百人隊長の僕の癒し
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書 8章5-13節
旧約聖書 詩編 25編12-14節
御許に近づく百人隊長
 今朝は「百人隊長の僕の癒し」というお話しです。お話しに出てくる「百人隊長」というのは、ローマ軍の歩兵100人を指揮する下士官でした。当時、ローマの支配下にありましたイスラエルには、駐留軍があちらこちらにおりました。今日のお話しがあったカファルナウムも、そういうローマ軍の駐留地の一つで、その中の軍人の一人がこの百人隊長だったのです。

 彼は、イエス様がカファルナウムに来られたということを聞くと、一つの願いをもってイエス様のもとを訪ねてきました。そして、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。どうか、彼を救ってください」と、懇願したのです。
百人隊長の優しさ
 先ず、私はこの百人隊長の優しさに心を惹かれます。優しさというのは「優」=「憂う人」と書くように、人のために心を悩ませることを言うのです。他人(ひと)の苦しみを自分のことのように考え、一緒に悩みを分かつことが、優しさです。

 人間というのは、自分のことだけでもたくさん悩んだり、憂いたりすることを持っています。その上、他人(ひと)の心配までするわけですから、この百人隊長はよほど心の大きな、豊かな人だったんだろうなと思うのです。

 実際、「優しい」という字には「豊か」とか、「大きい」という意味もあるんですね。人間の豊かさとか大きさというのは、決して金持ちになったり有名になったりすることではなく、人に自分を与えることができる優しさを持つということなのではないでしょうか。 
百人隊長の謙遜さ
 この百人隊長は、優しさだけではなく謙遜さな人でもありました。自分の「僕」のために、わざわざ出かけていってイエス様に頭を下げ、どうか彼を助けてやってくださいとお願いをしているのです。イエス様の教えに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26-27)とありますが、この百人隊長はまさにそういう人だったのです。

 「僕」というのは、はっきり言えば奴隷のことです。そして、これは奴隷は人間の姿をした道具であるとしか見なされなかった時代の話なのです。道具であるという事は役に立たなくなれば使い物にならないものとして捨てられてしまうということです。当時の奴隷はそういうモノとして扱われていました。

 しかし、そういう酷い時代にあって、この百人隊長は奴隷に過ぎない僕を一人の尊い人間として見なし、自らはへりくだって僕の友人になることができた、本当に見上げた人だったと思うのです。

 今の時代は奴隷こそいませんけれども、考えようによってはみな奴隷のようなもので、役に立つか立たないかという事がすべてと考えられる世の中ではないかと思います。ある人が、「人生というのは大きなスコアボードのようなもので、そこに批評家たちがそこに点をつけていく」と言っていました。その点数が、自分の価値を決めるのだというのです。

 自分の価値を上げるためには、世の批評家たちが認めるような成果をあげなければなりません。どれだけ役に立ったか、どれだけ愛されているか、どれだけ尊敬されているか、その点数が高ければ高いほど、自分は世になくてはならない重要人物だということになるのです。逆に、批評家たちが認めるような成果が上げられなければ、自分は世の中に必要のない生きている値打ちのない人間だということになってしまうのです。

 そうなのでしょうか。自分の価値というのは世の批評家たちによって決められるものなのでしょうか。それは大きな間違いです。こういう間違った信念をもっていますと、家族も、同僚も、ご近所も、教会も、みんな自分に点数をつける恐い批評家にみえてきてしまいます。これは本当に悲劇です。

 親に気に入られなければというプレッシャーをいつも感じている子供をみなさんはどう思うのでしょうか。役に立つかどうかでしかお互いの価値を見いださない仕事の仲間はどうでしょうか。あるいは、お互いに監視しあって暮らすご近所はどうでしょうか。互いに裁きあう教会の兄弟姉妹はどうでしょうか。それは本当に大きな悲劇だと思われませんか。そこでは、人間をお互いに喜びや悲しみを分かち合う友として見ることができなくなってしまいます。

 教会も含めて多くの人たちが、この悲劇の犠牲となっているのです。表面上はどうであれ、内面においては互いに理解し合うよりも裁きあったり、必要としあうよりも重荷に感じあったり、信じ合うよりも疑いあったり、本当に良い友、兄弟姉妹となりあうことができないのです。そのことによって自分がまったく価値のない人間だと思いこんだり、逆に自分はもっと評価されるべきだと思い上がったりしてしまうのです。とても残念なことです。

 しかし、これはどちらが悪いということではありません。悪いのは、人の評価によって自分の価値が決められるという考えです。役に立つか立たないか、そういうことで自分や人の価値を決めてしまう考え方なのです。

 もし百人隊長がこういう考え方の持ち主であったならば、病気の奴隷のまことの友になることはなかったでありましょう。病気の奴隷など最も存在価値のないものとしか言えないからです。しかし、この百人隊長はそういう考え方をしませんでした。彼は百人隊長も奴隷も本当の友情を持つことができると思いました。人間の価値というのは、身分がどうであるとか、どれだの仕事ができるかとか、財産をどれだけもっているかとか、そういうこととはまったく関係ないのだとということ分かっておりました。神様がお造りになった人間に、価値のないものなど一人もいないのだということもちゃんと分かっていたのです。

 だから、この奴隷が病気になって苦しんでいるときに、彼は「なんとか助けてやらなくては」と思うわけです。百人隊長にとってこの奴隷は、仕事上では主人と奴隷という立場の違う関係でしたが、人間としては互いに命を分かち合う友人だったということなのです。

 この謙遜さが、彼の優しさであり、またこれからお話ししますが、彼の信仰の源になっていたのではないかと思うのであります。
権威の下に生きる百人隊長
 さて、イエス様は、この百人隊長が病気の奴隷のことで本当に心を苦しめて「どうぞ、私の僕を助けてやってください」と頭を下げるのを見て、「わたしがいって癒してあげよう」と仰ってくださいます。ところが、百人隊長は「いいえ、それには及びません」と、まったく意外なことを言うのです。8-9節を読んでみましょう。

 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 この言葉を聞いて、私はさらにこの百人隊長というのは部下思いの人だったんだなあという思いを深くするのです。この人は、部下が自分の命令に従って動くのは決して当たり前のことでもなく、自分が偉いからでもなく、部下の忠誠心の結果なんだということが分かっているのです。つまり、自分ではなく、忠誠心をもっている部下の方が偉いのだ、これが百人隊長の考え方です。

 そのことは「わたしも権威の下にある人間です」と言う言葉によく表れているのではないでしょうか。「私も人の上に立つ人間です」と言ってもおかしくない場面なのです。しかし、それでは意味が全然違ってきてしまいます。百人隊長がいいたいことは、権威を用いる力があることを素晴らしいということではなく、権威に服従する忠誠心こそ素晴らしい、だから私もそういう忠誠心を持ちたいのだということなのです。
もう一つの権威
 ここで言われている「権威」とは、ローマ皇帝を頂点とするこの世の権威です。百人隊長は、その権威のもとに生きています。しかし、この言葉に表れているもう一つ大事なことは、それとは違う権威があることをイエス様のうちに見ているということです。

 彼は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と、イエス様に言いました。これはどういう意味でしょうか。

 この世の権威からすれば、ローマの軍人である百人隊長の方が、一人のユダヤ人に過ぎないイエス様よりも上なのです。しかし、百人隊長は、イエス様はローマ皇帝の権威の下におられるお方ではない、別の権威の下に生きておられるということを感じているからなのです。

 自分はローマ帝国の権威の下に生きている人間だが、イエス様は神の国の権威に生きているお方である、神の国の権威のもとではユダヤ人ですらない自分などはイエス様を屋根の下にお迎えできるような人間ではないのだということを、この百人隊長は認めているからなのです。

 「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」

 百人隊長はこのように言いました。自分をイエス様の下に置き、イエス様の方が自分よりも権威の上にいらっしゃるのだと言っているわけです。そして、あなたの権威のもとに生きる忠実な僕となりますから、どうぞ僕の願いを聞き、僕に命じてくださいというわけです。

 私たちもこの世の権威のもとに身を置く人間ではありますが、この百人隊長のように、もう一つの権威、力、支配がイエス様のもとにあることを信じ、そしてイエス様のもとには世にはなき救い、世にはなき恵みの支配があるのだと信じて、その中に飛び込んでいくこと、それが信仰なのです。
瓢箪から駒
 これを聞いたイエス様は非常に感心をされて、ある種の驚きをもって、従っていた人たちにこう言ったというのです。10-12節

「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 イエス様もびっくりするような信仰を、この百人隊長はもっていたということなのです。

 しかし、それは必ずしも百人隊長の信仰が特別に素晴らしかったという意味ではないかもしれません。つまり瓢箪から駒が出た驚きもあると思うのです。神の国から遠いとされていた異邦人の百人隊長から、そういうまったく期待していないところから、このような信仰が飛び出すから、驚かれたとも読めるわけです。それと同時に、「御国の子らは外の暗闇に追い出される」という言葉がありますように、イエス様はあるべきところに信仰がないということをも嘆かれているわけです。

 もっとも救いから遠いと思われるところから、まことの信仰が飛び出してくるということですが、ある人が「信仰とは死に瀕した人の反作用である」と言いました。どういうことかと言いますと、「窮鼠、ネコを噛む」という言葉がありますように、追いつめられて、もう後には死があるのみというせっぱ詰まった時に、人間は自分を顧みない非常に思い切った行動に出ることがあるのです。

 信仰とは、イエス様の恵みのご支配、救いのご支配を信じて、その中に飛び込んでいくことだと言ったわけですが、その思いっきりというものが人間にはなかなか難しいのです。その思いっきりというのは、絶望とか、せっぱ詰まった時の反作用として現れるのだというのです。

 百人隊長もきっとそうだったのでありまして、彼は異邦人でありました。「異邦人」というのは単に外国人という意味で使われることもありますが、聖書の中ではそれとは違った特別な意味をもっています。それはユダヤ人ではない、御国の子らではない、救いの外にいる人たちという意味なのです。しかし、たとえ異邦人だと言われましても、神様が必要なことは同じなのです。それは、私たちが自分には救われる資格がないと思っていても、やはり神様に救っていただきたい、そうでなければどうにもならないと思っているのと同じです。

 この「自分は救いから遠い人間である」という思いが、逆に百人隊長のこういう思い切った信仰を生むことになったのではないでしょうか。自分は当然救われる人間だと思っている人には絶対に出てこないような信仰の大胆さ、熱心さ、真剣さを生み出したのだと思うのです。
謙遜が信仰のみなもと
 こういう信仰は、まことの謙遜から出てくるものであって、卑屈さからでてくるものではありません。日本には謙譲の美徳という概念があります。

 これについて、日本や海外で活躍なっている牧師さんが面白いことを言っていました。日本で講演をするときには、「お忙しい中、私のような若輩者をお招きくださり、ありがとうございます」と初めの挨拶をするのだそうです。しかし、もしアメリカで同じ挨拶をしたら、聴衆は不快感を持つのだそうです。ですから、アメリカで講演をするときは、「今日は、このように素晴らしい聴衆をお迎えできた私にとっても、また最高の講演者を迎えた皆様にとっても忘れ得ない最良の日となるでしょう」と挨拶をするのだそうです。もし、日本でこのような挨拶をしたら傲慢だと思われてしまうに違いありません。私も日本人ですから、日本式のへりくだった挨拶の方がしっくりくるのです。

 しかし時として、日本人は謙譲の美徳が転じて卑屈さになってしまう時があるのではないかと思うことがあるのです。たとえば贈り物や親切に対しても、「ありがとう」と喜びを表す前に、「申し訳ない」と言って謝ってしまうのですね。この位ならまだいいのです。何か仕事をする場合でも、チャレンジしてみようとか、信頼に応えようと思う前に、「わたしのような者にはできません」とか「もっと良い人がいるのではないか」と非常に消極的になってしまうわけです。

 こういう卑屈さからは、信仰は生まれません。卑屈さというのもあまり度が過ぎますと、傲慢さになってしまうことがあるのです。たとえば、モーセが神様の召命を受けたとがそうでした。モーセは神様の召しに対して頑なに「どうぞ他の人をお遣わしください」と断り続けます。自分にはできない、自分は何者でもない、だいだい自分は口が重くて話すのが苦手なのだ、神様の大切な言葉を人に伝えるなんてまったく自信がない、もっとふさわしい人がいるはずだ・・・神様は、このようなモーセに対して怒りを発して、つべこべ言わずに私に従いなさいと言われたというのです。

 神様の言い分は、「私があなたを作ったのだから、あなたが何者で、何ができて、何ができないかなどはすべて知っている。あなたにその重い口を与えたのも私だ。その私が、すべてを承知であなたに命じているのだ」ということでした。つまり、あまり卑屈になり過ぎますと、私たちは神様に自己主張をすることになってしまったり、自分を造ってくださった神様の業を否んでしまうことになる、そういう卑屈さの裏返しにある傲慢さに陥ってしまうわけです。

 讃美歌の11番に、「おごらず、てらわず、へりくだりて、わが主のみくらとならせたまえ」という賛美がありますけれども、このような祈りをもって、神様が作られた自分を、あるがままに素直に受け入れることが真の謙遜さに通じていくのではないでしょうか。その自分の中には見劣りのする部分もあると思います。しかし、それもまた何か神様の御心があって自分がそのように造られたのだと前向きに受け入れて、この身を通して神様の栄光が現れますようにと自分をお捧げしていくこと、それが謙遜さなのです。

 そのような謙遜さと前向きさをもって、イエス様に近づき、イエス様の恵みの中に飛び込む思い切った信仰をもちたいものです。
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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