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今日は「山上の説教」について三回目のお話しです。今日は、救われた生活というのは、徹頭徹尾、神様と共にある生活であって、その神様の御翼の陰に隠され、守られた生活であるということを教えられたいと思うのです。別の言い方をすれば、いつも神様に目を注ぎ、祈りによって歩む生活だと言ってもいいと思います。それが6章に書いてあることなのです。
しかし、そのことをお話しする前に、前回の補足のような話になるかと思うのですが、救われた生活とは何かということを、もう一度お話ししておきたいと思います。
私は、クリスチャンの両親に育てられまして、子供の頃から、折に触れてこの山上の説教を聞いてきました。その中で、ある時期、私をとても悩ませ、苦しめたお言葉があるのです。それが、「もし右の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまづかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」という、イエス様のお言葉でした。
思春期というのは自分の存在の意味について考えたり、悩んだりする時期だと思います。それまでは自分について考えたり、疑ったりすることはまずありませんでした。お月様には本当に兎が住んでいるんだろうかとか、海をずっと遠くまでいくとどこに行くんだろうかとか、自分の外にある世界に対しての興味はつきなかったのをよく覚えています。しかし、自分の存在の意味とか、価値とか、そういうことはまったく疑いのないこととして考えなかったのです。
それが思春期になりますと、自分と人を比べて劣等感を持ったり、人間関係で悩んだりして、自分の内面に目を向けるようになるのです。そして私も、(能力もないし、心の醜い汚い心をもった私は、世の中の屑なのではないか)と、だんだん自分が嫌いなっていってしまったのです。
そういう時に、先ほどのイエス様の言葉が、本当に心にグサリと突き刺さってきたのです。
(自分の醜いところ、悪いところ、嫌いなところを切り捨てていったら何も残らないじゃないか。つまり、俺は生きていても仕様がないということではないだろうか。)
こんな風に思い始めて、自分の存在の価値がどこにあるのか、まったく見いだせなくなってしまったわけです。10代の後半から20代のはじめ頃まで、私はその問題で悩んでいました。
人間というのは、空気を吸って、ご飯を食べていれば生きていけるわけではありません。自分の存在の意味と価値というものをしっかりと見いだしていなければ生きていけないのです。自分が生きていることにどんな価値があるのか、どんな意味があるのか、それが分からないと空しく、寂しく、やりきれなく、不安になってしまうのが、私たち人間なのです。
人間の悩みというのは色々です。決して一口には言えません。でも、問題をつきつめて考えていきますと、結局は自分の存在の意味が見いださせないということに、悩みの根元があるように思われるのです。
思春期の問題というのは、その一つに過ぎません。世の中には自分の存在の意味や価値を揺るがすようなことはいくらでもあるのです。学校や職場で落第点を取ったとか、失恋したとか、親子関係がしっくりいかないとか、人に裏切られたとか、上司に怒られたとか、仕事に失敗したとか、財産をなくしたとか、愛する人を亡くしたとか、重い病気にかかってしまったとか、子供が結婚して巣立っていったら急に寂しくなってしまったとか、めでたく定年退職をしたら、急に生きがいがなくなってしまったということもあります。いろいろありますが、結局は、自分が存在していることの意味が見いだせなくなってしまい、自分の存在の価値が無きに等しいものにみえてきてしまうというところに、悩みの根っこがあるように思われるのです。 |
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そういうことを考えますと、人間が神様に出会って救われるというのは、ごくごく自然なことだと思うのです。
神様というのは、この世界を存在させ、私やみなさんを存在させたお方なのです。私には自分が好きになれない部分がたくさんありますが、私をこういう人間にお造りになったのは実は神様です。そのことを知りますと、どんなに自分が好きなれなくても、自分には神様によって与えられている存在の意味や目的があるのだと思えるようになってきます。「若き日にあなたの造り主を覚えよ」と、聖書の言葉がありますが、造り主なる神様に出会うということは、自分の存在の意味や目的を知るということなのです。
また子供の頃の話で恐縮なのですが、私は小学生の時に二回転校しました。そして、転校した先の学校で、クラスメートの一人から「転校生のくせに」と言われたことがあります。それでカッーとなって取っ組み合いのケンカをして相手をやっつけました。でも、相手をやっつけたところで、傷つけられた心は癒されません。今も恨んでいるというわけではありませんが、30年経っても相手の顔が忘れられないほど深く傷ついたのです。
こういう風に自分の存在が傷つけられた時、一人の友達が「あんなヤツ気にするなよ。俺はお前の友達じゃないか」と言ってくれて、すごくうれしかった。それもよく覚えているわけです。その時、私の存在に意味と価値を与えてくれる人に出会って救われたと言ってもいいと思います。
神様に出会って救われるというのも、これと似たようなことではないかなと思います。神様は、「人々や、世の中が、あなたにどんな烙印を押そうと、そんなことは気にするな。」と仰ってくださっているのです。「そんなことで自分の存在の価値を傷つける必要はまったくないのだ。あなたを存在させた私が、あなたを大切にしている。あなたの存在を喜んでいる。それがあなたの価値ではないか」と仰ってくださっているのです。それが、山上の説教の最初にある九つの祝福だと言ってもいいでしょう。
イエス様は、私たちの存在が神様に祝福されているということを、何よりも真っ先に仰ってくださったのです。私たちがこれまでどんなに生き方をしてきたか、これからどんな生き方ができるか、どんなに惨めな人間であるか、そういうことを問題にする前に、何よりも先にある事実として、神様があなたの存在を愛してくださり、喜んでくださり、とても大切に思ってくださっている。これがあなたの存在なのだ。あなたはそのような神様の前に本当に大切な、価値のある存在なのだ。そのことを無条件に宣言してくださっている、それが山上の説教の一番最初にある祝福というメッセージなのです。
この祝福によって、人や世の中によって傷つけられていた自分の存在の価値を、もう一度見いだすことができるようになる。神様によってそれが与えられる。これが神様に出会って救われるということなのです。
人間は確かに傷つきやすい存在です。ちょっとした人の言葉に傷つけられたり、仕事がうまくいかないと自分は価値のない人間だと思ってしまったりします。でも、人の言葉や、仕事が、私たちの存在の価値や意味を与えているのではありません。私が存在をしているのは、神様が私たちを造ってくださったからです。神様が「生きよ」と言ってくださるから、生きているのです。
そのことが分かりますと、この世的な意味で成功者ならなくても、この世の人たちから誉められなくても、逆に貶され、おとしめられようとも、ビクともしない自分というものを持つことができるようになるわけです。
このように私たちに存在に、価値と意味をお与えくださる神様の言葉、つまり「祝福」が与えられて、はじめて私たちはしっかりとした人間になることができるのです。
そうしますと、人間というのは輝いてきます。また人に優しくなれる。それが、イエス様が言われました「あなたがたが世の光である、地の塩である」というお言葉につながっていくわけです。それが神様に出会って救われるということであります。 |
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人間は空気を吸って、ご飯を食べていれば生きていけるのではない。自分の存在の意味をしっかりと分かっているということが大切であると申しました。そして、それを神様によって与えられるというのが救いなのです。
しかし、神様に出会って救われた人間が、その次に考えなければいけないのは「生活」のことでありましょう。自分は神の子なんだと分かり、とてもうれしい気持ちになっても、いざこの世の生活ということになりますと、実際問題としていろいろな困難が立ちはだかるのです。
その一つが、世間の冷たさや無理解です。せっかく自分が神様に愛されている存在なんだということがわかっても、結局は世の中の人はそういう風には見てくれません。仕事ができなければ役立たずと言われるし、失敗をすれば馬鹿者と呼ばれるし、ちいょっと人に遅れればのろまと言われてしまう。それでも喜んで教会に通っていると変人だと冷やかされるし、一人で静かにお祈りをしていると部屋に閉じこもって何をしているのかと怪訝な顔をされてしまう。いくら自分が神の子にされたことを喜んでいても、世の中というのはその喜びを分かってくれません。それどころか、その喜びに水を差すようなことばかりしてくるわけです。
もう一つは、経済的な必要という現実です。神様を信じて、自分が神の子だといって喜ぶのはいい。けれども、この世で生きていくためには、やっぱり日々の糧が必要であり、そのためにはお金が必要じゃないかということです。信仰を忘れるわけではないけれども、経済的な安定があってこそ、教会にもいけるし、献金もできるし、神様のためにも奉仕ができるのではないか。そういうことが信仰生活に立ちはだかってくることがあるのです。 |
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こういう信仰生活の問題についてイエス様がお答えくださっているのが、山上の説教の6章なのです。
まず世間の冷たさや無理解ということでありますが、これについては、人間を見るのではなく徹底的に神のみを見て生きなさいということを、イエス様は仰っておられます。
神のみを見て生きるというのは、家族と離れたり、仕事をやめたり、社会活動や政治活動から身を引いたり、文学や芸術への興味を失うことではありません。決してこの世との関わりを捨てて生きることではないのです。実際には、こういう決断が必要なこともありますが、そうでなければいけないということではありません。誰かと共にいるにしても、いないにしても、何をするにしても、しないにしても、常に神との一対一の関係を大切にして生きなさいということなのです。人の評価とか、世の中での成果とか、そういうことを見るのではなく、隠れたところにおられる神様の御顔にある喜びだけを見ていれば良いということです。
それが書いてあるのが、6章1-18節です。ここには、施しについて、祈りについて、断食について書いてあります。施しは隣人に対する生き方です。祈りは神様に対する生き方、断食は自分自身に対する生き方と言ってもいいと思います。イエス様は、決してこの世との関わりを捨てろと言っているのではなく、隣人と関わりながら、神様と共に生きていくことが、信仰生活だといっておられるのです。
しかし、その際にもっとも重要なことは、人の目ではなく神の目を意識して生きることだともいうのです。人々に分かってもらいたいとか、優しくしてもらいたいとか、誉めてもらいたいとか、そういうことを願うから、人の言葉や、世間の冷たさに傷つけられてしまうのです。そうではなく、私たちの存在の意味や生きていることの喜びは、神様が見ていてくださるということにあるわけです。
ちょっと季節外れですが、私の好きな詩に「星を動かす少女」という詩があります。
クリスマスのページェントで
日曜学校の上級生たちは
三人の博士や
牧羊者の群れや
マリアなど
それぞれ人目につく役を
振り当てられたが、
一人の少女は
誰もみていない舞台の背後にかくれて
星を動かす役があたった。
「お母さん
私今夜星を動かすの
見ていて頂戴ねー」
その夜、堂に満ちた会衆は
ベツレヘムの星を動かしたものが
だれであるか気づかなかったけれど、
彼女の母だけは知っていた
そこに少女の喜びがあった。
隠れた神様の目だけを見て生きるというのは、この少女のような喜びをもって生きるということなのです。誰も分かってくれなくても、誰も認めてくれなくても、一番見ていて欲しい人がちゃんと見ていてくれる。そのことに満ち足りた喜びを持ちなさいということであります。 |
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その次に、イエス様は経済の問題にも触れておられます。「天に宝を積みなさい」「あなたがたは神と富に兼ね仕えることはできない」と仰るのです。
これはクリスチャンが金持ちになってはいけないということではありません。私は、クリスチャンこそ金持ちになって欲しいと思っています。なぜなら、神様を知らない人が金持ちになっても、豪邸を建てたり、高級車をたくさん買ったりするぐらいの使い方しかできませんが、もしまことの信仰をもった人が金持ちになれば、世のために人のためにその富を大きく用いることができるだろうと思うからです。
その違いは、お金のために働き、お金を目的として生きているのか、それともお金以上のものを目的として働き、お金以上のものを求めて生きているのかという違いでありましょう。
イエス様が仰りたいのは、神の子たちというのは、お金に仕える人間になってはいけないということです。働いて金持ちになるのは良いのです。しかし、お金が目的で働くのではなく、もっと大きな事のために働きなさいということです。お金が入らなくても、神様の前に大きな仕事というものはあります。
あるたいへん正直な人が、カルカッタの不衛生な貧民街で働くマザーテレサにこう言ったそうです。「よく、そんなところで働けますね。わたしなんか100万ドルくれるっていても、いやですね」すると、マザーテレサは、「私もお金のためだったら、200万ドルつまれてもこんなことはできません」と答えたそうです。お金以上の目的や喜びのために働いているということです。
私たちは、そうは言っても日々の糧は必要ではないか、と心配をしてしまうわけです。それに対して、イエス様は、「あなたがたは、空の鳥よりも、野の花よりも、もっと神様に愛されている存在じゃないか。神様は、ひとり子を給うほどにあなたがたを愛してくださっている。それはこの世界であなたがた以上に大切な存在はないということなのですよ。だから、心配するな。必要なものは天の父がすべてご存じでいてくださるから、お金のことではなく、ただひたすら神様の喜びのために生きるということを心にかけて生きなさい」と言ってくださっているのです。
今日は、神様が私たちの存在の意味と価値を与えてくださるということからお話しをしました。それを知ることによって、私たちはこの世の空しさから抜け出して、本当に意味のある、喜びのある生活を始めることができるのです。それがクリスチャンの新しい生活なのです。
その新しい生活でもっとも大切なことは何か、私たちに存在の意味と価値と与えてくださっている神様の前に生き続けるということだというのが、今日のお話しです。この世の現実の厳しさの中で、つい人の目や経済的な現実に心を奪われがちですが、どうか、私たちには世界を所有しておられる神様が共にいてくださること、そして私たちのために御子をも惜しまず与えてくださる神様がおられることを忘れずに、神様の祝福に満ちあふれて生きる者でありたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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