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今日はイエス様のご生涯のお話しから「山上の説教」について四回目のお話しです。今日はまず、山上の説教を聞き終わった人々の反応ということから話をはじめたいと思います。7章の最後にこう書いてありました。
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
この説教をイエス様から聴いた人々は皆、非常に驚いた、そこに神様のごとき権威を感じたということが言われてます。イエス様は「わたしを見た者は、神を見たのである」と仰ったことがありますけれども、まさにイエス様のお言葉を聞いた人たちはイエス様を通して生ける神に出会った、そういう素晴らしい経験をしたのだということでありましょう。
しかしみなさん、ここで忘れてはならないのは、神様に出会うというのは素晴らしい恵みの体験であると同時に、畏れに満ちた体験であるということです。神様に出会うというのは、自分が神様の前に立たされるということだからです。
モーセは燃える柴の中から神様の声を聞いたとき、神様を見ることを恐れて顔を覆ったと言われています。預言者イザヤも神殿で神を見る体験をしたとき、「ああ、私は災いだ。わたしは滅ぼされるに違いない。私は汚れた者なのに万軍の主を仰ぎ見てしまった」と嘆きました。主の弟子であるペトロは、始めてイエス様のなさる神の御業を目の当たりにしたとき、恐れおののいて「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と言いました。パウロも、はじめて生ける主にであったとき、三日間食べることも飲むこともできなかったと言われています。
神様の前に立たされて平然としていられる人間など一人もいないのです。必ずうち砕かれ、自分が如何に取るに足らぬ無きに等しい人間であるかということを知ることになるでしょう。
世の中には、正義を振りかざしたり、自分の正しさを主張してやまない人たちがいます。自分の成し遂げた仕事の大きさや、受けた名声を誇りにしている人がいます。どんなに正しい人間も、どんなに力ある人間も、どんなに名のある人間も、もし本当に神様の前に立たされるならば、自分の正しさや力や名声、もっといえば信仰すらも塵芥のように何の意味も持たないのだという気持ちにさせられるに違いありません。それが神に出会った人間だけが知る真理なのです。
旧約聖書にヨブという人の話が出てきます。ヨブは信仰深く、正しい人であったにもかかわらず、神様の御手によって多くの苦しみを受けました。財産を失い、子どもたちを亡くしました。さらに足の裏から頭のてっぺんまで膿の出る出来物に覆われ、かゆみと痛みに苦しんだのです。
さらにヨブは、自分の信仰や正しさを理解してくれる人が誰もいないということに苦しみます。奥さんは「あなたはこんな苦しみに会いながら、まだ神様を崇めているのですか。神を呪って死んだほうがましでしょう」と言いますし、見舞いに来た友人たちも口をそろえて、「それはお前の罪のせいだ。神様に謝って、悔い改めて赦してもらいなさい」と言って苦しめます。ヨブは、神様なら自分の正しさや信仰を分かっていてくださるはずだと思います。しかし、神様はヨブがどんなに私を弁護してくださいと祈っても、何も答えてくださらないのです。
次第にヨブは、神様に対して激しく訴えるようになります。「どうして、私がこんな目に遭わなければならないのか。他に、もっと苦しみを受けるべき人がいるではないか。あなたは本当に正しいことをしているのか。なぜ、私に答えてくださらないのか」ヨブは必死に神様に説明を求めたのでした。
ずっと沈黙をまもっておられた神様は、最後にヨブにお答えになります。しかし、嵐の中にとどろく神様のみ声を聴いたヨブは、それだけですべての言葉を退けて、神様の前にひれ伏してしまうのです。「自分がおろかでした。今までのことは全部撤回します。あなたは本当に偉大な神です。二度とあなたに向かって説明してくれなどとは申しません。どうぞ、私をゆるしてください。」というわけです。
主の弟子トマスもそうです。彼は「私はイエス様の釘後に自分の指を入れてみない限り、決して復活など信じない」と言い張っていました。しかし、いざ復活のイエス様がトマスに現れて、手を差し出し、「さあ、あなたの指を私の釘跡にいれなさい」というと、トマスはとてもそんなことができないで、ただただ恐れおののいて、「わが主、わが神よ」とひれ伏したのでした。
ヨブのように信仰深く正しい人間であっても、神様の前に立つと自分の傲慢を悟らざるを得ない、それほど神様は、偉大であり、恐れ多いお方なのです。それが神様に出会うという体験です。しかし、不信仰の虜となっていたトマスに、イエス様が出会ってくださり、「あなたの指を私の釘跡に入れてみなさい」と仰ってくださったように、その偉大なる神様が、自分のような無きに等しい人間に、本当に恵み深く、愛にみちたお方として自分の前にいてくださる、そういう体験でもあるのです。
ダビデは詩編の中で「人間は何者なのでしょう。人の子は何もなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」と言ってみますが、これが神様に出会った人すべてに共通する思いではないでしょうか。
イエス様の山上の説教を聞いた人々も、神様のご臨在に触れ、自分が本当に塵芥に過ぎないと感じるまでにうち砕かれたと思うのです。しかし、同時に、この塵芥に等しい人間に、「あなたがたは幸いである」と祝福してくださる神様、懇切丁寧に生きる道を説いてくださる神様、そして「求めよ、さらば与えられん」と約束してくださる神様のお心の大きさを知り、その恵み深さに神様を賛美したことであろうと思うのであります。 |
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みなさん、このことから、私たちの御言葉の聞き方ということを反省することが出来るのではないでしょうか。たとえば聖書を読みながら、説教を聞きながら、「そんなことは私にできない」とか、「この神様の約束は本当だろうか」とか、いつも自分が中心になって、都合の悪い言葉はシャットアウトし、自分の考えや弱さを神様に押しつけようとしてばかりいないでしょうか。そうではなく、神様の御前に低い者となって、自分を退けて、ひれ伏して御言葉を拝聴するということが大切だと思うのです。私たちの考えや、気持ちが、御言葉よりも力のあるもの、価値のあるものとなってはいけないのです。私たちの考えや、気持ちよりも、神様の言葉の方が力を持つときに、神様のみ言葉は皆さんの心に、生活に、大きな力を発揮するものとなるのです。
どうぞ、みなさん、聖書を読むとき、教会で御言葉の説教を聴くとき、今私は神様の前にいるのだということを忘れないようにしたいと思います。聖書を読むときには、聖書に書かれた文字を読むのではなく、御霊をもって語りかけてくださる神の声を聴くという姿勢が大切なのです。
説教を聴く時も、牧師のお話しを聴くという姿勢ではなく、御霊によって語りかけてくださる神様の言葉を聞くという姿勢が大切なのです。牧師は、こうしてわざわざ聖壇の隅っこに立って説教をしているわけですから、みなさんは牧師を見なくてもよろしいということなのです。講壇の中心にある十字架と聖書と聖餐台をしっかりと見て、そこから神様がみなさん一人一人に語っておられる神様の声を聴くということが肝心なのです。
そのためには、聖書を読むときも、礼拝に出るときも、神への深い祈りをもって、神様のご臨在の前に導かれて、畏れに満ち、へりくだった者として御言葉を聴くということが必要なのです。
そのように神様の前に自分を退けて、神様の言葉を聞くということ、「それが私たちの人生の確かな土台になるのだ」ということを、イエス様は山上の説教の締めくくりで教えてくださっているのです。7章24-27節をごらんください。
イエス様は、岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家の譬えを話しておられます。大切な話なので、御言葉をそのまま読んでみましょう。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
御言葉を聞く人が岩の上に家を建てた人で、御言葉を聞かない人が砂の上に家を建てた人だと、イエス様はそういっているのでしょうか。そうではありません。御言葉を「聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」、そして「聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われています。
どちらも御言葉は聞くのです。どこが違うかというと、それを行うか、行わないかということなのです。ただ聞くだけでは駄目で、どのような姿勢で御言葉を聞くのか、それが問題にされているのです。
同じ事がその前のところにも言われています。21節
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
聖書を読み、礼拝で説教を聞き、「主よ、主よ」と言っているだけでは駄目だというのです。聞いたことを、つまり神様の御心をちゃんと行ったかどうか、それが大切なのだということを、イエス様は教えておられるのです。御言葉を聴くだけではいけない、御言葉に生きるということが、あなたがたの人生をどんな嵐にあっても揺るぎないものにするのだということです。
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イエス様はこの山上の説教で、開口一番に私たちに対する祝福を語ってくださいました。「あたがたはたとえ貧しくても、神様に祝福されています。たとえ悲しんでいても、重荷を負っていても、虐げられていても、迫害されていても、あなたがたは幸せです。あなたがたは神様の子どもたちなのです。天国はあなたがたのものです。あなたがたに大きな報いがあります。だから、喜びなさい。大いに喜びなさい」と言ってくださいました。そして、だからこそ、世の光として輝き、地の塩として人に仕えなさいとも仰いました。いつも隠れたところにおられる神様のみ顔を仰ぎ、神様との交わりに生きなさい、とも教えられました。何を食べようか、何を着ようかと、命のことで思い煩う必要は何もなく、すべては天の父が備えてくださるのだとも約束してくださいました。
このような生き方は、この世の生き方とは違うかもしれません。私たちが今まで経験してきたこととも違うかも知れません。どうしてこんな私が幸せだと言えるのか、どうして喜べるのか、どうして世の光、地の塩として生きられるのか、本当にこの世の必要は神様が与えてくださるのか、私たちにはまったく信じられないこと、たとえ信じようとしても非常に難しいことであるかもしれません。
だからこそ、イエス様は13節で、狭き門の教えを話されました。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
イエス様は、御言葉に生きる信仰の道が、世の多くの人たちが歩む道とは違うということを認めおられます。その道を生きる人は少ないのです。
しかし、この世の常識でもなく、自分の体験してきたことでもなく、人の忠告でもなく、そういうものを退けて、ただ神様の言葉を信じて、選び取って、それを自分の生き方にすることが信仰であり、あなたの命の道なのだということを仰っておられるのです。山上の説教の最後で、イエス様はそのような信仰の決断をするようにと、私たちに繰り返し、繰り返し求めておられるのです。
なぜなら、そのような信仰をもって御言葉に生きるということがなければ、語れた祝福も、約束も、新しい命も、私たちの実際の生活とはまったく関係のないのものになってしまうからです。語られた御言葉が、私たちの人生に成就するためには、御言葉が私たちの生活に食い込んで、その中で支配するようにならなければいけないわけです。 |
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厳しいお話しかもしれません。みなさんの中には、「それは分かっている。しかし私にはなかなかそういう信仰が持てないのだ」という人もあるかと思うのです。そういう感覚が普通だと思うのです。しかし、自分の信じる力に頼ろうとするから、そういう風な考えをもって失望してしまうのです。
そうではなく、信仰もまた、神様の賜物なのです。恩寵の力なのです。自分の信じる力ではなく、神様の賜物としての信仰を持つ事が必要なのです。
イエス様は、信仰を持ちなさいという決断を迫るお話しをする前に、こういう話をしてくださっています。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門をたたけ、さらば開かれん」という話、イエス様の約束です。これは神様から来る良き力に期待をしなさいということなのです。神様は親が子供にパンを与えるのと同じぐらい当然のこととして、私たちに良きものを与えようと願っているのだと教えてくださっているのです。
先日、高橋きよさんが戦争中のご苦労をお話しくださいました。子供がお腹が空いたといって来ても、何もあげるものがない時は本当に辛かったというお話しでした。あげるものがなくても、あげたいと願い、あげることできないことに苦しみを覚えるのが人間の親であります。
まして、天の父なる神様が、天の子どもたちに対してそれ以下であるはずがない、とイエス様は仰るのです。信仰がなければ信仰を求めれば良い、そういうことではないでしょうか。
それからもう一つ、このように申しますと、今度は「しかし、私は神様から良いものをいただけるような良い人間じゃない」と失望してしまう人がおります。
しかし、イエス様は、神様は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とおっしゃっておられるのです。「求めよ、さらば与えられん」のくだりにしても、11節で「あなたがたは悪い者でありながらも・・」と仰っておられます。私たちが良い人間であるか、悪い人間であるかということは問題ではありません。問題は、私たちが神の子であるということです。
それはイエス様が最初に仰ってくださっていることなのです。だから、求めなさい、祈りなさい、天の父に期待しなさい、そして神の子として生きなさいということなのであります。
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門をたたけ、さらば開かれん」ここに弱い私たちが、愚かな私たちが、クリスチャンとして信仰に生き、御言葉に生きる生活の基礎、新しい命をに生きる可能性、生きる希望があるのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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