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今日は「ナインのやもめの息子の甦り」というお話しです。これは数あるイエス様の愛の物語の中でも、特にイエス様の優しさが、無条件の愛が際立っている、心慰められるお話しといえましょう。悲しんでいるすべての人たちに対する慰めの物語です。
「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。」
ナインという町は聖書の中でここだけに出てくる町の名前です。それはイエス様がお育ちになったナザレから10キロほど離れたところにありました。今もある町ですが、寂れた村となっているようです。しかし、当時はそれなりに人口もあり、ちゃんと門があるような整った町だったようです。
「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。」
弟子たちだけではなく「大勢の群衆も一緒であった」と書いてありまいす。弟子たちにしろ、群衆にしろ、主の恵みに依り頼んでいるという点においてはまったく同じことだと思います。しかし、大きな違いもあるのです。
まずイエス様についていった目的が違いました。弟子たちは、イエス様のために何かをしたいと願いをもってイエス様についていきました。群衆は、自分のためにイエス様に何かをしていただきたいと願いをもってイエス様についていったのです。だから、弟子たちはいいけれども、群衆は駄目だという意味ではありません。イエス様についていった人々には、その両方いたという事が大事だと思うのです。どちらも主に招かれていたのです。
教会も同じです。教会に来る人たちは、みんなイエス様の祝福を求めてくるわけです。しかし、その中には神を愛する者になりたいという人もいれば、神に愛されたいと願ってくる人もいます。仕える人間になろうとする人もいれば、助けて欲しいと願ってくる人間もいます。
これは、誰がどっちであるとか、自分はどっちだと、はっきりと区別することではないかもしれません。同じ人が、ある時は仕える者であり、ある時には仕えられる人であるということもあるのです。ただ、教会というのはいつも喜んでいる人と悲しんでいる人がいて、そのどちらもイエス様に招かれて教会に来ているのだという事を忘れてはならないのです。
そのことを忘れますと、喜んでいる人は悲しんでいる人を見て「弱い人間だ」とがっかりする気持ちになってしまうかもしれません。悲しんでいる人は喜んでいる人を見て「自分はやっぱり駄目だ」と救いのない気持ちになってしまうかもしれません。そういうことにならないように、どちらも主に招かれて教会にいるのだということを忘れてはならないのです。
聖書の教えには、「喜んでいる者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という教えがあります。喜ぶ人と悲しむ人、仕える人と仕えられる人、愛する人と愛される人が、一緒になって救い主であるイエス様を崇める教会であることを、イエス様は願っておられると思うのです。荒川教会は、そういう教会でありたいと願います。 |
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次にこう書いてあります。
「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」
私もたびたび葬儀に関わってきました。夫や妻を失った悲しみ、親を失った子どもの悲しみ、子を失った親の悲しみ、どれも本当に深い悲しみです。人の死は世の常と知りながらも、決してそんなことで悲しみが和らいだり、諦めがついたりするものではありません。いつでも、それはあってはならない特別な悲しみの日に思えるのです。
しかし、今日の話は特に涙を誘うものがあります。亡くなったのはやもめのひとり息子でありました。彼はまだ若者でありました。ということは母親の年齢も30代か40代であり、まだ若い女性であったということです。しかし、彼女は先に夫を亡くし、次いで頼りにしていたひとり息子までも亡くしてしまったのです。胸が張り裂けるような悲しみに、彼女はどれほど泣き叫んでいたことでありましょう。
なぜそんなに悲しむのかと、問うことは愚かなことだと思います。ひとり息子を失った人に、何がそんなに悲しいのかと問う人はいないと思うのです。しかし、敢えて問うてみたいと思います。人はなぜ愛する人を失うと、途方に暮れ、絶望的な悲しみを経験するのでしょうか。私はそこに大切なことがあると思うのです。それは、愛する人を失うということは自分を失うということであり、逆に愛する人を見いだすということは自分を見いだすということだということです。
創世記にアダムとエバの話があります。神様は土をこねて人間を造り、ご自分の息(それは霊という意味でもあります)を吹き入れて、命ある人間とされました。この人が最初の人アダムです。
アダムはエデンの園に住み、そこで何不自由ない暮らしをしていました。しかし、心に大きな穴が開いているような空しさ、寂しさをぬぐえないでいるのです。それをご覧になった神様は、「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」とお考えになり、アダムが深く眠っている隙にあばら骨の一部を抜き取り、それでエバをお造りになりました。
やがてアダムは目を覚まし、エバが立っているを見ます。そして、喜びに溢れ、「ついにこれこそ私の骨の骨、肉の肉」と歓喜の声をあげたというのです。
自分自身のように愛する相手を見つけたとき、自分探しの旅は終わりを告げます。そこで人は本当に生きる喜び、生きる意味、生きる目的を見いだして、満ち足りた人間になることができるのです。だからこそ、逆に愛する人を失うということは人間にとってこの上ない悲しみであり、苦しみとなります。それはようやく見つけた生きる喜びを失い、生きる意味を失い、生きる目的をなくしてしまうことだからです。
私たちが愛する人を失う経験をするのは、死んでしまった時だけではないでしょう。人から裏切られた時があります。相手が悪くなくても、自分が人を愛することのできない人間になってしまうということもあります。そのような愛する人を失った悲しみというのは、生きる力を失うような悲しみでありますけれども、愛する人を再び見いだすことによって慰められ、再び生きる者とされるのです。
ちょっと飛ばしますけれども、15節の後半をご覧ください。
「イエスは息子をその母親にお返しになった」
単に死んでいた人が生き返って「めでたし、めでたし」というお話しではないのです。死に別れたにしろ、裏切られたしろ、自分の中の愛が冷えてしまったということにしろ、一度愛する人を失った人が、もう一度、新しい愛をもってその人を愛せるようになるというのは、奇跡的な事なのです。その奇跡が、主の憐れみによってこの母親の身に起こった、それが今日のお話しなのです。 |
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その主の憐れみについて書かれているのが、13節です。
「主はこの母親をみて、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた」
イエス様は、たまたまこの母親の葬列に出くわしたのでありました。人の死は、その家族にとってはどんなに特別なことであっても、社会的にみるならば日常的なことでもあります。歩いていて、葬列に出くわすということは、決して珍しいことではなかったと思うのです。
私たちもまた霊柩車や救急車を日常的に見ています。そこには一つの家族の大きな危機があるのだということがちらっと脳裏をかすめることがありますが、あまりにもありふれた光景になってしまって、無感動に見送ってしまうのが普通ではないでしょうか。
しかし、イエス様はそんな私たちのように人の悲しみに無感動のお方ではありませんでした。この葬列の中で大声で泣き叫んでいる婦人をご覧になって、憐れに思ったというのです。
この「憐れに思った」という言葉は、たいへん強い意味をもった言葉が使われていまして、ギリシャ語では「はらわたが痛くなるような思い」という意味があります。気の毒に思ったという程度の言葉ではなくて、この婦人の悲しみを全身で受け止められた、そして激しい感情が湧き上がり、イエス様ご自身がそれに耐えられないような激しい苦痛にも似た憐れみの情に襲われたということです。
世の中では、よく「平常心が大切だ」と言われることがあります。身の回りに起こった出来事にいちいち悲しんでいたり、怒ったり、憂いたり反応していては、感情に振り回される弱い人間になってしまうというからです。
では、平常心を保つためにはどうしたらいいかと言いますと、心にバリアを持てばいいのです。たとえば人から何を言われても、カボチャが言っていると思えばあまり腹も立ちません。初めから人を信じていなければ、人に裏切られたときも、悲しみを小さくても済みます。自分が重い病気になっても、日頃から生きることに執着していなければショックも少なくて済むのです。固執しない、執着しない、感情移入しない、人を信じない、そういう心のバリアをもっていれば、どんなことがあっても影響されない強い人間になるだろうとは思うのです。
けれども、それでは人の悲しみや苦しみに分かち合って一緒に泣いたり、笑ったりする人間にはなれません。それならということで、心のバリアを取り除いてしまうと人の言葉や感情によって自分がかき回され、傷つけられたり、弄ばれてしまう。だから、よい人間関係というのは本当に難しいと思うのですね。
ところがイエス様はそういうことを一切お構いなしに、心のバリアを取り払って、私たちの悩み、悲しみ、不安、恐れ、怒り、恨み、不平不満、そういったドロドロとした感情を全身で受け止めてくださったのです。そして、私たちの痛みをご自分の痛みとしてくださり、深い憐れみの情を催してくださるお方なのです。
ナインのやもめに対してだけではなく、イエス様はいつでもそのようなお方でした。たくさんそれを示す箇所が聖書にあるのですが、一つだけご紹介しましょう。マタイ9章35-36節です。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
このイエス様の優しさによって、私たちはどんな悲しみの中にありまして、イエス様が共にいてくださるという救いを得ることができるのです。そして、そのイエス様と一緒ならば、私たちもまた、心のバリアを取り払って人の真の隣人になることができる、つまり「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という本当に命を分かち合う交わりを持つことができるようになるのだと信じるのです。
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14-15節を読んでみましょう。
「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」
イエス様は、ナインのやもめに「もう泣かなくてもいいよ」と言ってくださいました。それだけではなく、棺に近寄られ、手を触れ、中にいる死者に向かって「若者よ、起きなさい」と呼びかけられると、死者は生き返り、起き出し、物を言い始めたというのでした。
驚くべき奇跡がここに起こっています。私はこういう奇跡を信じます。しかし、お祈りをすればどんな死者も生き返らせてくださるのかというと、それも違うとは思うのです。生き返っても、何年か後にまた必ず死ぬことは分かっています。その死が永遠の滅びであったら、生きると言うことに何の喜びも救いもありません。本当の救い、慰めは、死んだ人が永遠の命に生き返るということだと私は思うのです。
イエス様の死に対する真の勝利は、イエス様ご自身の復活にあるのです。イエス様はナインのやもめの悲しみを全身で受け取られたように、私たちのすべて罪を全身で受け止めてくださり、それをご自分のものとされて十字架にかかってくださいました。そして、黄泉まで下り、死の力に勝利して、永遠の命を獲得してくださいました。イエス様の復活は、私たちの復活の約束でもあります。イエス様を信じる者は、永遠の命を持つのです。 |
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最後に16-17節を読んでみましょう。
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
ナインのやもめの蘇りは、復活の希望を象徴する奇跡でした。それを見た人々の間は「神様はその民を心にかけてくださった」と神様の恵み深さを賛美したというのです。
私は今回、聖書を学びながらあることに気づかされました。イエス様はご生涯において、三人の人たちを死から甦らせてくださっています。ヤイロの娘と、ナインのやもめの息子と、ラザロであります。
ヤイロの娘は死んで床に寝ておりました。ナインのやもめの息子は棺の中に納められていました。ラザロは墓の中におさめられていました。イエス様は死んでまだ床に寝かされているヤイロの娘に「少女、起きなさい」と言って、甦られせてくださいました。ナインのやもめのひとり息子は死んで棺に納められているところを、イエス様に甦られせていただきました。それから、ベタニア村のラザロは墓に葬られて四日もたっており、匂いもきつくなっていました。しかし、みんなイエス様に呼び出され、甦らせていただいたというのです。
床に寝ている者、棺に納められている者、墓の中に葬られ異臭をはなっている者、みな同じ死者でありますけれども、時間が経てば経つほど絶望の度合いが深くなっていくような気がします。
私たちの霊的な死についても同じで、同じ絶望感でもその感じ方の度合いが違うということがあるのです。自分は床に寝ていて起きあがれないと絶望している人もいれば、自分はもう棺に納められて死の道を辿っているのだと絶望している人もいれば、自分はもう墓の中に葬られてしまった人間で異臭さえ放っているのだと絶望している人間もいるのです。
しかし、イエス様は床に寝ている者であれ、棺に納められている者であれ、はたまた墓に葬られ異臭を放っている者であれ、いずれの場合も、同じように私たちを死の中から救い出し、命を与えることができるお方だということを、これらの蘇りの奇跡は物語っているのではないでしょうか。
そのことを思うとき、私はイエス様が絶望する母親に「もう泣かなくても良い」と言ってくださった慰めの深さということを改めて感じるのです。イエス様は私たちの絶望がどんなに深くても、「もう泣かなくても良い」と私たちを慰めてくださるお方であるということなのです。
「もう泣かなくても良い」、このイエス様のお言葉をこの一週間の私たちの慰めとし、希望として歩んで参りたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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