山上の説教<2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書 5章13-48節
旧約聖書 創世記 1章1-3節
説教は福音である
 今日は山上の説教について二回目のお話しです。山上の説教というのは山の上で、といってもそれは丘のようなところだったと思いますが、弟子たちや集まってきた人々に向かってなされたイエス様の説教のことです。5章から7章にわたるたいへん長い説教なのですが、前回は、5章1-12節をお読みしまして、この説教がイエス様の祝福の言葉で始まっているに、たいへん大きな意味があるのだというお話ししました。

 この祝福なしに山上の説教は成立しません。「成立しない」というのは、それでは説教にならないということです。説教というのは、単なる良いお話しではありません。『マルコによる福音書』の一番最後を読みますと、「全世界に出て行って、すべて造られた者に福音を宣べ伝えよ」と、イエス様は弟子たちに言い残して、天国へとお帰りになりました。「福音を宣べ伝えよ」というイエス様のお言葉に答えて語られるのが説教なのです。説教は福音なのです。

 福音とは何でしょうか。福音とは、「イエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つのことによって人間が救われる」ということです。荒川教会の説教で繰り返し語っていることでありますけれども、これが一番大切なことであります。自分がしてきたこと、自分にできることによって救われるのではありません。他人が自分にしてくれたこと、またしてくれることによって救われるのでもありません。そういうことは、あればそれで良いし、なくてもそれで良いのです。

 イエス様がこれまでにあなたにしてくださったことと、これからしてくださることは何でしょうか。一つはイエス様が、あなたのために十字架にかかってくださったということです。それによってあなたのすべての罪が赦されているということなのです。

 もう一つは、イエス様は復活して、あなたのために新しい命を勝ち取られたということです。イエス様はあなたに新しい人生を生きる新しい命を与えることができるのです。

 三つ目のことは、イエス様はあなたに聖霊を送ってくださるということです。聖霊は、神の霊であり、イエス様の愛です。その聖霊によって、神様の力がいつもあなたと共にあり、イエス様の愛がいつもあなたと共にあるようにしてくださるのです。

 このように、イエス様によって救われ、イエス様によって新しい生活が始まり、イエス様によってまったき安息を得る、それが福音です。この福音が語られていなければ、どんなに面白い話も、どんなに良い話も、説教ではないのです。
山上の説教は福音説教である
 山上の説教はどうでしょうか。今日お読みした部分だけを見ても、「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と、こんなことが言われています。そして、その後に決して私たちに守りきれないような「新しい律法」が次々と語られているのです。

 「兄弟を馬鹿呼ばわりする者は地獄に堕ちる」
 「他人の妻を見てみだらな思いを抱いたら、もうそれは立派な姦淫罪になる」
 「妻を離縁する者はその女性に姦淫の罪を犯させることになるし、再婚した女性も姦淫罪を犯したことになる」
 「あなたがはどうせ何を誓っても守れないのだから、一切誓ってはならない」
 「悪に手向かってはならない。右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」
 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」

 こういうイエス様の教えというのは、確かに高尚な教えに聞こえるのです。しかし、高尚すぎてついていけないというのが実感ではないでしょうか。真面目に読めば読むほど、「お前はそれでもクリスチャンなのか」とイエス様の言葉に鞭打たれるような感覚を味わうのです。

 たとえば、イエス様は「右の目が罪を犯すならば、それをえぐり取りなさい。右の手が罪をおかすならば、それを切り捨てなさい。全身で地獄で落ちるよりも、片端になって天国に入るほうがましである」と仰います。これを聞いて、「ああよかった、左目や左手は天国に行けるんだ」と思える人はいいです。しかし、私にはこれは何の慰めにもなりません。罪を犯した部分を一つずつ切り捨てていったら、右目や右手だけではすみません。何かも切り捨てていかなければならなくて、ついには何も残らなくなってしまうのです。これは、自分の存在の価値がまったく否定されてしまうわけで、とりわけ厳しいお言葉だと思うのです。

 そして、もしそれが山上の説教の主題であるとしたら、とてもこれは福音説教とは呼べないお話しだということなのです。

 しかし、だからこそ大事なことは、イエス様がこの説教を祝福ではじめておられるということです。「あなたがたがこれらのことを守り抜くならば、あなたがたは祝福される」と、イエス様は仰ったのではないのです。そうではなくて、のっけから「あなたがたは幸いだ」と仰ってくださったのです。それはどういう意味かといいますと、あなたがたにはこのような祝福があたえられているのだ、だから、その祝福を基として神様との新しい関係を築き、その祝福の力にあやかって神の子として新しい生活を始めなさいということなのです。それが山上の説教なのです。
祝福とは何か
 いったい祝福とは何でしょうか。世の中の人というのは、そんなに祝福というものをありがたがらないのです。というのは、祝福というのは単なる言葉に過ぎないと考えている人が多いからだと思います。

 確かに、この世には、そういう言葉に過ぎない祝福というものがあふれています。「おめでとう。お幸せにね」とか、「はやく元気になるようにお祈りしています」とか、信仰もなく祈りもなく真実もなく語られる祝福というのは、まことに白々しく聞こえて、空しい気持ちにさせられるもよくあるのです。祝福の言葉よりご祝儀をくれとか、お祈りなんかいいから何とかしてくれ、そんな身も蓋もないような気持ちになってしまうわけです。

 祝福というのものをそんな風に考えていましたら、この山上の説教はまったく理解ができない説教になってしまいます。神の祝福というのは、そんな人間の空しい言葉とは全然違ったものなのです。確かに、神の祝福も言葉には違いないかもしれません。しかし、神様の言葉というのは人の言葉とはまったく違って、決して偽りのない言葉なのです。

 神が語られた言葉は必ず実現します。暗黒に向かって「光あれ」と言われたら、どんな暗黒にも光が射し込みます。処女マリアが男の子を産むといったら、それがどんなに常識を越えていても実現するのです。死んだ人に向かって「墓から出てこい」と言えば死人も生き返るし、死刑囚に向かって「あなたは今日パラダイスにいる」と言われれば、その人はたとえどんなに罪深い過去をもっていてもパラダイスに行くのです。

 そういう真実で力のある言葉が、私たちに向かって「あなたは幸せになる」と語る、それが祝福です。そして、山上の説教は、そういう祝福で始まっているのです。「あなたは幸せだ。天の国はあなたのものである。あなたは神を見るであろう。憐れみを受け、満ち足りる者となるであろう。あなたは神の子となるのだ」、口先だけの言葉ではありません。このように祝福が語られるとき、実際、私たちは神様とのまったく新しい関係が与えられるのです。神の憐れみを受ける者となり、神を見る者となり、天国が与えられ、神の子として満ち足りた命を持つ者なるのです。

 その時、私たちがどんな人間であるかということはまったく関係ありません。ただ、神様が憐れんで、祝福してくださることによって、私たちがどんな人間であっても、そのような者にされるのです。それが神の祝福です。

 でも、やっぱりそういう祝福を受けるのは、立派な人なのではないだろうかと思うかも知れません。それは違います。イエス様は九つの祝福を語られました。

 「貧しい人々は幸いである」
 「悲しんでいる人々は幸いである」
 「柔和な人々は幸いである」
 「義に飢え渇いている人々は幸いである」
 「憐れみ深い人々は幸いである」
 「心の清い人々は幸いである」
 「平和を実現する人々は幸いである」
 「義のために迫害される人々は幸いである」
 「キリストの御名のゆえに迫害される人々は幸いである」

 みなさん、この人たちに共通のは立派さではありません。「この世で報われずに生きている」、これが共通項なのです。

 「貧しさ」や「悲しみ」は人間の善悪の問題とはまったく関係ありません。「柔和な人」というのは、単なるお人好しで、人から頼まれると断れなくて、しなくてもいい苦労をいっぱい背負ってしまうような人でもあるわけです。「義に飢え渇いている人」もそうです。世の中が悪いと怒っている人、あの人が赦せないと憎んでいる人、こういう人も要するに正義を求めて飢え渇いているわけです。

 「憐れみ深い人」「心の清い人」もそうです。憐れみ深い人というのは、人を押しのけることができません。心の清い人は、悪いことができません。こういう人はこの世の生存競争に決して勝つことはできません。世の中ではそういう人を立派な人とはなかなか言ってくれないわけで、弱い人、駄目な人と評価されてしまうのがおちなのです。

 「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」はどうでしょうか。確かに立派なことをしている人かもしれません。けれども、ある意味で、こういう人たちこそ世の中で最も報われない人々であるかもしれません。人類の歴史が始まって以来一度も来たことがありませんし、まことの義が実現したということも未だかつてないのです。

 最後は、「イエス様の御名のために迫害される人々」です。信仰に命をかける人々です。信仰者から見れば実に立派な人ですが、信仰がない人からみればただの変人であるか、狂信者に過ぎません。

 しかし、このようにこの世で報われない人生を生きている人たちを、神様は憐れんで、祝福してくださるのです。立派な行いがあるとか、見込みがあるとか、そういうことではなくて、この人たちを幸せにするのはこの世ではなく、神様しかいないから、神様が幸せを与えてくださるということなのです。
金持ちとラザロ
 イエス様のたとえ話に、ラザロと金持ちの譬えというのがあります。毎日、贅沢に遊ぶ暮らしている金持ちがいました。その金持ちの家の門のところにラザロという惨めで貧しい人が横たわっていました。やがてラザロは死に、時を経て金持ちも死にます。ところが金持ちは地獄に落ちてしまうのです。

 金持ちがその地獄の炎の中で苦しみ悶えながら天を見上げると、なんとあのラザロが天国でアブラハムと一緒に宴席についているではありませんか。彼は、アブラハムに向かって叫びます。「お願いです。ラザロをよこして、私の焼けるように渇いた舌を冷たい水で冷やさせてください。」 しかし、アブラハムは「あなたは生前よい物を受けたが、ラザロは悪いものを受けた。だから、今彼は慰められ、お前は悶え苦しむのだ」と答えました。

 不思議な話だと思うのです。金持ちが悪い金持ちであり、ラザロが貧しいけれども善意に満ちた人であったというなら分かります。でも、そうではないのです。金持ちも、ラザロも、善いとも悪いとも言われていません。ただ金持ちは生前よい物を受けたから、あの世では苦しむ。ラザロは生前悪いものを受けたから、あの世では慰められる。そんな理屈があるかと思ってしまうのです。

 でも、山上の説教の祝福もそういうことでありまして、この世で報われない人を、神が報いてくださるということなのです。善人であるとか、悪人であるということは一つも問われないのです。善人にしろ、悪人にしろ神様の力なしに生きられない人、神の前にそういう人はすべて神様に祝福される。そういうことが言われているわけです。
生まれ変わる
 そして、山上の説教というのは、そういう神様の祝福の力によって、不幸な人も幸福になり、悪人も善人になる、罪人も罪を犯さない人間になる、従い得ない人も従う弟子になる、たとえそれがどんな不可能なことに見えても、その不可能を越えて、そういうことが実現していくのだということを教えているのです。それが祝福の力ということです。

 山上の説教は、この祝福ではじまっています。そして、今日お読みしました処にあるのは、この祝福の力は、私たちの生活の隅々にまで、自分の手が届かないようなところまで完全に行き渡るのだと言っているのではないでしょうか。

 「あなたがたは地の塩である。世の光である」 それは神様があなたがたをそのようにしてくださるということです。神様の祝福を信じ、その祝福に基礎をおいて生きようとする人は、神の祝福の力によってこのような新しい人生に生かされるのです。

 腹を立てない人間になるとか、みだらな思いを抱かない人間になるとか、結婚を貫くことができるようになるとか、人を赦せる人間になるとか、そういう細かいことが言われていますが、自分の努力によってではなく、私たちを新しくしてくださる祝福の力によって、私たちの生活がそんな風に新しく造りかえられていくのだということなのです。

 これこそ喜びです。福音です。そして、それを信じて、自分の生活を神様におささげしていくこと、それが信仰生活です。信じて捧げること、それが信仰生活なのです。

 何を信じて捧げるのか。神の祝福です。無力でも、迫害されても、神があなたがたの喜びを満たしてくださるとイエス様は言われました。それを信じて、たとえ無力でも、迫害されても、キリストの御名のために生きようとする。すると、そこに出来ないことが出来るようになっていくというたいへん不思議なことが起こってくるのです。

 どうせ駄目だと思っていたら、なにも起こりません。祝福は信仰の中に働きます。「主の仰ったことは必ず実現すると信じた人は何と幸いでしょう」と、エリサベトがマリアに言った通りです。祝福を信じて、自分をお捧げして生きていこうとすると、神様の祝福の力が私たちを導き、支え、不可能させ可能にしてくれるのです。

 これが祝福であり、信仰なのです。これが山上の説教で、私たちに約束された信仰生活なのです。感謝しましょう。そして、新しい人生に希望と信仰を持ちましょう。
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