神の国の教え<2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書4章1-34節
旧約聖書 詩編23編
神の国に生きる
 今朝は、イエス様がガリラヤ湖のほとりで人々に教えられた神の国の教えについて二回目のお話しです。イエス様は、ここで幾つかの譬えをもって、神の国について教えられました。今日は、前回お話ししなかった「成長する種の譬え」と「からし種の譬え」からのお話しから学びましょう。

 しかし、その前にもう一度、神の国とは何かということについておさらいをしておきたいと思います。神の国というのは、神様が所有しておられる国、神様が王様となって治めておられる国のことです。そうしますと、神の国としてまず考えられるのは天国ということでありましょう。天国は確かに神の国です。けれども、天国だけが神の国なのではありません。神様は天国に引っ込んでおられるような御方ではないのです。この地上にある私たちをも愛し、ご自分の民、ご自分の子どもたちにしようとされている御方です。

 私たちの心には、私たちの生き方を支配しようとする者が座る一つの王座があります。そして、この王座に座ろうとしている王様が三人いるというのです。一人は神様であり、一人はサタンであり、もう一人は自分です。もちろん、「誰も二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」とイエス様が言われたように、私たちの心の王座に座るのはたった一人しかいません。その一人が、私たちの思いや願いや生き方を支配するのです。

 もし、自分自身がこの王座に座るならばどうなるでしょうか。私たちは、自分が王様となり、自分の知恵と力によって造り出す世界に住むでしょう。しかし、人間というのは、罪深く、愚かで、弱いものであります。結局、そのような人生は自分の罪深さと弱さと愚かさによって支配された惨めな人生となってしまうに違いないと思うのです。

 では、サタンがこの王座に座るならばどうなるでしょうか。サタンというのはこの世の王ですから、もし私たちがサタンに魂を明け渡すならば、世の富も、世の誉れも、この世のあらゆる成功を私たちに与えることができるかもしれません。しかし、サタンは所詮サタンでありますから、私たちを幸せにしてくれるわけではありません。世の富、世の誉れと引き替えに、私たちはサタンの奴隷となるでしょう。そして、愛と正義、喜びと平和といった心を失い、魂は抜け殻のようになることになるでしょう。

 そういうことをご存知であるイエス様は、あなたがたの心の王座を神様に明け渡しなさいと教えてくださっているのです。そうすれば、神様は私たちの造り主として、私たちのことをご自分の子供のように愛してくださるのです。そして、その愛の中に住むことができるのです。そこに神の国があります。

 ダビデは、そのような神様に心の王座を明け渡していましたから、敵する者を前にしても勇気を与えられ、孤独の最中にあっても慰められ、罪を犯すことがあっても悔い改めて赦しを受け、いついかなる日にも心に神様の愛と平和を宿すことができたのでした。彼はその幸せを詩編23編に表しています。
 
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」

 「何も欠けることがない」というのは、彼が何もかも持っていたということではありません。ダビデは、愛する友との涙の別れを経験し、飢えて祭壇に供えられたパンを食べ、荒れ野を彷徨い、洞穴に住み、本当に多くの欠乏を経験したのでした。しかし、そのような時にも、なおも「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言える信仰をもって、神様の愛と保護の中に住んでいたのです。

 ダビデはこのようにも言いました。

 「死の陰の谷を行くときも、
  わたしは災いを恐れない。
  あなたが共にいてくださる」

 私たちも、心の王座を神様に明け渡し、神様を人生の主として生きる決心をするならば、たとえ死の陰の谷を行くときも、御国の中にある愛と平和を心に宿すことができるのです。 
御言葉が鍵
 その際、イエス様が教えてくださった大切なことの一つは、神の御言葉を受け入れるということであります。心の王座を神様に明け渡すとか、神の国に住むとか、神様の愛と平和が心に宿るとか、どうも話が抽象的になってわかりにくい、それはもっとはっきりいうとどういうことなのかと、思われる方があるでしょう。イエス様は、「それは御言葉を受け入れ、御言葉を信じて生きることだ」と仰るのです。

 言葉の価値や力というのは、話し手によって決まります。話し手が嘘つきであったら、たとえどんなに魅力的な話であっても、その言葉にはまったく価値がありません。逆にある人の言葉を信じるときというのは、言葉よりも、その人を信じられると判断した時ではないでしょうか。信仰も同じことなのです。神様を信じるとは、神様の御言葉を信じることなのです。逆に、御言葉を信じないとすれば、それは御言葉が間違っているとかそういうことよりも、神様への信頼が足りないということが一番の原因なのです。

 イエス様はそのことを「種を蒔く人の譬え」によって教えてくださっています。種を蒔く人が種を蒔いていました。しかし、ある種は道端に落ち、すぐに鳥に食べられてしまいました。ある種は石地に落ち、芽は出しましたが、日が昇ると焼けて枯れてしまいました。ある種は茨の中に落ちました。この場合、土には何の問題もなかったのですが、茨がのびて覆いふさいでしまったために実を結ぶことができませんでした。ある種は良い土地に落ちました。種は芽生え、育ち、実を結び、あるものは30倍、60倍、100倍にもなったというのです。

 この譬えは、イエス様ご自身が解説をなさっているのですが、種というのは御言葉のことであり、良い土地というのは御言葉を受け入れる人たちであると言われています。しかも、受け入れるだけではなく、御言葉を最も大事なものとして受け入れなければならないのだと言われているのです。

 パレスチナの農業では、種を蒔いてから土地を耕すのだそうです。そのように、イエス様は御言葉を心に受け入れたならば、心の深いところにまで御言葉が根を張ることができるように、心の中の石を取り除きなさいと仰っておられます。「恐れるな」と言われているのに恐れてしまう心、「感謝しなさい」と言われているのに不平や不満ばかりに目を向けてしまう心、「あなたに罪を犯した者をゆるしなさい」と言われているのに憎しみを捨てられない心、そのように神の御言葉とぶつかってしまうような人間的な知恵、心の中の石ころが、誰の心の中にもゴロゴロしているものなのです。それを一つずつ取り除いて、御言葉が私たちの心の奥深くまで根を張り、支配するようにしなければいけないのだと、イエス様は言われるのです。

 それと同時に茨も抜いてやらなければなりません。茨というのは、私たちの取り巻く環境の問題です。御言葉を受け入れて、信じていても、富の誘惑や、この世の様々な欲望や、仕事の忙しさや、人々の言葉や目に対する気遣いというものが、御言葉以上に優先されてしまうようになると、御言葉による私たちの生活はそこで止まってしまいます。イエス様は、御言葉以外のものは全部切り捨てよと言っているわけではありません。しかし、いつでも御言葉に従うということが最優先にならなければいけないのです。

 このようにして、御言葉を受け入れ、御言葉を信じた生活、御言葉に従う生活をするということが、心の王座を神様に明け渡すことであり、それがこの地上の生活にあって神の国に生きるということであり、その結果としてどんな時にも神様の愛と平和を心に宿すことができるようになるのだと、イエス様は教えてくださっているのです。
成長する種のたとえ
 イエス様は、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである」と言われいました。御言葉が、私たちの人生に神の祝福をもたらすのです。ですから、このように言うこともできます。もし、私たちが神の御言葉を心に宿すならば、それは神の国のあらゆる祝福を手に入れたも同然であると。

 しかし、神の言葉は、どのように私たちに神の国の祝福をもたらすのでしょうか。それは、御言葉は必ず実現するということによってであります。先ほど、言葉の価値や力は話し手によって決まると申しました。もし、神の言葉は実現しないとしたら、それは神様が嘘つきであるか、無能であるということになってしまうのです。しかし、神の御言葉というのは、そういう神様の威信にかけた言葉であり、神の力、神様の真実が込められた種なのです。

 イエス様は、「成長する種の譬」によって、神様の御言葉は蒔かれた心の中で生きて働き、必ず実現するのだということを教えてくださっています。

 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 この譬え話は、何でもないことを言っているようであり、たいへん地味な話しですが、しばしば私は思い起こして心に慰めや励ましを受ける話しです。この譬えは、私たちに忍耐して待つことを教えているのです。神様の御言葉は必ず実現します。そして、私たちに多くの祝福を刈り取らせてくださいます。しかし、それにはご計画に基づいた順序があるのです。

 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」と、イエス様は言われました。人生には、暗闇に閉ざされた夜もあれば、光に照らされた昼もあります。私たちは、人生が光に照らされている時だけが、神様が恵みをもたらすために一生懸命に働いてくださっている時だと思っていますが、実は人生から光が失われ、暗闇の中に閉じこめられたような時にも神様は働いておられ、種は成長しているのだということなのであります。

 「どうしてそうなるのか、その人は知らない。」と、イエス様は仰います。確かに、私たちは苦しみや悲しみの意味を知ることができません。どうして、こんなに苦しいことや悲しいことが私の人生に必要だというのか、こんなことも神様の祝福だというのかと、私たちは神様のご計画に対して不平不満を感じるのです。

 しかし、イエス様は、たとえあなたが何も悟らなくても、「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」と言われました。「土はひとりでに実を結ばせる」、これは大事なことです。つまり、すべては神様の御業であるということなのです。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」、これも大事です。神様は無駄なことをしているのではありません。すべてはご計画に基づいて進められているのです。

 内村鑑三の「寒中の木の芽」という詩があります。

1)
 春の枝に花あり
 夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり
 冬の枝に慰めあり
(2)
 花散りて後に
 葉落ちて後に
 果失せて後に
 芽は枝に顕はる      
(3)
 嗚呼 憂いに沈むものよ
 嗚呼 不幸をかこつものよ
 嗚呼 希望の失せしものよ
 春陽の期近し
(4)
 春の枝に花あり
 夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり
 冬の枝に慰めあり

 人生の春夏秋冬はすべて、祝福をもたすための神様の御業であるから、憂いに沈む者も、希望の失せた者も、必ず次の時期が来ることを信じて待ちなさいというのです。「花散りて後に、葉落ちて後に、果失せて後に、芽は枝に顕はる」と言われています。御言葉がもたらす祝福を刈り取るためには、神様の御業がなされるのを信じて待つ忍耐が必要なのです。
からし種のたとえ
 しかし、忍耐には希望が必要でありましょう。どんな人も、希望なくして忍耐するということはできないのです。イエス様が最後に教えてくださったのは、その希望についてです。

 「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 当時、「からし種」は、考えられる限り最も小さなものの譬えでした。正確に言えば、もっと小さい種はあるのですが、からし種は小さいことの代名詞になっていたのです。しかし、その小さな小さな種の中には驚くべき生命が宿っていました。からし種は成長すると3メートルほどの背丈までのび、鳥が巣を作るほどの枝を張るようになるのというのです。

 イエス様は、神の国の祝福も同じだというのです。神の国の祝福は、お話ししてきましたように神の御言葉によってもたらされるのです。ですから、御言葉を受け入れるということが神の国の祝福に生きる最大の鍵であると申しました。しかし、御言葉を信じても何も現実的な変化や救いが起こらないではないかと、いらいらしてはいけないのです。信じて受け入れた御言葉は、必ず私たちの中で実を結び、私たちは豊かに刈り取るようになるのです。

 しかし、それには神様のご計画があり、順序があり、必要な時間がかかるのです。しかし、決して何も起こらないのではなく、神様は休むことなく働いてくださっているのですから、どんなに小さなことであれ、御言葉を信じて受け入れることによって起こった変化、祝福というものがあるはずなのです。それを「これしきのこと」と軽んじてはいけません。それこそやがて大きな祝福の枝を張る木となっていくのです。そのような小さな神の御業の中に、将来の大きな祝福を見ること、それが希望ではないでしょうか。

 たとえ小さくても、神様の御業は必ず成長し、大きなものになるのです。どうか、どのような時にも、どのような中でも、そのことを信じ、神の恵みを数えつつ、神の国の希望に生きる者になろうではありませんか。
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