突風を鎮めたイエス様
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書4章35-41節
旧約聖書 詩編126編5-6節
教会の外で
 前回までは、イエス様がガリラヤ湖のほとりで、まる一日人々に神の国のお話しをしてくださったということを読んで参りました。イエス様は入り江に舟を浮かべて、そこから陸地にいる人々に向かってお話しになったというのですが、その時、ガリラヤ湖のたいへん美しい自然は、神様が手ずからお造りになった天然の大聖堂と化し、イエス様のお乗りになっていた小舟は力強い御言葉が響く説教壇と化して、まことに厳かで幸せな一日が人々の間を通り過ぎていったことと想像されるのです。

 「通り過ぎていった」と、敢えて私はそう申しました。本当は通り過ぎてしまうのではいけないのです。「神われらと共にいます」という幸せに留まり続けなければなりません。しかし、実際問題として、たった今、「あなたがたも神の子らなのです。いついかなる時にも、天の父のお守りの中に生きることができるのです」という有り難い御言葉を聞いても、教会を出るとたちまち不信仰な人間に戻ってしまって、この世の煩わしさを嘆き、我が身を憐れむばかりの人間に戻ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 しかし、みなさん、私たちが本当に神様に恵みを知るのは教会の中ではありません。この世の苦難の中においてなのです。もちろん、教会には神の恵みがあります。みなさんが恵みを求めて教会にやってくるのは決して間違いではありません。ここには、みなさんが求めているあらゆる恵みがあると言ってもいいのです。しかし、教会にあるのは恵みの種なのです。

 こんな話があります。ある婦人が夢をみました。銀座のようなオシャレな繁華街を歩いてウィンドウショッピングをしている夢でした。彼女は気の向くまま一軒のお店に足を踏み入れます。「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれたのは、なんと神様でした。うれしくなった彼女は「ここには何を売っているのかしら」と、神様に尋ねます。「あなたがお望みのものなら、何でもありますよ」と神様は気さくに答えてくれました。「ああ、やっと私が探していたお店にたどり着いたわ」と心の中で感激した彼女は、「それでは、心の平和と、愛と、幸せ、そして生きる知恵、恐れにとらわれない勇気をくださいな」と注文をしました。神様は店の奥にそれらの商品を取りに行っているあいだ、彼女は「ああ、これで幸せになれる」と、わくわくしていたに違いありません。ところが、神様がもってきたのは数粒の小さな種でした。「これはどういう意味かしら」ときょとんとしている彼女に、神様は微笑みながらこう言われました。「奥さん、思い違いをしていらしたようですね。ここで売っているのは果実ではなく、種だけなんですよ」

 このお話しの意味がお分かりでしょうか。イエス様がガリラヤ湖でお話し下さったのも、種のお話しでした。「神の言葉とは種である」「神の国とは種である」ということを、イエス様は教えてくださったのです。日が暮れて、ガリラヤ湖での集会は解散しました。それぞれ皆、イエス様がいただいた種をもって家路につかなければなりません。そこに待っているのは、あわただしい生活、思い煩いに満ちた生活、憂いに満ちた生活です。

 しかし、そこに帰ってからが大切なのです。たった今、イエス様に戴いた御言葉の種の中には、やがて30倍、60倍、100倍もの実を結ぶような本当に豊かな命があります。しかし、その豊かな実りを収穫するには、その種を私たちの生活の中で育てなければならないのです。私たちの生活は決して温室ではありませんから大変です。日が照り、雨が降り、風が吹きます。しかし、その風雨にさらされた人生の中で、教会でいただいた恵みの種は芽を出し、成長し、花を咲かせ、豊かに実を結ぶのです。私たちが本当に神様に恵みを知るのは教会の中ではなく、この世の苦難の中においてだと申し上げたのはそういう意味なのです。

 それは決して手軽なことではありませんが、耐え忍ぶならば、必ず祝福を刈り取だろうという約束が、今日お読みした詩編126編です。

 「涙と共に種を蒔く人は
  喜びの歌と共に刈り入れる。
  種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
  束ねた穂を背負い
  喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
突風が襲う
 風雨にされされた生活の中で御言葉の種を成長させ、祝福の実りを刈り取らなければならないということは、主の弟子たちにとっても同じ事でありました。

 「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」

 恵みに満ちたガリラヤ湖での集会が終わった夕暮れ、イエス様は舟に乗ったまま、弟子たちに「このまま向こう岸に渡ろう」と仰いました。それで弟子たちはそのまま岸を離れ、夕闇に包まれた湖へと舟をこぎ出したのでありました。

 静かな海でした。舟は鏡のような水面をすべるように進んでいきます。弟子たちの何人かはもとガリラヤ湖の漁師でしたから、舟を漕ぐのはお手の物でした。「今までイエス様は一日中俺たちのために大切なお話して下さった。今度は俺たちが頑張る番だ。ガリラヤ湖は勝って知り足る我が家のようなもの、どうぞ居眠りでもしていてください」そんなけなげな気持ちをもって「イエス様のためならエンヤコラ」と、舟を漕いでいたのではないでしょうか。

 ところが、そんな気持ちを一遍に吹き飛ばしてしまうような、恐ろしい突風が弟子たちの舟を襲います。だいたいガリラヤ湖というのはこういう突風がよく吹くのだそうです。当然、海や舟の専門家でもある弟子たちは心得ていたはずです。ですから、突風が来るなと思っても、慌てるどころかここぞ腕の見せ所だと言わんばかりに、逆に張り切ったかもしれないと考えられるのです。特にペトロなんかはそういう性格の人です。決して嫌みな意味ではないのですが、イエス様に良いところを見てもらおうとか、イエス様をお守りしようとか、子供のような単純な気持ちでそんなふうに張り切ったのではないかなと思います。

 しかし、今回の突風は違いました。もと漁師であった彼らでさえ経験したこともないような突風だったのです。

「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」

 専門家というのは決して怖いもの知らずではないのです。誰よりも怖さを知っているのが専門家ではないでしょうか。だから決して無茶もしませんし、危険に対しても用意周到に備えているのです。ところが、その自分たちの知恵や腕を越えるとんでもない事が起こったわけです。たちまち弟子たちは恐怖の虜になってしまったのでした。

 私たちの静かな生活にも、突然、この様な突風が吹いてくる時があります。ちょっとやそっとのことならば、対処する術を心得ていることもありましょう。そんなときは、多少辛いことがあっても冷静でいられるのです。しかし、それが私たちの知恵や力を越えるような事であったらどうでしょうか。たちまち、私たちの静かな生活、穏やかな心は突然かき乱され、底なしの恐怖にとらわれ、慌てふためいてしまうのです。 
眠っているイエス様
 みなさん、そのような時にこそ、救い主イエス様が共にいてくださるということはどういうことなのか、それを学ぶときであり、その恵みの果実を刈り取るときなのです。弟子たちの舟にはイエス様が乗っておられました。どんな時にも、そこにこそ彼らの救いがあるのです。どんな時にもです。危険が身にに迫った時にも、その危険を回避する術を何も持たないときにも、いつでもイエス様は私たちの力強い救い主でいてくださるのです。それならば、たとえどんなに激しい突風でも、主に依り頼めばよいのです。

 ところが、またもや考えられないようなことが起こります。38節

 「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」

 嵐の中ですやすやと眠っておられるイエス様、弟子たちが死ぬほど恐い目にあっているということに平然と眠っているイエス様、いったいこれはどのように解釈したらいいのでしょうか。なぜ、助けてくださらないのか? なぜ、一緒になってがんばろうと言ってくださらないのか? いったいイエス様は何をしているのか? せめて励ましの一言でもくださればいいのに! みなさんはイエス様に祈りながらそんな気持ちになることがありませんでしょうか。弟子たちは、そう思ったのです。38節後半、

 「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」

 「言った」とありますが、状況から判断してすると、弟子たちはイエス様に向かって怒鳴っているのです。イエス様をたたき起こして、「あなたには私たちの恐怖が、私たちの絶望が分からないのですか!」と、その無神経ぶりを非難しているわけです。

 なんと身の程を弁えない不遜な弟子たちだろうかと思う方もあるでしょう。しかし、私はこの弟子たちをうらやましくさえ思います。言いたいことを言っても決して壊れない、確かな関係が築かれているからこそ、イエス様にくってかかるようなこともあるんだなあと思うからです。私たちのお祈りはどうでしょうか。きれいなごとの祈りではなくて、良いことも悪いことも心の底を洗いざらいイエス様にお話しすることができるでしょうか。イエス様をたたき起こして、「わたしが溺れてもかまわないですか!」と掴みかかるようなお祈りができるような、強い絆でイエス様に結ばれたいと願うのです。

 それはそれとしまして、本当に、なぜイエス様はこんな時にすやすやと眠っておられたのでしょうか。だいたい沈みそうな小舟の中で眠っていられるなんていうのは、普通の人間にはあり得ないことではありませんか。異常を感じて目を覚ますというのが、普通の人間だと思うのです。鈍感、無神経、大胆不敵にしてもほどがあると思うのです。ですから、逆に私はこう思うのです。これは普通でないことが起こっているのだ。普段のイエス様らしくもない。ということは、イエス様が嵐の中で平然と眠っているということ自体が特別な御業であり、奇跡なのではないか? 

 先ほども言いましたように、私たちも弟子たちと同じように「こんなに必死に助けを求めているのに、イエス様は何もしてくれないじゃないか、イエス様は居眠りでもしているんじゃないか」と、いぶかしく思い、不満に思うむきもあるかもしれません。しかし、こういう考え方もできるのです。「イエス様が何も心配しないで寝ておられるんだから、大丈夫なんだ。むしろ、イエス様までもが慌てたりしたら、それこそ不安じゃないか。あたふたしても始まらない。イエス様にお任せしておこう」と。イエス様を信じ切って委ねてしまいますと、今まで眠れなかった夜がすやすやと眠れるようになったりすることがあるのです。あるいは、何も手もつかなった仕事がいつもどおりにこなせるようになるということがあるのです。

 『フィリピの信徒への手紙』4章5-7節にこういうお約束の言葉があります。

 「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

 「あらゆる人知を超える神の平和」というのは、今にも沈没しそうな舟の中ですやすやと眠るような奇跡のことです。そういう心の平和がまず私たちに与えられますと、私たちはどんな状況でも安心して眠ることができるようになる。どんな状況でも希望を持って働くことができるようになる。たとえ困難な状況が一つも変わらなくても、その困難に対する勝利を手に入れるのです。
風や湖さえ従わせるイエス様
 そのことをもう少しちゃんと理解するためには、イエス様と弟子たちは同じ舟に乗っていて、死なば諸共という運命共同体であったということを覚えておく必要があると思います。イエス様は弟子たちを見捨てているのではありません。そんなことはできません。弟子たちが溺れるということは、自分も溺れるということなのです。

 しかし、考えなければならないのは、この運命共同体の運命を握っているのは弟子たちではなく、イエス様であったということです。最初、弟子たちはそう考えませんでした。「イエス様のためならエンヤコラ」と、自分たちがイエス様をお乗せして、舟を漕いでいるのだと思っていました。「俺たちに任せて、イエス様は居眠りでもしていてください」という気持ちでいたのです。

 けれども突風が吹くことによって、まったく舟をコントロールする力を失ってしまいます。もはや、彼らは何もできません。「もうダメだ」と絶望してしまいます。しかし、弟子たちがお手上げだったら、イエス様もお手上げかというと決してそんなことはないのです。イエス様は寝ておられた。寝ていても、ちゃんと舟の運命を握っておられるのです。それをどうこうすることができるのは、弟子たちの力や弱さでもなく、風や波でもない。あくまでもイエス様なのです。だから、イエス様は眠っておられるのです。
 
 「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』 弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」

 イエス様は舟どころか、風も波さえもご支配しておられる御方だったと言うのです。みなさん、私たちの人生を握っているのも、実は私たちではなくイエス様なのです。私たちではなく、イエス様が人生の主なのです。苦しいときというのは、自分にもっと力があればとか、お金さえあればとか、健康でさえあればとか、あの人がいなければとか、いろいろ考えてしまいますけれども、それは違います。イエス様が人生の主であるということは、自分に力があろうがなかろうが、何をもっていようがもっていまいが、そんなことで人生は左右されないのです。大切なのは、イエス様が何をしてくださるか、何をせよといっているのか、それに従っているのか、そういうことなのです。

 そのことをしっかりと考えて生きなければなりません。イエス様と共に生きると言いながら、自分が人生の主となって、イエス様を「今は休んでいてください」と寝かせたり、「今が出番です」と起こしたりするのではないのです。逆です。どんな嵐の中にあっても、イエス様が静かにしておられるならば、私たちの自分の運命を主に委ねて静かにしていればいいのです。イエス様が「立て、さあ行こう」と言われるならば、どんな危険が待ち受けていようと勇気を出して従わなければならないのです。それがイエス様と共に生きるということです。

 弟子たちは、この試練を通して大切なことを学んだのだと思います。人生の主はイエス様であり、イエス様を信じて従うことが私たちにとって生きると言うことなのです。素晴らしい主の栄光を見たのです。一番、最初にお話ししまたように、御言葉の種が、実際の生活の中で実を結ぶというのは、このような試練や、不信仰との戦いを通してなのです。イエス様を信じて、イエス様に従って、豊かな実を刈り取る人生の祝福を戴く者となりましょう。 
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