の一つの救いの物語についてお話しをしたのです。今日はもう一つの救いの話しにすすむわけですが、それだけではなく、その二つが絡み合っている書かれている、そこから浮かび上がってくるイエス様の御姿ということも考えながら、お話しをしたいと思います。

 まず会堂長ヤイロという人がイエス様のところにきて、愛娘の命を救ってくれと嘆願しました。この願いを聞いて、イエス様がヤイロの家に向かうことになりますと、物見高い群衆がイエス様に押し迫るようにゾロゾロとついて参りました。ところがその中に単なる物見高さではなく、12年間も難病に苦しみ抜いた婦人がまことの救いを求めてまぎれていたのです。

 彼女はヤイロのように正面切って、「わたしを救ってください」という勇気がありませんでした。ただ後ろからこっそりとついていって、イエス様の背中を見ながら「我を救い給え」と念じていたのです。しかし、そのうちこの婦人は彼女なりの一つの信仰の冒険をします。イエス様の正面切って「救ってください」とは言えないけれども、もっと側によってイエス様の着物にそっと触れてみよう、そうすればイエス様のお力がいただけるかもしれないと考えたのです。勇気を出して、彼女はそれを実行しました。すると彼女の祈りが天に通じたのでありましょう。イエス様の着物に触れたその瞬間、彼女は自分の病が癒されたことを全身で感じ取ったのでした。

 彼女は、大勢の群衆に囲まれてなおも道を進んで行かれるイエス様の後ろ姿を拝しながら、やはり一言も口に出さず心の中でひたすら感謝の言葉を念じていたことでありましょう。その時です。急にあたりががやがやと騒がしくなります。イエス様が「今、わたしの着物に触ったのはだれか」と探し始めました。「こんなに大勢の人が押し迫っているのに、誰が触ったかと言われるのですか」と少々不満げに語る弟子たちの声が、彼女にも聞こえてきました。そばでイライラしているのは会堂長ヤイロでありましょう。彼は、一刻も早くイエス様に来ていただきたいのに、こんなところで足止めされて気が気でならないのです。しかし、イエス様はそんな弟子たちの不満や、会堂長の苛立ちにも構わず、自分に触れた者を捜し出すまでそこに動かれる様子はありませんでした。

 婦人は迷いました。そして勇気を出してイエス様の前に進み出て、すべてを告白したのでした。長い告白になったことでありましょう。ここに至るまでの12年間の苦しみはどんなに掻い摘んで話しても、一言や二言で語り尽くせるものではありません。イエス様はそれをじっと聞いてくださったのでした。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救いました。これからはもう病気にならないで元気に暮らしてください」という優しい言葉をかけてくださったのでした。

 この婦人の話については、前回丁寧にお話しをしました。今日は、もう一つの会堂長ヤイロに注目したいと思うのです。
会堂長ヤイロの娘の死
 イエス様が彼女に慰めと祝福の言葉をお語りになっている時です。会堂長の家から人々がやってきました。そして会堂長にこう耳打ちをするのです。

 「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」(35節)

 会堂長の頭は真っ白になりました。せっかくイエス様が来てくだされば必ず救われると信じていたのに、こんなところで時間をくってしまったばかりに手遅れになってしまったのではないか、会堂長はそう思ったことでありましょう。そればかりではなく、「なぜ、イエス様は急いでくださらなかったのか」、あるいは「こんな婦人さえ現れなければ・・・」とう、まことに身勝手な妄念をさえ抱いたかもしれません。

 冷静になって考えれば、それはまったく不合理な言いがかりとしか言いようがありません。たとえ、この婦人がいなくても、はたまたイエス様が道を急いでくださったとしても、彼の娘は死んでいたかも知れない、それが神に定められた運命であったかもしれないです。

 しかし、私たちもこういう不合理さをもって身勝手な考えに陥ってしまうことが時々あるのではでないでしょうか。「あいつさえ邪魔しなければ、自分はもっとうまくやれたのに」とか、「親がこんな風に自分を生んだから、自分は不幸に生きるしかないんだ」とか、「世の中が自分を拒絶しているのだ」とか、そんな逆恨みの泥沼に陥ってしまって、自分自身も何の関係もない他人も一緒に不幸に追いやってしまうということが、誰にでもあり得るのです。人間というのは何事もない時、あるいは多少のことならばこんな不合理な考え方はしないで済むのですが、とことん追いつめられた時、理性は失われてこういうとんでもない妄念にとらわれてしまうことがあるのです。

 会堂長ヤイロの場合、愛娘の死がまさにそういう時でありました。聖書には、会堂長の家では人々が大声で泣きわめいてたとありますが、そんな風に泣きわめく他どうすることもできない絶望的な事態がそこにあります。ただし、ヤイロの人生にとってはあってはならないことが起こったに間違いありませんが、世の中全体を見渡すならばこういうことは決して珍しいことではないのです。荒川教会にもご自分の子供を亡くされた方がおられます。ちょうどヤイロの娘と同じ年頃のお嬢さんを亡くした婦人もおられます。もっと幼い赤ん坊を亡くされた方もいますし、成人した娘をなくされた方もいます。人生にあってはならないことが、現実のものとなってしまったのです。この「人生にあってはならないこと」というのは、誰の人生にだって十分に「ありうること」でもあるんだということではないでしょうか。

 人生には一度や二度、そのようにとことん追いつめられる時というのがあるのです。そういう時になれば、今までとは違う自分は現れてきてもおかしくありません。自分はこんなに弱虫だったのか。自分はこんなにもろい人間だったのか。そういうことも思うでしょうし、先ほどから申し上げていますように、不合理で身勝手な妄念をいだくこともあるのです。自分を必ず愛し、必ず救ってくださる神様に対してですら、「なぜ、神様はこんな酷い仕打ちをなさるのか」と恨みがましいことを考えてしまうのが人間なのです。それが人間の弱さですから仕方がないことだと、私は思います。

 ただ覚えて置かなくてはいけないことは、こういう妄念の果てには決して救いがないということです。間違った考えからは、正しい答えは出てこないのです。
全身全霊の愛
 では、どうすれば良いのでしょうか。イエス様は、会堂長ヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。「ただ信じる」という姿勢が、絶望のどん底に追いつめられてどうすることもできない私たちを、なおも支えることができる最後の、そして最善の、はたまた最大の力なのだと言われたのです。このことについてはとても一回で話し切れませんので、今回と次回の二回に分けてお話しするつもりです。今日お話ししたいのは、信じるとはいったい何を信じることなのかという事です。

 まず35節をごらんください。

 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」

 会堂長ヤイロのもとに悪いニュースが届けられたのは、イエス様がまだ例の婦人に話しかけておられるときのことでありました。イエス様の目は、全身全霊をもってその婦人に向けられていたのであります。その傍らで、ヤイロは自分がなおざりにされているように感じて、多少イライラしていたはずです。

 我が家の食卓ではよくこんなことがあります。そこでは、三人の子どもたちの学校での様子や友達の話を話題にする事を多いのですが、長女や長男の話で食卓が盛り上がっていると、まだ小さい末の娘が話題についていけないことがあります。そうすると、なんとか自分の方に注意を惹こうとして、「ねえ、ねえ、よっちゃんはねぇ・・・」と、全然関係のない自分の話題を無理矢理持ち出してくるのです。「よっちゃんの話は後で聞いてあげるから待っていてね」と言うと、つまらなさそうな顔をして黙ってしまいます。しかし、順番来て、自分のことを話せるとなると生き生きとそれを話し出すのです。もちろん、今度は彼女の話を一生懸命に聞いてあげるわけです。三人の子どもたちの話を同じように聞いてあげようとするのが親の心です。けれども、それは三分の一ずつ聞くということではありません。どの家も同じ事だと思いますが、三人が三人とも主役となって話ができるように、それぞれの話を全身全霊で聞いてあげたいと思うのが親の心なのです。

 イエス様も、神の子どもたちの話を、一つ一つぜんぶお聞きになりたいと思ってくださっているに違いありません。しかも、イエス様はその一つ一つの魂と全身全霊をもって交わりを持とうとしてくださっているのです。たとえそれが予定外の、行きずりの人間であったとしてもです。

 ヤイロは、イエス様の足を止めさせた苦しめる婦人の出現に、「余計な人間が現れた」と思ったことでしょう。私たちだってヤイロの立場だったら、同じ事を考えるだろうと思うのです。しかし、私たちはヤイロの立場ばかりではなく、この婦人の立場に身を置いて、自分のことを考えざるを得ない時もあるだろうと思うのです。自分は余計な人間なのだ。行きずりの人間なのだ。こんな親切を受ける資格はないんだ。そんな風に自分が思えるときもあるのです。しかし、イエス様は、この行きずりの人間と全身全霊をもって向き合ってくださることによって、余計な人間など一人もいないのだということを、私たちに教えてくださっているのです。

 そういうイエス様だから、私たちは自分が何者であったとしても、イエス様の愛と救いを信じ切ることができるのではないでしょうか。36節を読んでみましょう。

 「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」

 イエス様は会堂長に「信じなさい」といわれました。もし、行きずりの人間をなおざりにするイエス様だったら、私たちもまたイエス様になおざりにされるかもしれないわけです。そう思わなければならないとしたら、信じなさいと言われたって信じられません。ちょっとでも、当てが外れると、やはり私のような人間はイエス様も愛してくださらないのだと、心をいじけさせてしまうのがおちなのです。

 しかし、イエス様はそういう方ではありませんでした。だからこそ、イエス様はヤイロのことをなおざりにしたなんてことは決してあり得ない話なのです。「イエスはその話をそばで聞いて」と言われています。イエス様は婦人と話をしておられました。しかしその時も、決してヤイロに対する注意を怠ったりはしていなかったのです。ヤイロのもとに届けられた悪いニュースは、ちゃんとイエス様の耳にも届きました。そればかりか、ヤイロの受けた心の動揺にさえ思いをいたらせて、「恐れることはない。ただ信じない」と励ましてくださるほどの気の遣いようなのです。

 イエス様は、すべての魂を全身全霊で顧みようとしてくださっているのです。この物語が、二つの救いが同時進行しているということには、そういうメッセージが込められていると思います。あなたも、あの人と同じように愛されている。あの人も、あなたと同じように愛されている。「ただ信じなさい」ということは、そのようなイエス様のあなたに対する変わることの無い愛を信じ抜きなさいということなのです。たとえどんな境遇に陥ろうとも、そのイエス様の愛を疑ってはいけないということなのです。
ただ信じなさい
 愛のないところに救いはありません。先ほどは、逆恨みのような冷静さを欠いた妄念の果てにも救いはないのだと申しました。ですから、私たちがそのような妄念に取り憑かれるほど追いつめられたときにも、決して愛を信じるということをやめてはいけないのです。みなさんには、どんな惨めな人間に成り下がっても、四面楚歌の苦境に立たされても、その自分をなおも全身全霊で守ろうとする愛があるのだということを信じ続けて欲しいのです。

 どこにそんな愛があるのか。イエス様のうちにそれがあるのです。だから、「恐れるな、ただ信じなさい」と、イエス様は仰るわけです。イエス様の変わることのない愛を信じること、そこに弱く脆い私たちの最後にして、最大にして、最善の道があるのです。

 今日はもう時間がありませんから、ここでにしたいと思います。しかし、まだ話が終わったわけではありません。私たちはなお、こういうことを考えなければならないと思うのです。いくら愛を信じても、娘が死んでしまったならばもう一巻の終わりではないか。事態はもう決まってしまったのだ。救いはなかった。それが結論ではないか。他に何があるというのだ? 

 実際、聖書にもこのように言われています。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 もう、イエス様を信じようが、信じまいが、どうでもよくなってしまったのだということです。けれども、そうではなかったという話を来週はさせていただきたいと思います。
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