イエス様の衣に触れた女性
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書5章21-43節
旧約聖書 イザヤ書 65章1-5節
12年間、苦しんだ女性
 今日お読みしましたところには、二つの救いの物語が絡み合っています。一つは瀕死の状態であった会堂長ヤイロの娘の癒しの話であり、もう一つは12年間も病に苦しみ続けた婦人の癒しの話です。イエス様は最初、会堂長ヤイロに頼まれて、彼の娘を癒しに行くところでした。ところが、その途中で、イエス様の助けを必要としているもう一人の魂に出会ったのです。二つの物語がどのように関係するのか、そしてヤイロの娘の癒しについては次回のお話しにすることにしまして、今日のところは、途中で出会った婦人の癒しの話を中心にお話しを進めたいと思います。

 この婦人のことを、聖書はこのように書いています。25-26節、

 「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」

 非常に悲惨な状況に置かれた女性だったことが分かります。彼女のことを、イエス様は「娘よ」(34節)と呼んでおられますから、まだ若い女性であったと言ってもいいでしょう。出血が止まらないというのは、生理が止まらないという婦人病でありまして、そのことからしますと24歳か25歳ぐらいの女性だったのではないと思います。彼女に青春はありませんでした。普通だったら友情を育んだり、恋をしたり、楽観的な希望に胸を膨らませたりする12年間を、彼女は真っ暗な気持ちで過ごしてきたのです。

 もちろん、最初はそんなに深刻に考えていなかったことと思います。彼女の両親の愛情もあったし、親身になって、熱心に見立ててくれるお医者さんもいたに違いありません。さらに優しい気持ちで見舞ってくれる人や、励ましてくれる友達も、彼女の周りにたくさんいたのではないでしょうか。

 けれども1年、2年と、時が経つうちに、だんだん彼女とその両親は孤独になっていきます。仲の良かった友達も、親切な近所の人たちも、みんなそれぞれの人生があるわけですから、だんだん彼女から離れていくのは仕方がないことです。お医者さんにしても、やるだけのことを尽くして果たしてしまえば、どんなに心優しいお医者さんであってもそれ以上のことは何もできません。

 本人にも両親にも次第に焦りがみられるようになります。この医者だダメならあの医者へと、両親は必死になって娘を連れ回し、胡散臭い話しまで信じて色々なことをしたと思います。しかし、その度に失望させられたのでした。なかにはずいぶん酷いお医者さんもいて、娘さんも両親も酷い目にもあうことがあったようです。そんなことを5年も6年も続けているうちに家族は追いつめられてしまいます。

 両親は疲れ果て、夫婦の間でもケンカが絶えなくなってきます。娘さんはだんだん年頃になり、自分の人生について考えるようになります。だけど、自分にはどんな未来があるんだろうか、この病気はもう一生治らないに決まっている、結婚もできないんだ、お父さん、お母さんがいつもケンカしているのも自分のせいだ、二人とも私のために身も心もずたずたになってしまったんだ。家のお金も使い果たしてしまった。こんな私は生きていても仕様がないじゃないだと、世をはかなむようになっていきます。

 12年というのは本当に長いのです。12年の間に何もかも変わってしまい、多くのものを失い、疲れ果て、何の希望も持てないほどに追いつめられていくのです。
宗教に救いがあるか
 この世の望みが尽きた時、人は宗教に救いを求めます。しかし、宗教は本当に人を救うことができるのでしょうか。

 実は、彼女は宗教によっても苦しめられていたのです。聖書の古い律法には、生理中の婦人は汚れているとされ、近所づきあいも、家族との接触も禁じられていました。私たちの感覚からするとまったく不合理な話ですが、本来、これは女性を休ませ、保護するために律法だったといいます。しかし、彼女にとっては自分を苦しめ、肉体的にも、精神的にも追いつめるばかりのものでした。

 たとえば、先ほど彼女の両親の愛について語りました。しかし、この宗教上の規則によれば、両親は彼女を抱きしめることはおろか、指一本触れることができなかったのです。一緒に食事をすることもできませんでした。心優しい近所の人が見舞いに来てくれたとしても、彼女を心配するラビがお祈りにきてくれたとしても、この宗教上の規則のために、彼女は誰にも会うことが出来ず、いつも孤独だったのです。宗教は、彼女を救いませんでした。むしろ、彼女を絶望のどん底に追いつめる元凶だったと言ってもいいのです。

 みなさん、教会で、「宗教は人を救わない」などという説教を聞くことに、反発を感じるかも知れません。もちろん、これは丁寧にお話しをしなければならないことです。私が申し上げたいことは、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、あるいは仏教であれ、宗教というのはある意味では人間が造ったものだということなのです。

 神様について、救いについて、信仰について、そういう教えや経験を、人間が体系化し、組織化したものが宗教なんです。人間が造ったものである限り、たとえキリスト教であっても過ちを犯すことがあります。十字軍のような宗教戦争とか、きちがい地味た魔女裁判とか、キリスト教によるユダヤ人迫害とか、植民地支配とか、キリスト教という宗教が神様の御心から大きくかけはなれてしまったことがあるのです。ユダヤ教が間違った選民思想に陥り、律法主義に陥ったことも同じ事なのです。そこから言えることは、神様は決して過ちを犯しませんが、その神様について人間が造った宗教は過ちを犯す可能性は常にあるということではないでしょうか。

 そこで、私が申し上げたいのは、人を救うのは宗教ではなく、教会の神学や儀式でもなく、イエス様だということなのです。イエス様は今も生きておられます。そして、みなさんを愛しておられます。そのイエス様との生き生きとした出会い、驚くべき出会いを果たすときに、私たちの悩める魂は、イエス様の命に溢れ、救いに溢れるのです。感謝と讃美が止めどもなく湧き上がってくる経験をするのです。

 それではイエス様を信じればいいのであって、教会とかキリスト教という宗教は信じるに価しないのかと言いますと、それもまた違うのです。神様は、ひとり子なるイエス様を飼い葉桶の中に宿らせたということを思い起こしていただきたいと思います。確かにキリスト教という宗教とか、教会というのは、人間が造ったもので、汚れにまみれた飼い葉桶のよいうなものでありますけれども、神様は敢えてこの貧しい教会にイエス様のお名前を委ねられました。そして、世の光、地の塩として下さいました。その神様のご委託に答えて、教会は一人でも多くの人にイエス様を伝え、イエス様との救いに満ちた出会いを祈り続けていくのです。

 しかし、人間のすることですから間違う可能性は常にあります。だからこそ、教会はイエス様のお名前のもとにあぐらをかいているような存在であってはいけないのでありまして、常に御言葉を誠実に学んで、自ら反省し、改め、イエス様の御心を正しく行うことができるように祈りつつ歩まなければいけないわけです。

 しかし、それをしない教会、あるいは宗教は人を救うどころか、神の名によって人を追いつめ、苦しめるばかりの存在になってしまうのです。イエス様の時代のユダヤ教の律法主義、形式主義がそうでありました。神様の深い愛の御旨を行うことよりも、神様の権威を笠に着て、貧しい弱い人々を追いつめ、追いやるばかりの宗教に成り下がってしまっていたのです。こういう宗教には、人は救えないということを申し上げたわけです。
イエス様の衣に触れる女
 さて、宗教にも救われないこの女性はどうしたのでありましょうか。イエス様に向かっていったのです。27-28節、

 「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」

 この御言葉は、この女性を救ったものが何であったかということを語る非常に大切なところでありますから、一言一言を見て参りたいと思います。まず、「イエスのことを聞いて」とあります。イエス様のことを耳にすることから、彼女の救いの道が開けているのです。使徒パウロもこう言っています。

 「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして信じられよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(ローマの信徒への手紙10章14-15節)

 彼女が誰からイエス様のことを聞いたか、それははっきりと書いてありません。しかし、誰かが伝えたのです。そして、それが誰であれ、神様が彼女のために遣わしてくださった人であったに違いありません。教会は、彼女にイエス様のことを伝えた人のような存在でなければならないと思います。教会が人を救うのではありません。教会は救い主を伝えるのです。

 イエス様のことを聞いた彼女は、イエス様を取り巻いていた「群衆の中に紛れ込んだ」とあります。彼女は、イエス様の側まできてみたものの、会堂長ヤイロのように正面切って「私を救ってください」と言えなかったのです。人に正面切って物を頼むというのは、たいへん勇気のいることであります。特に自分に自信のない人、心が縮こまってしまっている人は、なかなかそういうことができません。それは、もともとの性格の問題というばかりではなく、彼女のようにそれだけ心傷つき、疲れ果て、弱り切ってしまっているという場合もあるのです。

 教会に来る人の中にも色々な人がいることを考えなければならないでありましょう。喜んでいる人ばかりではなく、悲しんでいる人々が教会にはいるのです。救われたばかりではなく、傷つき、苦しみの最中にある人もいるのです。教会に来ても、誰とも挨拶もせず、交わりの中に入らず、そっと帰りたいと思う人がいても少しも不思議ではありません。そういう人にとっても、教会は入りやすい場所であることは大事なことではないでしょうか。そのためには、そっとしておいてあげるという愛が必要なこともあるのです。

 群衆の中に身を隠して、そっとイエス様に近づいた彼女は、イエス様をじっと見つめ、「この御方ならば私を救ってくださるかも知れない」と思い始めるのです。しかし、救ってくださいと正面切って言えない彼女は、心の中でどうしようか、どうしようかと悩み続けたに違いありません。そして、「この方の着物にでも触れればいやしていただけるのではないか」と思い至り、後ろからそっとイエス様の衣に触れたと言われています。29節

 「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」

 なんと、イエス様の衣に触れた瞬間、彼女の身に電気が走るような衝撃があったのかどうか、そういうことは分かりません。しかし、イエス様のうちから力が彼女に流れ出て、彼女の病は癒されたのです。それを体で実感したということが言われているのです。

 私は、このことについてみなさんにご注意しておきたいのですが、どうか彼女の行いの「猿まね」だけはしないで欲しいのです。イエス様の絵や像に触れたら癒されるのではないかとか、十字架に触ったら癒されるのではないかとか、そういうことを考えて欲しくないということです。それでは巣鴨のとげ抜き地蔵に一生懸命水をかけて磨いている方々と変わりなくなってしまうのです。はっきりと申し上げておきますが、イエス様に救われるということはそんなことではありません。

 では、どういうことなのか。彼女が「着物にでも触れば治るかもしれない」と思ったのは、彼女の救いを求めるひたむきな心の現れだったのです。このひたむきさが大切だと思うのですね。「着物にでも触れば」というのは、彼女流の考え方であって決してキリスト教の正統的な信仰ではありません。むしろ、そういうことを否定するのが、正統的信仰です。

 けれども、先程来申し上げていますように、人を救うのは宗教における正統的な教義ではありません。それは道しるべに過ぎません。教義を信じて救われるのではなく、イエス様を信じて救われるのです。イエス様の愛と力、それを信じ、それを求め、それに触れることによって人間は救われるわけです。彼女は、自己流で型破りではありましたが、イエス様を求めるひたむきな心をもっていた。それが重要なポイントなのです。
恵みと信仰
 しかし、ひたむきであれば救われるということでもありません。そのひたむきさに答えてくださるイエス様がいなければどうにもならないわけです。34節

 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」

 「そつ啄同時」という言葉があります。「そつ」というのは、雛が孵ろうとするとき殻を内側からつつくことで、「啄」というのは親鳥が外側から殻をつつくことをいうのだそうです。それが同時に起こって殻が破れ、ひよこが飛び出してくる、それを「そつ啄同時」といいます。実は、禅宗の言葉で道を教える者が道を求める者を触発し、助け、導くだけでは悟りが開けない。また道を求める者がどんなに熱心に求めても、道を求める者の助けなしには悟りが開けない。両者の息がぴったりと合うときに悟りが開けるというのです。

 イエス様の救いも同じ事が言えるのではないでしょうか。イエス様のことを聞き、イエス様をひと目に見てみようと出かけていき、群衆の中に隠れるようにしてではあっても、じっとイエス様を見つめ、型破りであっても「着物に触れば救われるかもしれない」と信じる、そして後ろからであっても手を伸ばし、そっと着物に触れる、その彼女のひたむきな求道心があればこそ、救いがあったわけです。

 しかし、まず彼女にイエス様のことを伝えた人がいた。イエス様が彼女の近くを通りかかった。衣の裾を触れる彼女を憐れみ、病を癒すイエス様に宿る神様の御力、彼女を捜し求め、「安心しなさい。元気で暮らしなさい」と言ってくださるイエス様の愛があった。そのようなイエス様のみ恵みがあればこそ、彼女が救われたとも言えるわけです。

 彼女の求道心とイエス様の恵みがぴったりと合っている、そこに救いがあるのです。
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