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今朝は、イエス様が湖のほとりで、人々にいろいろな譬え話をもって教えられたという場面をお読みいたしました。4章1節をもう一度読んでみたいとおもいます。
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた」
この湖は、聖書の中によく出てくる湖でありまして、「ゲネサレト湖」(ルカ5:1)、「ティベリアス湖」(ヨハネ21:1)、「キネレト湖」(民数記)などと呼ばれていますが、一番よく知られた言い方は「ガリラヤ湖」でありましょう。
「イエスは、再び・・・」と書いてありますように、イエス様はしばしばこのガリラヤ湖を訪れております。『マルコによる福音書』だけを見ましても、まず1章16節に「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられた」とあります。それから2章13節に「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあります。そして、今日の4章1節に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた」とあるのです。このように見ますと、イエス様はよほどこの湖がお気に入りだったのだなあと思うのです。
主が愛された湖というのは、たいへん美しい景色を持つ湖です。緑の美しいなだらか斜面が湖に垂れかかっています。このガリラヤ湖畔というのは、気候も良く、いろいろな植物がよく生長するのだそうです。天気がよければ彼方にヘルモン山も見えるのだとも書いてありました。イエス様はきっとこのような美しい景色を愛されて、しばしばここを訪れられたのでしょう。
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子供の頃の話ですが、私にも愛する景色というか、愛する場所がありました。私は、少年時代を静岡県の藤枝市というところで過ごしました。今は山が切り崩されて住宅地になったり、新しい道路が出来たり、ショッピングセンターができたり、だいぶ賑やかになりましたが、それでもまだまだ自然の豊かなところであります。
私の家のすぐ裏に、鮎やウナギなども捕れる瀬戸川という川が流れていまして、その河原の人気のないある場所にお気に入りの場所をもっていました。別に取り立てて眺めが良いというわけではありません。ただちょっとだけ下界から隔絶したような静かさを感じられる場所で、一人になりたいときや、あるいはただ単に退屈な時などにも、よくそこに座って川面をじっと見つめたり、そのリズムのいい流れの音に聞き入ったり、遠くに目をやって彼方の山をぼっと眺めたりして、何をするわけでもなくしばらく時間を過ごしたのです。今も、その場所の景色というものが、私の心に焼き付いています。田舎に帰りますと、必ずそこに行ってみます。すると、ああ帰ってきたなという安堵感のようなものを感じるのです。
今、思いますと、私にとってそれは癒しの時間だったのだと思います。最近になりまして、私はこのことをある方にお話しをしましたら、やはりその方も同じように、自分の場所をもっていたというお話しを聞きまして驚きました。もしかしたら、誰にでもそういう癒しの場所があるのかもしれないとも思ったりもしました。
「美しい風景は人の心を癒す」ということは、誰にでも経験のあることではないかと思いますが、私は必ずしも美しくなくても良いと思うのです。自然というのは、海も山も川も空も、またそこに生きる植物や動物も、みんな神様がお造りになったものですから、感じようとする心さえあれば、必ずそこに神様の息吹を感じることができるのです。
もっとも、このような考えは一歩間違えば神様はどこにでも自然の中に宿っているのだという汎神論に陥ってしまって、キリスト教信仰から大きく外れてしまいます。キリスト教信仰では自然が神様なのではなく、自然というのは神様がお造りになった作品なのです。ですから、教会や聖書によって神様を知るということは当然大切なのことです。その上で申しますならば、教会の中だけではなく、自然の中もまた、神様を御業を見たり、感じたりして、祈るにふさわしい場所だと行ってもいいのではないでしょうか。
私たちは、もっと神様がお造りになったものに目を向けるべきだと思います。この世界は神様の御業、神様の知恵に満ち満ちているのです。そういうことを、もっと身近に感じて生活することが大切だと思うのです。こんなに人がたくさん住んでいる東京におりますと、なかなか自然らしい自然を見つけることができないと思うかも知れません。しかし、それよりも、そういうものに目をやる暇もないほど、私たちの関心事が人間の営みばかりに集中してしまっているということこそが問題ではないかと思います。
自分のことをくよくよ考えてしまう時、「あの人はどうだ、こうだ」と人の悪いところばかりが目についてしまう時、「あれがない、これがない」と物質的な心配に明け暮れてしまう時、ちょっと立ち止まって空を仰いでみるとか、外に出て夜空の月を眺めたり、星を数えてみるとか、路肩に咲くスミレやタンポポの可憐さに目を留めるとか、アスファルトを割って生えてくる雑草のたくましさに目を留めるとか、神の御業に目を向けてみることが大切だと思うのです。
今日、お読みしました詩編にはこのように言われていました。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19:1-5)
何も語らなくても、その声は聞こえなくても、神様がお造りになった世界は、たえず神様の存在とその御業を讃美しているのです。ただ人間だけがその讃美の合唱に加わることなく、またその声を聞くことも、見ることもなく、神なき望みなき者、喜びなく感謝なき者として、生活に疲れ切ってしまっているのです。
そのような私たちを憐れんで、イエス様は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」とも仰ってくださいました。空の鳥が神様の愛によって何の心配もなく生きているように、野の花が神様の愛によって美しく装われているように、あなたがたの営みについても、天の父として愛もって、常に心にかけてくださる神様がいらっしゃるのですよ。あなたが一人で頑張って生きているのではなく、神様が支えてくださっているのですよ。そのことに目を向けて、神様を信じ、感謝し、希望を持って日々の生活を送りなさいと、イエス様は教えてくださったのです。
そして、イエス様ご自身、ガリラヤ湖畔の美しい景色を愛され、しばしばそこを訪れられたということなのです。その美しい自然の中を歩きながら、空が、海が、草が、花が、そして小鳥や魚たちが、神様を讃美する声に耳を傾けておられたのではないでしょうか。
それだけではなく、イエス様はこの美しいガリラヤ湖畔を神様が与えてくださった天然の教会として、その美しい自然の中で人々に神様のことを教えてくださったというのです。
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」
イエス様が説教をなさった湖のほとりにというのは、なだらかな斜面を持つ岸辺が小さな入り江を囲んでおりまして、ちょうどローマの野外劇場のような形になっております。湖の上に舟を浮かべて、そこから岸にいる人々に向かって話すと、5000人以上の人々に声が届くのだそうです。本当にに素晴らしい天然の教会がそこにあったのだろうなと、思わされるのです。
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さて、イエス様はその天然の教会でどんなお話しをしてくださったのかと言いますと、「種を蒔く人の譬え」「ともし火と秤の譬え」「成長する種の譬え」「からし種の譬え」と、四つの譬え話が書かれています。その内容については、次回にお話しをさせて欲しいと思うのですが、今日は「譬えで話された」ということについてご一緒に学びたいと思うのです。
@ 聞く力に応じて理解できる
33節にこう言われています。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」
「人々の聞く力」というのは理解力と言っても良いと思います。イエス様は、理解力の違う人々が、それぞれの力に応じて神様の御言葉を受け取ることができるようにと、ご配慮をもって譬えでお話しをされたというのです。
なるほど、イエス様の聴衆には子供もいたようです。それはイエス様が5000人の聴衆に食事を与えなさいと仰られて、弟子たちが困っておりますときに、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年がいたという話からも分かります。そういう子供が聞いてもそれなりに分かる話し、それが譬え話であったと思うのです。
たとえば、種を蒔く人が播いた種が、一つは道ばたに落ちて鳥に食べられてしまった。一つは、石地に落ちて枯れてしまった。一つは、茨の中に落ちて実を結べなかった。こういう話は、教会学校の子供もわくわく、どきどきしながら聞きます。そして、最後の種が良い土地に落ちて、「ああ、よかったな」と思うわけです。イエス様は、子供も大人も、学問のある者もない者も、ご自分のお話しに耳を傾ける者は誰でも、そこから何かをくみ取り、それによって心に、生活に、何か新しいことが始まるようにと、常にそのことを願ってお話し下さっていったのです。
A 反芻して理解を深めることができる
譬え話にはもう一つの効用がありまして、イエス様の譬え話は、単純でありながら、一度聞いたらいつまでも心に残るような何かがあるということです。すると、子どもたちは、成長していく過程で、いろいろな経験をする度に、いつか聞いた譬え話を反芻し、「ああ、これはこういう意味だったのか」とか「なるほど本当にその通りだ」と言った具合に、その理解を深め、真理に近づいていくことができるということなのです。イエス様が譬え話でお話しをなさった理由は、御言葉がその人の心の中でいつまでも生きて働き続けるようにという願いをもってのことだったとも言えるではないでしょうか。
B 日常生活の中に神様の教えを読みとる
もう一つ、考えたいのは、イエス様の譬え話が、誰の心にも印象深く残ったのは、その題材が常に人々の日常生活にあったからであるということです。「種まき」もそうですし、「ともし火」や「秤」もそうです。他にも日雇い労働者、迷子の羊、放蕩息子、強盗に襲われた人や、大切な銀貨をなくしてしまった婦人など、イエス様が譬え話の題材に用いられたのは、当時の人々にとって毎日みたり、経験したりしているような事ばかりでありました。
その意味は二つありまして、一つはイエス様がそれだけ人々の毎日の生活に、その悩みや心配や苦労に対して、深い関心と理解をもっていてくださったということです。イエス様の譬え話を聞く人は、「ああ、この先生は私の生活や問題をよくわかっていてくださる御方だ」というように、イエス様に親しみを覚え、その優しさを感じて心を救われるということがあったのではないでしょうか。
そして、それと同時に、もう一つ事は、神様の御心というのは、私たちの日常生活からかけ離れたところにあるのではなく、まさに私たちの毎日の暮らしの中で神様の教え学んだり、実践したりすることができるものなのだということを知ったのではないかと思うのです。
C 謎としての譬え
このように、イエス様の譬え話は、人々に本当に豊かな学びを与えました。しかし、10-12節を見ますと、「おや?」と思うようなことが、イエス様から語られています。弟子たちが、イエス様に「どうしていつも譬えでお話しになるのですか」と聞いたというのです。するとイエス様は、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(12節)とお答えになったというのです。つまり、理解させないためであるというのです。
これはどういうことなのでしょうか? イエス様は、日常生活を題材にし、子供でもそれなりに分かるような易しい譬え話をもってお話しをなさったのですから、人々に理解させることが目的であったことは間違いないと思うのです。しかし、神様のことが何かも分かって、神様に対する未知な部分や驚きがなくなってしまうというのも変な話なのです。神様は、決して人間のちっぽけな脳みその中に収まりきってしまうような御方ではありません。まことの神様は、つねに人間にとって驚きに満ちた方であり、理解を超えた御方であるというのが本当ではないでしょうか。イエス様が神様のことをあからさまにではなく、譬え話でお話しなさったのは、そういう神様のミステリーの部分を大切にされたからだということだということだと思うのです。
私たちは、自然の中に神様の御業を見たり、また日常生活の中で神様の教えを学んだりしながら、神様をいつも側にいてくださる御方と知り、私たちを支えてくださっている御方だと知ることが大切です。しかし、その一方で、神様は私たちの理解や思いを越えた御方であると知り、驚きをもって、畏れをもって、神様を敬い、信じていくということが大切なのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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