「罪深い女をゆるす」 <2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書 7章36-50節
旧約聖書 サムエル記下 12章1-15節
前回の復習
 ある日のこと、ファリサイ派のシモンという人から招待を受けたイエス様は、快く応じて、彼の家で一緒に食事をしていました。シモンのような町の有力者の屋敷には花壇や泉がある立派な中庭があって、よく高名なラビや評判の人を招いてはそこで食事をしたそうです。そして、このような時には町の人は誰でもそこに出入りをすることができるようになっていて、大勢のギャラリーがラビたちの口からこぼれる知恵の言葉に耳を傾けていたそうです。

 ところが、それにしてもちょっと場違いな町の女がひとり、高価な香油の入った美しい壺をもって中庭に入ってきました。彼女は札付きの売春婦でした。怪訝な顔をする人々をよそに、彼女は脇目もふらずイエス様に近づき、足下にひざまずいてさめざめと泣き出しました。そして、その涙で濡れたイエス様のみ足を自分の髪の毛でぬぐい、心を込めて足に口づけをしてから、その上に香油を注ぎかけました。

 前回は、このお話しから、イエス様という御方は私たちに与えるだけではなく、私たちの貧しい贈り物を喜んで受け取ってくださるということにおいても、実に優しいお方であったということをお話ししたのでした。
金貸しである神様
 しかし、シモンは、そのようなイエス様の愛を理解することはできなかったのです。今日のお話しはそこから始まります。39節を読んでみましょう。

 「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」

 イエス様はこのシモンの思いを見抜かれて、シモンに一つのたとえ話をなさしました。41-42節を読んでみましょう。

 「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」

 短くて、簡単なたとえ話です。1デナリオンというのは労働者の一日分の給料でした。分かりやすく1万円だとしますと、500万円の借金と50万円の借金です。当然、500万円の借金を帳消しにしてもらった人の方が金貸しにより多くの恩を感じ、この金貸しに感謝する気持ちも大きいことでありましょう。シモンもそのように答えました。しかし大切なことは、この譬えが自分にとってどんな意味をもっているのかに気づくことです。シモンは、どうもまだピンとこないようなのです。

 この譬えを理解するためには、この金貸しは地上の金貸しではない、いと高き天の金貸しであるということに気づかなければなりません。地上の金貸しはこんなに気前はよくありません。イエス様は、天の神様を金貸しに喩えておられるのです。

 でも、なぜ神様が金貸しなどに喩えられたのでしょうか。皆さんが金貸しにどんなイメージを持っておられるか分かりませんが、私はどうしても強欲で、貧しい人や困っている人を食い物するような悪い金貸しのことを考えてしまうのです。

 しかし、そうでもないんだと思ったのは、三浦綾子さんの『銃口』という小説を読んだ時です。その中に、質屋のお父さんが、美千代という娘に質屋というのはどういう仕事なのかということを言って聞かせる場面が出てきます。美千代が、「質屋は貧乏人のお陰で儲かっているんだ」と友達にからかわれて、泣いて帰ってきた時のです。

 「しかしな、美千代。質屋というもんが、なかったら、金に困っている人間は、きっと困るにちがいないぞ。お前も六年生だ、よく聞いておけ。人間誰しも、一生のうちきっと金に困ることが必ずある。そんな時、親戚や知人のところに行って、たとえ1円でも貸してくれと頭を下げるのは、こりゃあ辛いもんだ。昨日まで仲良くしていた者でも、そういい顔をして貸してはくれぬもんだ。渋い顔になったり、見下げた顔になったりする。胸の中がひんやりするような、冷たい顔を見せられるほど人間辛いことはない。
 ところが質屋というものがあるお陰で、羽織の一枚も風呂敷に包んで持って行けば、質屋はいらっしゃいと迎えてくれる。品物によっては1円借りるつもりが50銭しか借りられないこともあるが、反対に2円借りられることもあって、何とか急場を凌げるわけだ。品物は金の都合のついた時に受け出しに行けば、ちゃんとそのまま返してもらえる。むろん、約束の三ヶ月が過ぎても、そのまましておけば流れるわけだがな。ま、いずれにしても、質屋のお陰で、親戚知人に頭を下げる辛さは、まぬがれる寸法だ。質屋がなければ首つりしかねない気弱な人間だっているわけだから、俺はいい仕事をしていると思っているよ」(三浦綾子、『銃口 上』、小学館文庫)

 要するに、質屋というの金に困っている貧しい人の味方なんだと言っているわけですね。誰でも人に頭を下げて頼むというのは、本当に辛いことだけれど、質屋はそういう人たちを大事なお客様として迎えてくれるところだからだというのです。

 私たちが困ったことに直面するのはお金の問題ばかりではありません。イエス様のお話の中には、夜中にパンがなくて隣に家に借りに行ったという話があります。隣の家はもう寝ていて、たいへん迷惑な顔をするのです。しかし、うるさくて仕方がないかたパンを与えたという話です。それから、やめもが裁判官に必死になって訴えるという話しもあります。その裁判官というのは神を畏れず人を人とも思わない悪い裁判官だったのですが、やもめが余りにもしつこいので、仕方なくやもめの言うことを聞いてやったという話です。

 人間の生活には、このように色々と困る場面があるのです。そういう時、隣の家の人も、裁判官も、決して歓迎してくれませんでした。うるさく思い、迷惑に思い、早くどこかに行って欲しいからパンを与え、また裁判をしてくれたという話なのです。ところが、そういう時にこそ質屋じゃありませんが、私たちが来るのを待っていてくださるお方がいる。仕方なく助けようと言うのではなく、私たちを助けることを喜びとしてくださる御方がいる。それが天の父である神様であるということを、イエス様は教えて下さっているのです。

 そのような神様の有り難さを知り、神様のお陰というものを知っていたのは、ファリサイ派のシモンではなく、売春婦のこの女性であったというのであります。
この女を見よ
 イエス様はそのことに気づかせようとして、シモンに「この人を見ないのか」と言われました。「この人を見ないのか」というのは、「この人のことを分かろうとしないのか」という意味です。まさに、シモンの理解することのできない人間がそこにいました。シモンが唯一理解できるのは、「この女は汚らわしい売春婦だ」ということだけだったのです。

 イエス様に言われて、シモンはもう一度、まじまじとこの女を見たことでありましょう。しかし、何度見ても、同じ事でありました。どうしても、この人を分かってあげようとする優しい目をもつことができなかったのです。

 みなさん、人を正しく見るということは難しいことです。不可能だと言ってもいいかもしれません。しかし、それでも、分かろうとする目をもって、人を見るということが大事なことだと思うのです。シモンのように初めから心を閉ざしていたら、決して人を分かることはできません。

 分かろうとするためには、「この人は売春婦だ」「この人はこんな人間だ」という決めつけを捨てて、「私はまだこの人のことを分かっていないのだ」という処から始めなければいけないと思うのです。その時に初めて、その人を分かろうとする優しい目、そして公平な目を持つことが出来るのではないでしょうか。

 人を分かろうとするならば、人を裁いたり、評価したり、レッテルを貼ったりしてはいけないということです。そういうことが、私たちがお互いに理解し合えない不幸な人間にしてしまっているのです。

 しかし、シモンもそうだったと思いますが、私たちには分かりたくもない人間というのがいるものです。そういう気持ちを乗り越えて、なおその人を裁かず、レッテルを貼らず、分かろうとする気持ちを持つためには、いったいどうしたらいいのでしょうか。

 それには、まず自分自身を知ることです。シモンは、目の前の売春婦よりも、自分は上等な人間だと思いこんでいました。同じように、私たちも人を裁くときには、自分はその人よりもマシな人間だと信じ込んでいるのです。けれども、本当に自分はその人よりも上等で、マシな人間なのでしょうか。

 「そうだ」と、言う人もいましょう。しかし、それはイエス様の目には通用しないことなのです。イエス様はすべてを知っておられます。私たちの心の隅々まで知っておられるのです。自分を知るということは、そういうイエス様の目で、自分を知るということです。その時になっても、私たちは果たして自分は正しいとか、あの人よりもマシな人間だと言い切れるでしょうか。果たして、この売春婦に、あるいは誰に対してであっても、石を投げつける資格のある人間はいるのでしょうか。

 イエス様が、シモンに「この人を見ないのか」と言われたのは、自分もまた神の前に罪深い者である事を知り、「もっとこの人のことを分かろうとしてあげなさい」ということだったと思うのです。
罪赦された者
 イエス様は、シモンとはまったく違った目でこの女性を見ておられました。イエス様にとって、この女性は売春婦というよりも、神の救いに感謝をする人だったのです。

 イエス様がご覧になれば、売春婦だろうが、ファリサイ人であろうが、神様の前に負い目のある人間であることに変わりありません。もし、神様がその償いを要求されたならば、売春婦であろうが、ファリサイ人であろうが、ひとたまりもない人間に過ぎないのです。

 しかし、いと高き天の金貸しである神様は、その途方もない大胆さをもって二人の負債をゆるしてくださっている。その救いがあってこそ、このように生かされており、その中で悔い改めるチャンスも、イエス様に出会うチャンスも戴いているのです。そのことについては、この二人も、私たちも、まったく同じなのです。

 ところが、イエス様はシモンにこう言われました。

 「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」

 この違いは何を表しているのでしょうか。それはひとえに、自分の赦された罪の大きさを知っているかどうか、そこにかかっているのだということなのです。イエス様はこう言われます。

 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」という言葉は、シモンに向けられた言葉です。シモンは、正しい人間だから赦されることが少ないということではありません。あるいはシモンがより悪い人間だから赦されることが少ないという意味でもありません。シモンは自分を正しい人間だと思っていた。だから、神に赦しを求めることも少なく、赦されているという実感も小さいということなのです。その結果として、神の救いに対する感謝の大きさが違ってきてしまうのだということなのです。
生まれ変わる
 イエス様は、シモンにもこの罪赦された女性のようになって欲しかったのだと思います。それは自分の罪を深く自覚した人間になること、そらに神に赦されている感謝と喜びをもって、神様を愛する人間になることです。そして、それは同時に、人を裁いたり、レッテルを貼ったりしないで、人を分かろうとする人間になることでもあります。もっと言えば、人を赦す人間になれということです。

 それは難しいことです。けれども、もし私たちが本当に神様とも、隣人とも安らぎのある関係を持ちたいならば、自分が神に赦されていることを確信をもって信じなければなりません。そして、人を裁く気持ち、人にレッテルを貼る気持ちから解き放たれて、すべての人に対して分かろうとする優しい気持ちを持てるように祈り求めていくしか道はないのです。

 赦しがあればこそ、私たちは自分の弱さをそのままにして、神様の前に安らぐことができます。赦しがあればこそ、自分の弱さも、人の弱さもそのままに、互いに受け入れ合う安らぎを得ることができます。多く赦された者は、多く愛するのです。そして、私たちの喜びの生活、安らぎの生活は、愛の中にこそあるということを忘れないようにしたいものです。
目次

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