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前回は突風の話でした。イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を渡って向こう岸に行こうとなさいますと、突然、激しい風が吹いてきて舟をひっくり返って沈みそうになったのです。
荒川教会にも火山噴火のため三宅島から避難しているご家族が礼拝にいらしております。全島避難からもう3年が経ちますのに未だに帰島の目途は立ちません。ずるずると長びくばかりで先の見えない避難生活に、経済的にも、肉体的にも、精神的にも、真綿で首を絞められるような苦しさを味わっておられるということでございます。自然というのは、基本的に人間にたくさん神の恵みをもたらしてくれるわけですが、時々このように手のひらを返したように荒れ狂って、人間を襲ってくることがあるわけです。
こうなると、自然というのは人間の手に負えません。しかし、イエス様は風と波を叱りつけて、これをお鎮めになったでした。たとえ人間の手に負えない荒れ狂った自然であっても、神様はそれをご支配し給う御方なのだということをの御手の中にあるのだということを学んだのです。
今回もまた荒れ狂い手に負えない存在が登場してきます。それは自然ではなく人間です。ご承知のように自然が荒れ狂うように、人間も荒れ狂うのです。しかも、荒れ狂って手に負えなくなった人間が為すことは、自然のもたらす災害よりずっと恐いものではないでしょうか。戦争、テロ、殺人、通り魔、強盗、放火、暴行、自殺・・・人間の狂気がもたらす悲しみや苦しみは色々ありますが、概して自然災害以上に暴力的で、残忍で、理不尽で、始末が悪いのです。
しかし、またもやイエス様がこの手に負えない荒れ狂ったものをお鎮めになります。イエス様の御前で、荒れ狂った人間は正気を取り戻し、手に負えないほど乱暴だった人間は静かに座っている者になった、今回はそういうお話しです。 |
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まず、その荒れ狂った男について書かれている所を読んでみましょう。3-5節
「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」
男は墓場に住んでいたと書かれています。おそらく人々は、このような男は自分たちの世界の中に入れておくことができないと思って、無理矢理、墓場に追いやったのでしょう。墓場に埋められたわけではないにしろ、足かせをはめ、鎖で縛り付けておこうとしたと書いてありますから、この男は、人々によって生きながらにして墓に葬られてしまったと言ってもいいのではないでしょうか。
ずいぶん酷いことをするものだと思うかも知れません。しかし、はたしてそうでしょうか。この男は鎖を引きちぎり、足かせを砕いてしまい、誰もつなぎ止めておくことはできなかった、誰も縛っておくことはできなかったと言われていますから、まさにどうにも手に負えない凶暴な男だったわけです。今日の社会においても凶暴な人間、異常な人間がいます。常識や法律で縛っておくことができない人間です。私たちはそういう人たちをやはり逮捕して、牢につなぎ止めておこうとするのではないでしょうか。それが精神病者であれば病院に閉じこめておこうとするのではないでしょうか。違うのはそれが法的に整備されているかどうかということぐらいで、手に負えない人間を自分たちの世界から追放し、鎖でつなぎ止めておくことは、昔いも今も変わらないのです。
しかし、忘れてはならないのは彼自身も被害者であり、犠牲者であり、苦しんでいるということです。たとえば、彼は昼も夜も墓場や山で叫び声をあげていたと言われています。「あー」とか「うー」とか奇声を発していたということだと思います。それは、実は彼自身の中にも言いしれぬ恐怖とか不安があって、常にそれに苛まされていて、その苦しみから逃れようとする悲鳴のようなものではなかったかと思うのです。
彼は自分の体を石で打ち叩いて傷つけていたということも書かれています。これもまた彼の苦しみの深さを表しているわけです。「どうしてそんなことをするのか、痛いじゃないか」と、まともな人は思います。しかし、こういう自傷行為は、今日も心を病んだ若い女性のうちによくみられることです。額が割れるまで頭を壁にぶつけ続けたり、リストカットといって手首をカミソリで切ったり、切腹まがいのことをする人もいます。なぜ、そんなことをするのか。健康な精神状態ではわかりにくいことですが、自分を傷つけることによって自分の存在を確かめようとするということがあるようです。自分で自分の体を死ぬほど痛めつけなくては、自分でも自分が分からないというのは、本当に大きな苦しみであったと思います。
彼はその異常さ故に、誰からも理解されなかったでありましょう。しかし、誰よりも自分が、自分のことを理解できないでいるのです。なぜこんなに荒れ狂ってしまうのか。なぜこんなことをしているのか。自分が手に負えなくなってしまっているわけです。 |
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今日、このような人は精神病と言われるのかもしれません。しかし聖書は、この男を「汚れた霊に取りつかれた人」であったと言っています。汚れた霊というのは悪霊と言ってもいいでしょう。聖書は、狂気に荒れ狂う人間の背後に悪霊の存在を見るのです。
そういうこと言いますと、「精神医学の知識のない時代のことだから、聖書が悪霊の仕業だと説明しているのは仕方がない。しかし、今日もなおキリスト教が精神病を認めないで悪霊の仕業だというのは大いに問題である」と言う人がいます。クリスチャンの中にこそ、かえってそういう人は多いのです。みなさんはどうお考えでしょうか。
私は精神病や心の病気を認めないわけではないのです。実際、牧師という立場上、そういう病気を抱えた人々と接する機会は普通の人より多いかと思います。そういう人たちの苦しみを、病気として理解してあげることがどんなに大切かということも勉強しています。精神病を単純に悪霊のせいだというつもりは、まったくないのです。
しかし同時に、「なぜ、こんなに多くの人々が心を病んでいるのだろうか」と思わざるを得ません。特に今日、心を病む人が非常に多いと感じるのです。いや、自分自身だっていつどなるか分からないという気持ちにさえなります。どうしてなのでしょうか。人間の心が弱くなったということなのでしょうか。そうかもしれませんが、それは果たして個人の資質の問題で済ませられるのかと思ってしまうのです。
たとえば快楽殺人とか、ストーカー殺人であるとか、自分の子供を虐待した末に殺してしまうとか、現代社会の特徴的だと思いますが、普通では考えられないような異常な犯罪が起こります。そうすると必ず問題になるのが精神鑑定です。全部病気で片づけてしまったら、どんな酷い犯罪を犯しても無罪になってしまいますから、検察側は「いや、病気とはいえない」ということを何とか立証しようとします。しかし、病気でないと立証されようとも、そのような異常な犯罪を犯す人はとてもまともな精神とは言えません。狂気に荒れ狂った人間であることは疑いようもないのです。そして、こういう荒れ狂った人間がたくさん出てくる現代社会というのは、人間の健全な精神を育むまともな社会だとはいえません。現代社会というのは、人間を狂気に陥れる社会なのです。
聖書によれば、人間は本来、神の園の中に生きる神の子どもたちとして造られました。それなのに、今私たちが生きている世界は、そういう狂気に満ちた世界です。平和のために戦争をし、金儲けのために命をすり減らし、空気を汚し、水を汚しながら快適な生活を追い求めている。これでは自分の存在を確かめたいために自らの体を傷つけている墓場の男と変わりないではありませんか。
どうして人間の社会がこうなってしまったのでしょうか。実は聖書を開いて一番最初に書かれているのはそのことです。神様が天地をお造りになった。人間を神の子として造り、エデンの園に住まわせた。ところが人間は神様との約束よりも、「これを食べると神のようになる」という蛇の唆しを信じ、禁断の木の実を食べてしまった。神様はその人間をエデンの園から追放された。その時から人間は狂い続けている。神様ですらしばしば手に負えないと感じてしまうほどに、人間は狂気に向けて暴走しているのだというのです。聖書は、こういう人間の狂気の背後に悪霊の存在があるのだというわけです。精神病の人がどうのこうのということではありません。人間のすべての狂気の背後に悪霊の存在があるということなのです。
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さて6-7節を読んでみましょう。
「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」
悪霊に取りつかれた男は、イエス様を見ると遠くから走り寄って来て、御前にひれ伏しました。それだけを読みますと、この男はどんなに救いを待ち望んでいたのだろうかと思うのです。ところがその口から出来てきたことは、まったく正反対の言葉でした。「俺にかまわないでくれ。お願いだから苦しめないでくれ」と叫ぶのです。
人間はしばしばこのように矛盾した行動を取ります。神に救われたいのに、不信仰にしがみついていることがあります。愛されたいのに、人の悪口ばかり言う人もいます。生きたいのに自殺ばかり考えている人もいます。人から見て手に負えない人間であるばかりではなく、自分で自分のことが手に負えなくなってしまっているのが悪霊につかれた人間なのです。
イエス様はこの男の背後に存在する悪霊の名を尋ねます。「名はなんというのか」 すると、「レギオン。大勢だから」という名前が返ってきました。「大勢だから」・・・不気味な言葉です。人間の精神に巣くっている悪霊は一人や二人ではないのです。もともとレギオンというのは悪霊の名前ではなく、約5千人から兵隊からなるローマの軍隊の名前でした。その軍隊のような悪霊が、一人の人間の中にうじゃうじゃと住み着いてがんじがらめに縛り付け、次から次へと問題の中に引きずり込み、恐れ、不安、絶望、不信仰と、戦いを仕掛けてくるのです。男がイエス様のところに救いを求めて走り寄っても、その口からは「俺にかまわないでくれ」という言葉が出てきてしまうのもうなずける話しです。
しかし、そのように人間を狂気でがんじがらめにするレギオンですら、「後生だから、苦しめないでくれ」と、イエス様の前には非常に弱腰になっています。悪霊は神の子であるイエス様に勝つことはできないのです。いや、勝つことができないだけではありません。必ず敗北するのです。そのことを、今日、私たちはしっかりと学びたいと思うのです。
私たちの中にもレギオンが住んでいるかもしれません。それはみなさんが自分の胸に手を当てて考えればすぐに分かることでありましょう。もしレギオンが住んでいるならば、私たちの心は自由ではあり得ません。善を願っても悪を行い、愛を願っても争いを起こしてしまい、信仰を願っても不信仰に陥り、救いを願いつつ滅びの道をまっしぐらに進んでしまうのです。そうなると、「もうダメだ。レギオンには勝てない」と思ってしまうのです。
しかし、私たちがレギオンに勝たなくてもいいのです。何一つ善を行えない人間であっても、人を愛せない人間であっても、不信仰に留まり続けてしまう人間であっても、絶望が心を支配していようとも、口から「神の子イエスよ、俺にかまわないでくれ」というような言葉が溢れ出てこようとも、そのままの姿いいからイエス様の御許に走り寄り、ひれ伏すということが大事なのです。イエス様の前にいるということが大切なのです。私たちがイエス様の前に留まり続けるならば、たとえ5000の悪霊が住んでいようとすべてイエス様に敗北していくのです。 |
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悪霊どもは、イエス様に豚の中に入らせてくれるように頼みました。イエス様がそれをおゆるしになると、悪霊は二千匹ほどの豚の群れの中に入り、今度は豚が荒れ狂い始めます。そして、崖をくだり、湖の中になだれ込み、次々と溺れ死んだというのです。
みなさん、悪霊がこの世の中に背後にあるということは、この狂った豚のように破滅に向かって歩んでいるということなのです。本当におそろしいことではありませんか。
一方、墓場に住んでいた男は、すっかり正気に取り戻し、服を着、イエス様の前でおとなしく座っていたとあります。平和で静かな心を取り戻した男は、改めて自分の救い主であるイエス様にひれ伏して、どうぞあなたのお供をさせてくださいと願います。しかし、イエス様はそれを許さないで、彼にこう言いました。19節、
「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
彼の身内の人たち、おそらく彼と一緒に苦しんできたに違いないのです。ですから、イエス様は、家のもの、身内のものに、正気を取り戻したあなたの姿を見せ、神様の憐れみと救いを伝えて、慰めてあげなさいと言われているのです。
イエス様はこのように私たちを狂気から解放してくださいます。悪霊から解放してくださいます。そして、健やかな者として、感謝として喜びに生きる者にしてくださるのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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