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今日は「罪深い女を赦す」というお話しです。先週の「ナインのやめもの息子のよりみがえり」もそうですが、今日のお話しも『ルカによる福音書』だけが記すイエス様の物語です。
ルカだけではなく、福音書にはその福音書だけが記しいているイエス様の物語や教えというものが幾つもあるのですが、そういう所にその福音書の特徴があらわれているということがあります。『ルカによる福音書』の場合、それは「愛」ということにあるのです。先週のお話しも、今日のお話しも、「愛」をテーマにしています。ルカの記す有名な「ザアカイの話」「良きサマリア人の譬え」「放蕩息子の譬え」も、やはり「愛」がテーマです。どの福音書も愛を語っていると言えば語っているのですが、ルカは、救いの外にいるような人間が、イエス様の愛によって神様のもとに強く招かれているのだという、そういう愛について力強く語っているのです。
ルカは十字架のイエス様を語るとき愛を強調します。ルカだけが記している十字架上のイエス様の言葉が二つあります。一つは、自分を十字架にかけた人々のために、イエス様が「父よ、彼らをおゆるしてください。自分が何をしているのか知らないのです」とお祈りをなさったことです。もう一つは、一緒に十字架につけられた強盗のひとりが、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と頼むと、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」とお答えくださったということです。イエス様の愛は、自分を殺す憎き相手をも、また本当に悪いことをして十字架にかけられる強盗ですらも、神様の愛の中に立ち返れることを信じ、強くそれを願う愛なのです。ルカは、そういう愛について、力強く語るのです。
そして、ルカはそれをとても美しく語ります。『ルカによる福音書』というのは、文学的にも、言語的にもたいへん美しい福音書で、頭をひねって読まなくとも、まるで絵画を見るような感じで、イエス様の愛が私たちの心に染み通ってくる、そのような福音書なのです。
今日のお話しもそうです。聖書を読むだけで、愛が心に満ちてくるのです。イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐった女性の愛、その愛を大きな心で受け止めてくださるイエス様の愛、そして、その愛をちっとも感じ取れないシモンですら、決して蚊帳の外に置かれず、イエス様の大きな愛の中に包まれています。イエス様が愛することができない人はだれもいないのです。 |
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さて、聖書に即してお話しをしてまいりたいと思います。まず、36節です。
「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」
イエス様は食事に招待されました。招いたのはファリサイ派のシモンという人です。ファリサイ派というのは、イエス様が手厳しい批判をなさったユダヤ教指導者たちの一派でした。その最大の特徴は律法主義にあります。律法というのは神の掟ですが、それをできるだけ忠実に守ることによって神様に喜ばれる人間になろうとするのが律法主義です。
神の掟を誰よりも一生懸命に守ろうとするのがなぜ悪いのでしょうか。それは律法主義というのは一種の得点主義であって、落ちこぼれを生むことになるからです。
売春婦、徴税人、目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、乞食、犯罪者、サマリア人、異邦人・・・・聖書にはこのような律法主義の目からみた落ちこぼれが登場してきます。彼らは苦しんでいました。しかし、ファリサイ派の人たちは、彼らに決して救いの手を差し伸べようとしなかったのです。それどころか彼らを「罪人」と蔑んで、彼らと話をしてはいけない、食事をしてはいけない、触れてもいけないと、彼らを心の傷口に塩をすり込むようなこともしていたのでした。
慈愛に富み給うイエス様が、ファリサイ派の人たちの偽善を厳しく追及なさったのはこの点についてでした。たとえばこんな言葉が、それをよく表していると思うのです。イエス様はファリサイ派の人たちにこう言われました。
「あなたたちはぶよ一匹さえも濾して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタイによる福音書23章24節)
「ぶよ一匹も濾して除く」というのは、彼らの律法の守り方を言っているのであって、それほど神経質に、どんな小さな律法違反でもゆるせないぴりぴりした気持ちをもって律法を守ろうとしているのがファリサイ人だということです。しかしその一方で、彼らは「らくだは飲み込んでいる」とイエス様は言われたのでした。「らくだ」というのは、ぶよ一匹のような小さな戒めではなく、大きな律法であります。それは何かというと、神様を愛し、人を愛することです。「神は愛なり」の精神です。ぶよ一匹のような律法の細々としたことには神経をとがらせていながら、らくだように大きな律法の精神を平気で飲み込んでしまっているのが、フィリサイ派だと言うわけです。 |
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このようにファリサイ派にはたいへん辛辣なイエス様でありましたが、招かれればイエス様は喜んで一緒に食事をなさいました。イエス様は、人からのもてなしを喜んで受けてくださる御方なのです。
それは、しばしば人々を驚かせるほどであったと、聖書に書かれています。たとえば徴税人マタイに招かれて一緒に食事をしていると、ファリサイ派の人たちは非常に驚いて、弟子たちに「あなたの先生はあんな連中と一緒に食事をするのか」と言ったと書かれています。それから、ザアカイの家でもてなしを受けたとき、群衆は「あの人は、あんな罪深い男の家に宿をとるのか」とイエス様にがっかりしたと書かれています。それから、天刑病として恐れられていた重い皮膚病の人の家でも一緒に食事をいたしました。そして、ファリサイ派のシモンとも一緒に食事をなさるのです。
それだけではありません。そこに、もうひとりイエス様にささげものをもってきた女性が現れます。37-38節を読んでみましょう。
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」
ルカが美しい言葉で書いているこの女性のイエス様への愛については、わたしがあれこれと言うのを控えたいと思います。ただ一言申し添えたいのは、イエス様はこの女性のすることを、つまりイエス様への愛と尊敬を黙って全面的に受け入れてくださっていたということであります。すべてを受け入れてくださる、ここにイエス様の大きな愛がありました。 |
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愛の業というのは、与えることも大事なことですが、受け取ることも大事な業です。確かに、与えることは大事なことです。優しさを与える、希望を与える、勇気を与える、忠告を与える、支えを与える、お金を与える、衣服を与える、自分の時間や心を人のために費やす、そのように人に与えるということなしに人の友となったり、兄弟姉妹になることは不可能だと思います。「受けるより与える方が幸いである」という聖書の言葉もあるように、与えるということが愛の基本であることは間違いありません。
しかし、同じように、人から受け取るということもなければ、やはり人の友になったり、兄弟姉妹になることはできないのです。喜んで受けることも大切な愛の心なのです。
キリスト教の話ではなく恐縮なのですが、仏教には托鉢という修行があります。托鉢というのは、出家したお坊さんが鉢をもって人々から食べ物をもらう(供養)わけですが、人に与えることではなく、人から受けることによって、人を救うことができるのだというユニークな考え方がそこにあるというのです。
この托鉢の修行に長けた迦葉(かしょう)というお釈迦様の高弟がいます。彼は、わざわざ極貧の人ばかりを選んで托鉢をしたと言うのです。それは実に大変なことでありまして、金持ちから食べ物を恵んでもらえばよい物が食べられますが、貧しい人の場合はそうはいけません。不衛生なものもあるでしょうし、得体の知れないものもあったに違いありません。しかし、迦葉は供養された食べ物はどんなものでも有り難く食べたと言われています。
そして、貧しい中からたとえどんなもので供養してくれた人に対して、「あなたはもう貧しくないのだ。どんな金持ちでも慈悲の心も持たず、お布施の心も持たない人間こそ極貧の人間えであり、どんなに貧しくても供養する心をもっている人は法衣をまとった聖人なのだ」と説いてまわったというのです。
クリスチャンであっても考えさせられる話しではないでしょうか。私たちも、しばしば与えることよりも、受けることも難しさを感じることがあるのです。お坊さんでも迦葉意外の人は、あんまり酷いもの、得体の知れないものは食べたくないものですから、やはり貧しい人は金持ちを選んで托鉢してまわっていたと言われます。そういう托鉢なら誰にでもできるのです。誰だって自分の欲しいものであれば喜んで受け取ります。しかし、自分の気持ちにそぐわないもの、役に立たない贈り物、言葉足らずの励まし、見当違いの親切、そういう貧しい贈り物というのは、なかなか喜んで受け取るということが難しいのです。
しかし、それも愛があればできるのです。たとえば皆さんもお子さんやお孫さんから稚拙な手紙や落書きみたいな絵をもらったり、あまり役に立たないお手伝いをしてもらって、それを心から「ありがとう」と受け取ったことがおありだと思います。そのような貧しい、欠けの多い贈り物をも喜んで受け取ることができる、それが愛の心ではないでしょうか。その受け取る愛が、実は子どもたちに「ぼくも、わたしも、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんを喜ばせることが出来るんだ」という自信や、希望を与えることになるのです。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がこんなことを言っています。「どんな貧しい人でも、何も人に与えることができないほど貧しい人はいない。どんな富んでいる人でも、何も人から受け取らないでもよいほど富んでいる人はいない」 大切なお話しだと思います。
先週も、教会というのは、喜んでいる人と悲しんでいる人がいるところだというお話しをいたしましたが、言い方を変えれば霊的に、あるいは物質的に豊かな人と貧しい人がいるのです。それが互いに愛し合うというのは、豊かな人が貧しい人に与えるだけ、貧しい人が豊かな人から受け取るだけのことではないのです。そこには豊かな人と貧しい人が一つになるという本当の交わりがありません。与える人も豊かに受け取る人になり、受ける人も豊かに与える人になってこそ、互いに友となり、兄弟姉妹となる交わりが生まれるのではないでしょうか。
荒川教会はそういう教会でありたいと願います。そのためには私たちがお互いに謙遜になって、「どんな貧しい人でも、何も人に与えることができないほど貧しい人はいない。どんな富んでいる人でも、何も人から受け取らないでもよいほど富んでいる人はいない」という気持ちを持つことが大事だと思うのです。 |
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イエス様と私たちの交わりもそうです。イエス様は私たちに豊かに与えてくださる御方です。しかし、もしもイエス様が、私たちの愛や感謝や奉仕を何一つ受け取ってくださらない御方であったらどうでしょうか。ファリサイ派の人間は自分と意見が違うからといって食事の招待を断り、女性の愛の献げ物を、わたしには必要とないと言って拒絶なさったらどうでしょうか。どんなにイエス様が豊かに与えてくださる御方であっても、イエス様と共にいるという喜びを感じることはできないのではないでしょうか。
旧約聖書にカインとアベルの話があります。二人は一緒に神様を礼拝しました。カインは土の実り(穀物)をもって神様を礼拝し、アベルは羊の初子をもって神様を礼拝したのです。ところが、神様はアベルの献げ物を顧みて、カインの献げ物には目を留められなかったとあります。神様の御心がどこにあったのか、そのことは今日は触れないで置いておきたいと思います。ただ、献げ物を受け入れてもらえなかったカインの気持ちは分かるのです。もし、イエス様が私たちの愛や献げ物を受けてくださらなかったら、私たちもカインのようにイエス様に顔を伏せてしまい、罪の力に負けてしまうかもしないと思うのです。
しかし、ご安心ください。イエス様は、シモンと一緒に食事をなさり、罪深い女の愛と尊敬を喜んで受けてくださる優しいお方であったのです。イエス様がそういう貧しいもてなしを、貧しい愛を、必ず喜んで受けてくださる御方だからこそ、私たちは自分の至らなさを百も承知した上で、イエス様に近づき、イエス様にわたしの愛を、感謝をお捧げすることができるのです。
たとえ下手くそであってもイエス様への賛美を大きな声で歌うことができますし、たとえ舌足らずであっても心を込めて感謝をお祈りすることができますし、貧しい奉仕であってもイエス様が喜んでくださると信じてお仕えすることができるのです。イエス様が受けてくださるから、私たちはお捧げすることができます。そこにイエス様と私たちの本当に近しい交わりが与えられ、イエス様と共に生きているという幸せがあります。その感謝をもって、この一週間もイエス様と共に歩み、イエス様に私たちを捧げてお仕えしていきたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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