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今朝の御言葉には、イエス様のご家族のことが書かれていました。イエス様のご家族については、あまり多くのことが聖書に記されているわけではありません。母マリア、父ヨセフの名前はみなさんもご存知でありましょう。父ヨセフはイエス様が十二歳の時に一緒に宮詣に行ったという話を最後にぷっつりと聖書には登場してきません。おそらくイエス様がお若い時期になくなられたのではないかと言われています。イエス様はマリアの最初の子でありましたが、後に弟や妹たちが生まれたようであります。その弟たちの名前は聖書にも記されていまして、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンであると知らされています。他に妹たちもいたようですが、名前まではわかりません。
イエス様は三十歳までそのようなご家族と一緒にガリラヤのナザレで暮らしておられたと言われていますが、その後、家をお出になって、神の人としてのご生涯を始められたのです。
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そのイエス様のお働きに対する評判はまたたくまに広まり、イエス様の周りには常に救い求める大勢の人たちが集まるようになりました。その中には「群衆」と呼ばれる人たちの他に、「弟子」と呼ばれる人々がいまして、イエス様と常に共にあり、お仕えしたということも聖書には書かれております。使徒と呼ばれる12人の他に、婦人たちを含め100人ぐらいの弟子たちがイエス様のお側にいたのではないかと推測されます。
こうなりますと、イエス様とその弟子たちは、ユダヤ教における一種の新興宗教のように見えたと思うのです。ユダヤ教の伝統的な指導者たちは、日に日に勢いを増すこのイエス教団の存在を由々しき問題と考えまして、何とか人々をイエス教団から引き離そうとしました。「あのイエスという男に惑わされるな。あの男は悪霊につかれているのだ。奇跡を行うのもその悪霊の力なのだ」と、警告してまわったのです。それだけではありません。イエス様のご家族や身内のところにいって、いろいろ尋問したり、「お前のところのあのイエスという男は気が触れているに違いないから何とかしろ」というような嫌がらせのようなこともしたのではないかと思います。
今日は31節からお読みしたのですが、その前の20-21節を読んでみますと、そういうことが推測できるようなことが書かれているのです。
「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」と言われています。「身内の人」というのは、家族よりももう少し広い親戚もそこにいたということかもしれません。いずれにせよ、そういう背景がありまして、今日お読みしました31節につながっていくのです。 |
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「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」
20節によりますと、この時、イエス様は食事をしようとして家に帰っておられたのでした。それは母マリアや兄弟たちの住む家ではなく、おそらくペトロの家ではなかったかと思われています。
ところが、そこにもまた救いを求める多くの人たちが集まってきて、イエス様は食事をする暇もなく、人々に神様の教えを伝えておりました。そういうところに、母マリアと兄弟たちがやってきたというのです。何のためかというと、21節との関連から、イエス様を説得して家に連れて帰るためだったと考えてよいでありましょう。
私がここでまず感じますのは、家族のエゴイズムということです。家族の悪い側面がここに現れてしまっていると思うのです。「外に立ち」という言葉についてから、そのことを伺うことができます。母マリヤと兄弟たちが外に立っていたのは、中に入ることを群衆に阻まれたからではありません。人をやって呼びに行かせたというのですから、その気になれば自分が中に入っていくことが出来たはずなのです。しかし、そうはしませんでした。それは、ご家族にしてみれば、「自分たちがイエス様の外に立っているのではない。イエス様の方が家族という身内の外に出てしまっているのだ。だから、イエス様の方から私たちの処に戻ってくるべきなのだ」という理屈があったからだと思うのです。
もう一度、21節の言葉に注目したいのですが、ご家族は「あの男は気が変になっている」といわれて、それでイエス様を取り押さえに来たと言われています。「気が変になっている」という言葉は、エクセステーというギリシア語が使われています。それはエクスタシーという英語になった言葉です。その意味は、「自分が、自分の外に出てしまう」ということであります。ご家族は、イエス様が、自分たちがよく知っている人間ではなく、まったく違う人になってしまったということを、「気が変になってしまったのだ」と考えてしまったのです。だから、そのようなイエス様をもう一度、自分たち家族のもとに取り戻し、自分たちの良く知っている姿に戻そうとしたわけです。
それが家族のエゴイズムだと、私は思うのです。家族というのは、もっとも身近な、そして最も気安い隣人です。それゆえに、誰よりも素晴らしい、大切な隣人に成りうる存在です。しかし、逆にその親しみや気安さが家族を束縛したり、傷つけたり、重荷を負わせたりする存在になることもあるのです。他人なら許せるような過ちも、家族は許せなかったり、他人には決してしないような甘えを家族に見せたりすることも、家族のエゴイズムだと思います。
そういう家族のエゴイズムが、たとえば子供を甘やかせてダメにしてしまったり、ドメスティック・バイオレンスを引き起こしたりする原因になっているのではないでしょうか。骨肉の争いが、他人の争いよりはるかに醜く、救いがたいものであるということも、家族のエゴイズムがむき出しになるからだと思うのです。 |
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さて、ある人がイエス様のところに来て、「母上と兄弟姉妹方が外であなたを探しておられます」と告げました。すると、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」とお答えになり、さらにご自分の周りにいる人々をご覧になって、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたというのです。
イエス様が、このように信仰を同じくする者たちをご自分の家族としてくださることはたいへん有り難い話しです。しかし、その一方で、肉における家族というものをこんなにぞんざいに扱ってよいのでしょうか。肉における家族よりも、信仰の家族を大事にしなさいといことが、神様の教えなのでしょうか。
もちろん、そうではないのです。イエス様が仰っておられるのは、家族というのは血のつながりではなく、お互いによき隣人となろうとするところに家族が築き上げていくものだということを、教えてくださっているのです。家族を否定されたのではなく、血のつながりに頼った家族のエゴイズムを否定されたのです。
家族というのは、最も近しい隣人であると申しました。しかし、隣人であるということはどういうことか。同じ屋根の下に住んでいるから隣人なのではありません。血のつながりがあるから隣人なのでもありません。そのことは、イエス様がなさった良きサマリア人のたとえ話がよく教えてくれていると思うのです。
ある律法学者が「わたしの隣人とは誰ですか」とイエス様に尋ねました。すると、イエス様は気づいたユダヤ人を助けたサマリア人の話をされ、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われたのでした。隣人というのは、私たちの周りに隣人として存在しているのではなく、自分が周りにいる人たちに対して隣人になるときに、その人たちが隣人になるのだという大切な教えなのです。そうすることによって私たちは隣人を得るのです。
家族も同じです。「あなたは私の家族なのだから、こうあるべきだ」というのではなく、つまり人に家族であることを要求するのではなく、自分がその人の家族になろうとしなくてはいけないのです。お互いがそのようにして家族のエゴイズムを克服して、本当に家族になろうとする時に、家族は本当に素晴らしい家族となっていくのです。
家族の絆は、血がつながりではないということを知ることは大切でなことです。血のつながりというのは、親子にはありますが、夫婦にはありません。しかし、家族の基本は夫婦にあるのです。
創世記にはこのようにかかれていました。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体になる」(創世記2:24)
ここを読みましても、家族の基本は血のつながりではなく、結婚であり、夫婦であるということが分かるのです。さらに「父母を離れ」という言葉があります。いったんそこで血のつながりが切られるのです。それをしませんと、嫁と姑のえげつない争いが起こったり、マザコンの亭主になったりという問題が起こって、新しい家族を築くことができないのです。
しかし、血のつながりを切るというのは、親子の縁を切るということではありません。家族のエゴイズムを切るということです。そして、血のつながりではない新しい関係をもって、親と子が結ばるということなのです。
それが愛です。家族に家族であることを要求するのではなく、自分がその人の良き家族になろうとする愛なのです。
イエス様は十字架の上から、悲嘆に暮れる母マリアをご覧になりました。そして、母マリアに弟子のヨハネを引き合わせ、「ごらんなさい。あなたの息子です」「ごらんなさい。あなたの母です」と仰いました。それでヨハネは、イエス様の母を自分の母として家に引き取られたと聖書に書かれています。このようにイエス様は、自分の痛みや苦しみよりも、母マリアの痛みや悲しみを思いやる御方でありました。血のつながりではなく、このような愛によってイエス様は、母マリアの家族であろうとされたのです。それと同時に、この話は、マリアとヨハネが、たとえ血のつながりがなくとも、主の愛によって親子の絆に結び合わされたのだということをも物語っています。
血のつながりは、決して悪いものではありません。しかし、血のつながりに頼ろうとすると、そこに家族のエゴイズムが生まれ、家族でありながら、家族でなくなってしまうのです。血のつながりを越えて、お互いに愛とゆるしと尊敬をもって良い家族になろうとすることによって、家族はまことの家族となるのです。 |
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みなさん、イエス様は、本当に家族を大事にされる御方なのです。イエス様は「わたしの母とだれか、わたしの兄弟とはだれか。わたしにはそんなものはいないし、必要ない」と言われたのではありません。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたのです。イエス様は、家族を愛し、必要となさっています。イエス様は、すべての人をご自分の家族にしたいと願っておられるのです。
みなさん、教会はそのようなイエス様の家族です。いや、正確に言うならば、互いに愛し合うことによって主の家族になることができるのです。しかし、もし私たちがたとえ一つの教会に集まっていても、互いに助け合わず、ゆるし合わず、尊敬しあうことがないならば、家族のエゴイズムが教会の中にも露わにされることでありましょう。
どうぞ、みなさん、私たちを家族の絆に結びつけてくださる主の御心を信じ、お互いに良き家族になるように努めようではありませんか。そして、まことに主の栄光を表す神の家としての教会をここに築いて参りましょう。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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