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イエス様は、湖の小さな入り江に舟を浮かべて、その入り江を囲むように座っている聴衆に向かって、幾つかの譬え話をなさいました。前回は、そのイエス様と聴衆を包むガリラヤ湖の美しい自然に思いを馳せまして、それはさながら天然のカテドラル(大聖堂)のようであったでろうというお話しをしたのでした。今日は、私たちもイエス様の聴衆の一人となって、その御教えに心傾けたいと思います。
ここには、「種を蒔く人の譬」、「ともし火と秤の譬」、「成長する種の譬」、「からし種の譬」と、四つの譬え話が話されています。この一連の譬え話に共通する主題は、「神の国の秘密」ということです。
まず「神の国」とは何でしょうか。第一に、それは天国を指すことがあります。御心に適う者たちが、この地上の生活を終えて召されていく場所、神様の御許にあり、神様の愛と御力が隅々にまで行きわたり、そこに住む者を慰めと、平和と、歓喜に満ち溢れさせる場所、それが天国です。天国はまさしく神の国でありましょう。
けれども、神の国というのは、天国の中だけにあるのではありません。天国に留まらず、神の国はこの地上にまで及んでいます。この地上の生活の中で、私たちは神の愛に抱かれ、神の保護を受け、神の国に住むことができるのです。
そのように、私たちがこの地上の生活において神の国に住むことができるのだという使信を、「神の国の福音」と言います。イエス様の伝道は、このような神の国の福音を宣べ伝えることにありました。『マルコによる福音書』1章14-15節に、イエス様がガリラヤで伝道を始められた時のことが書かれています。
「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
イエス様は、「神の国は、あなたがたの彼方にある国ではない。神の国に住む者となるために、天国に行くのを待つことはない。神の国の方から、あなたがのすぐ側にまで迫ってきているのだ。」と仰ったのでした。「だから、おのおの自分の生活を改め、神様のもとに帰りなさい。そうすれば、あなたがたは今あるこの地上の生活において、すでに神の国に住む者となり、神の慰めを受け、神様の保護を受ける者になるのだ」ということを、人々に教えられたのです。
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イエス様は、お言葉だけではなく神の国のしるしをもって、このような「神の国の福音」を宣べ伝えられました。見えない人の目を開けたり、歩けない人を歩かせたり、悪霊に憑かれている人の心を解放したり、あるいは死んでいた人を蘇らせたりして、本当に神様が驚くべき愛と御力を持って私たちの側にいてくださるのだということを、人々に証明なさってくださいました。そして、そのしるしを見て、大勢の人たちがイエス様を信じました。そして、我も我もと自分の問題を携えて、イエス様のもとに参じたのです。
このような神の国のしるしを見ることが許されているのは、2000年前のイエス様と同じ時代に生きた人々だけではありません。イエス様は、今も生きておられます。そして、私たちの祈りを聞いてくださると約束してくださいました。ですから、私たちもまた、イエス様によってなされる神の国のしるしを見ることがゆるされているのです。実際、私もそのような奇跡を見せていただきました。そして、神様が生きておられること、神様の愛が私たちと共にあることを、祈りを通して体験してきました。
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しかし、皆さん、神の国というのは、このような奇跡の起こる場所にあるだけでもないのです。祈りが聞かれることなく、病める者たちが天に召されていったという経験があります。神様を信じて、聖書の教えを信じて、その通りに突き進んでいったのに、結局、反対者たちの言うとおりになってしまったこともあります。多くの悲しみ、多くの挫折、多くの失敗、多くの悩みの経験があります。「神はどこにおられるのか?」「神の愛はいずこにあるのか」と、真っ暗闇な心で神様に問い続けたことがあります。
しかし、そのような時、そのようなところにもまた神の国があるのです。神の国があるということはどういうことかと申しますと、そこにも神様がおられ、変わることのない神様の愛があり、変わることのない神様の深い御旨があるのだということであります。これこそが「神の国の秘密」ということではありませんでしょうか。
使徒パウロには、常に肉体を痛めつける棘があったといいます。それを取り除いてくださるように、何度も主に祈り続けたといいます。しかし、ある時、神様から「わたしの恵みはあなたに十分である。私の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という答えが返ってきました。結局、祈りは聞かれなかったということなのですが、パウロはこれを聞いて得心し、「キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストに満足しています」と言っています。要するに、パウロは、神の国の秘密を知ることによって、どんな状態に置かれていても、自分の弱さがどんなに深刻な場合であっても、神の国の中に住み続けることができるようになったと言っているのであります。
後でご一緒に讃美をいたしますが、『御国のここちす』という聖歌があります。
悲しみ尽きざる浮き世にありても、
日々主と歩めば、御国のここちす
ハレルヤ! 罪咎消されしわが身は
いずくにありても御国のここちす
彼方の御国は、御顔のほほえみ
拝する心の中にも建てられる
ハレルヤ! 罪咎消されしわが身は
いずくにありても御国のここちす
山にも谷にも 小屋にも宮にも
日々主と住まえば、御国のここちす
ハレルヤ! 罪咎消されしわが身は
いずくにありても御国のここちす
病の癒しとか、悪霊の追放とか、聖霊の賜物を受けるとか、そういう奇跡のあるところに神の国があるというのは、誰にでも分かることです。それに対して、悲しみ尽きざる浮き世にあっても、絶頂にあるときばかりではなく谷底にあるときも、いかなる日いかなる場所にあっても、イエス様が私と共にいてくださり、御国にある心地をもって生きることができるということは、誰にでも分かることではありません。だから、「神の国の秘密」と言われるのでありましょう。
神の国の本当に素晴らしさは、このような「いずこにありても御国の心地す」という讃美、あるいは「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストに満足しています」というパウロの信仰、そういう境地の中にこそあるのです。 |
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このような神の国の素晴らしさを知り、私たちがいずこにありても神の国に住む者となること、それこそイエス様の伝道の目的であったと言っても良いと思うのですが、11節で、イエス様はこのように言われています。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」
「神の国の秘密」というのは、「神の国の奥義」と訳しても良い言葉です。どういう世界でも同じことですが、最も本質的なことというのは、最も深みにあって、なかなか言葉で説明できないことがあります。それが奥義です。それを究めるためには勉強だけではなく、失敗や挫折を含むいろいろな経験や体験をしなければなりませんし、何よりもそれを求め続ける心が必要なのです。
「神の国の奥義」も同じ事でありまして、それは誰にでも手軽に分かることではありません。心をつくしてイエス様を信じ、イエス様に従った者だけが、その奥義、神の国の本当の素晴らしさを体得することがゆるされるのです。
しかし、こんな風に言ってしまうと、信仰の世界というのは誰にでも開かれている世界とは言えないのではないかという気がしてしまいます。どの世界でも、奥義を究める人というのは、血のにじむような努力もしているのですが、それだけではなく天賦の才能のようなものがありまして、いくら私たち凡人が同じような努力をしたからといって、決して同じ奥義に到達できるとは思えないのです。信仰の世界もそれと同じではないか、と思えてしまうのです。
それに対して、イエス様はこういうことを仰いました。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(21-22節)
この「ともし火」とは、イエス様ご自身のことを言っているのであります。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。イエス様がいらしてくださったのは、ともし火が燭台の上に置かれて部屋が明るく照らされるように、神の国の奥義がすべての人に明らかにされるためであると言っておられるのです。
そして、この悲しみ尽きざる浮き世にあって「神様はどこにいるのか?」「神様の愛は、神の救いはどこにあるのか?」と、嘆きや失望の中に生きているすべての人たちが「いずくにありても御国のここちす」と讃美するようになり、絶頂の時ばかりではなく谷底にあるかのように時にあっても、神の国に住む者となり、神の国の慰め、平和、喜びに満ちあふれるためであると言われているのです。
確かに神の国の秘密、奥義というのは簡単に得心できるものではありませんが、それでもイエス様はすべての人がそれを知ることができるようにと願っておられますし、そのために私たちの光となってくださっているのだというわけです。
イエス様は、このようにも言われています。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
「秤」というのは、私たちが心の中で計算のことであります。ある人が「聖書をねぎって買う人はないが、ねぎって読む人はザラにある。」とたいへんうまいことを言っていますが、イエス様の御言葉を自分の愚かな知恵で量り、その神の知恵の大きさを人間レベルの知恵にしてしまったり、無意味なものにしてしまうということが、私たちにはよくあるのです。
ですから、イエス様がここで仰っているのは、神の国の奥義というのは、決して宗教的な天才だけが知ることができるようなものではなくすべての人が知ることができるものでありますが、そのためには自分の小さな秤で神のみ言葉を量ってはいけないということなのです。たとえ自分の秤で量れなくても、神様を信じ、神様の御言葉をあるがままに受け取る必要があるのだということなのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)、「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)と、イエス様が仰っておられるのは、御言葉の聞き方、受け止め方こそが、神の国の奥義を知るにおいて最も大事なことなのだということなのです。
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そこで、「種を蒔く人の譬え」というのが、イエス様によって語られているのです。ある農夫が種を蒔いていますと、その種は四つの土地に落ちました。ある種は「道端」に落ち、鳥に食べられてしまいました。ある種は「石地」に落ち、根が浅いので枯れてしまいました。ある種は「茨の生える所」に落ち、茨にふさがれて実を結ぶまで成長することができませんでした。ある種は「良い土地」に落ち、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍もの実を結んだというのです。
この譬えについては、イエス様ご自身が譬えを話された後でその意味を説明してくださっていますので、多くを語りませんが、「種」というのは御言葉のことであり、「道端」「石地」「茨」「良い土地」というのは、それぞれ御言葉を聞く心のタイプであるということが言われています。こう申しますと、自分はどのタイプかということを誰でも考えてみることだろうと思います。しかし、そういう読み方はちょっと違うのではないかと、私は思うのです。
みなさんは、この農夫はどうして道端や石地や茨の生えるようなところにまで種を蒔いたのかということを不思議に思われませんでしょうか。耕された良い土地でなければ、種が育ち、実を結ぶことがないことは、農夫が一番よくしっている筈なのです。しかし、この農夫はずいぶん乱暴な種の蒔き方をして、種をずいぶん無駄にしています。「なぜんだろうか」 こういう疑問をもって調べてみましたら、面白いことが分かりました。パレスチナの農業では、耕された土地に種を蒔くのではなくて、種を蒔いてから土地を耕すのだそうです。
そうしますと、この種を蒔く人の譬えというのは、どういうタイプの人間ならば御言葉を受け入れ、豊かに実を結ぶことができるかという話ではないということになります。誰でも、はじめから「良い土地」をもっていて、神の言葉を何の問題もなく受け入れるという人はいないのです。
ですから、どんな人でも、御言葉を聞いたならば、そこを耕し、そこから石を取り除き、茨を抜き取り、御言葉の種が成長していくにふさわしい心を造って行かなくてはいけない、そうしなければ、ある人は種を道端に落としたままサタンに奪われてしまったり、根が浅いために艱難があるとすぐにつまづいてしまったり、思い煩いや欲望に邪魔をされて成長しなくなってしまうのだということを、教えてくださっているのではないでしょうか。
私はどういうタイプだからダメだということではないのです。どのようなタイプであろうと、御言葉を聞いたならば、常に御言葉が豊かに実を結ぶように、心を耕す必要だということなのです。
今日はここまでにしておきたいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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