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今朝は「山上の説教」についてお話しをしたいと思います。この「山上の説教」は『マタイによる福音書』の5章から7章まで続いておりまして、たいへん長いイエス様のお言葉となっております。それを今回は四回にわけてお話ししたいと思います。
イエス様のお言葉の一つ一つというのは、巨大な樹木のようだと思うのです。そこからたくさんの枝葉が広がっていきます。イエス様の一つのお言葉を通して、私たちは「あんな事も、こんな事も教えられる」という、学びがあっちにもこっちにも広がっていくという経験をするんですね。
もう一つは、決して頂点を見極めることができないということです。イエス様のお言葉は勉強して分かるものではないということは、みなさんもよくご承知してのことと思います。道理としては分かっても、御言葉の真髄といいますか、てっぺんにあることが見えてこないというもどかしい思いをすることがよくあるのです。私も、「分かった!」と思える時があるにはあるのですが、決して頂点を極めたという気にはなりません。まだこの先に何かがあるという思いは決して消えることはないのです。
山上の説教というのは、そういう枝葉の広がりにしても、てっぺんの高さにしても、本当にはかり知ることができない御言葉が集大成している大きな森のような説教なのです。ですから、これを読んで、私たちの心がひと度この世界に入り込むと、本当に素晴らしい魂の経験をすることができるのだと思います。
しかし、富士山のふもとには「樹海」という大きな森林地帯があって、一度のこの中で迷ったら二度と出てくることはできないとも言われます。脅かすわけではありませんが、山上の説教にもそういう面があって、不用意にこの森の中に入り込んでしまうと迷うことがあるです。「木を見て森を見ず」という言葉がありますけれども、それ式に読みますと、森の全体像が見えていないものですからどこに出口があるのか、つまり解決が、救いがあるのか分からなくなってしまうわけです。
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一つ例を挙げますと、トルストイというロシアの文豪がいます。トルストイという人はたいへん立派な人なのです。帝政ロシアの悪行を暴き、農民などの貧しい者の味方になり、戦争に反対し、平等を説き、世の中と戦った人なんですね。戦ったといっても暴力で戦ったのではありません。農民たちのために学校を作ったり、原稿料を難民の救済に充てたり、日露戦争では反戦論文を発表したり、善い業の実践をもって戦ったわけです。暴力は、トルストイの信念に最も反することでした。それは後のガンジーの非暴力抵抗運動にも影響を与えたと言います。
トルストイの信念とは何かと言いますと、それは「汝の敵を愛せよ」という山上の説教の中にイエス様のお言葉を頂点に据え、イエス様の教えをことごとく守り、キリスト教的な愛の実践に生き、キリスト教的な道徳的完全さをもった人間になることだったのです。そうすることによって、自分も、人も救われるのだと、彼は信じていたのでした。
私はトルストイとは比較にならないような愚かな人間ですけれど、やはりイエス様の山上の説教を初めて真剣に読んだとき、高校生ぐらいの時だったと思いますが、「ああ、ここに真の人間の道が示されている」と、いたく感動したのを思い起こします。そして、トルストイと同じような願いを持ったのです。人間というのはこういう人間にならなくちゃいけないんだ。ここにこそ自分の生きる目標、目指す人間像があると。こういう考え方をする人は、決して少なくないのではないでしょうか。
ところが、「人を裁くな、人の目にある小さなゴミを取ろうとする前に、自分の目から丸太を取り除け」とか」とか、「兄弟に向かって『馬鹿者』という人は、人殺しと同じである」とか、「いやらしい目で婦人を見る者は、姦淫したのと同じである」とか、「偽善者になるな」とか、たいへんよく分かるし、またそうなりたいと願うのですが、どうしても実行できないのです。そんな敗北感ばかりを味わうようになって、私は高い理想を持ちながら、まったく喜びもなく、感謝もなく、賛美もない人間になってしまったわけです。
あるのは何かというと、深い罪の意識と、自己嫌悪と、自分は救われないのではないかという恐怖心です。「右の目が罪を犯すなら、右目をえぐり出して捨てなさい。右手が罪を犯すならば右手を切り落としなさい。全身が地獄に堕ちるより、体の一部を失っても残りが天国に行く方がよい」とありますが、本当に罪を犯す手や目や口を切り落としたくなりました。しかし、そんなことをしたら、いったい体のどこが残るのだろうかと、また底なし沼のような絶望感に陥ってしまうのです。
さらにまた、自分はこんなに真剣に悩んでイエス様に従おうとしているのに、教会の牧師も長老もみんないい加減な奴らじゃないかという他人にたいする厳しい批判精神もありました。最後には、半病人のようになって昼間はずっと寝たまま学校にもいけないという、そういう所まで来てしまったのです。
実は、トルストイもそうでありまして、彼はこんなことを言っています。
「私は長い事苦しい苦しい探求を続けた。安価な好奇心からではなく、またいい加減な気持ちからではなしに、一生懸命に探し求めた。臨終の人が霊の救いを求めるように昼夜の別なく、肉を削る思いで私は執拗に探し求めた−−しかも私は何も見出すことができなかった」
そして、彼は晩年、非常な孤独の中に閉じこもる人間となり、ついに遺書を書き、妻への別れの手紙を書き、自殺のような家出をして出先で死んでしまうのです。つまり、誰の愛も信じられない人間となり、誰も愛することができない人間となってしまったということです。
この悲しい、不幸な結果から分かりますように、トルストイはどこかでイエス様のお言葉の受け取り方を間違えてしまったのです。
イエス様のお言葉というのは、どんなにお言葉でも、それは福音という喜びのおとずれの中で語られていることであるのということを忘れてはいけません。福音とは、イエス様がしてくださったことと、してくださることによって、人が救われるとということです。神の愛、神の恵みということが一番根本にあるのです。しかし、トルストイはついにそれがわかりませんでした。あくまでもイエス様のお言葉を実践することによって自分を道徳的な完全な者にしようとしたわけです。
しかし、イエス様のお言葉は福音であって、単なる道徳的目標ではないのです。イエス様の十字架の愛、復活の力で、私たちは神様の前に完全な者とさせられるのです。イエス様が「あなたがたは完全な者でなければならない」と言われた時、それは私たちを完全な者としてくださる神様の恵みの力について言われているのです。神の愛は、あなたがたを新しく生まれさせ、完全な人間にすることができる偉大な愛なのだということを、イエス様は仰りたいのです。
トルストイにはそれが分かりませんでした。ちょっと間違えたというのではなく、根本的にイエス様のお言葉の聞き方を間違えてしまったのです。その結果、彼は、信仰というのは自分と神様の関係であるから教会なんで不要なのだと主張したり、自分で聖書を書き換えたりして、教会から破門されてしまいます。
トルストイは立派な人だったと思いますし、尊敬するのですが、しかし、彼は、山上の説教という御言葉の深い森の中に迷い込んでしまって、出口が(つまり救いが)分からなくなってしまった、たいへん不幸な人間だったと言わざるを得ません。森全体を見渡す視野を持たなかったということが、トルストイの不幸の原因なのです。
日本でも芥川龍之介とか、有島武郎とか、太宰治とか、キリスト教に非常に近く接近していながら、自殺をしてしまったという文学者たちがいます。有島武郎は内村鑑三の弟子でクリスチャンです。彼は白樺派に属していますが、白樺派というのはトルストイの影響をずいぶんと受けていますから、やはり同じ過ちの道をたどったのかなと思ってしまいます。
芥川龍之介は枕辺に聖書を置き、睡眠薬で自殺を遂げる寸前まで聖書を読みつづけたといいます。作家として、読書家として、或いは知識人として最後に辿り着いたのが『聖書』であったのです。しかし、救われて魂の平安を得るに至らなかったのはどうしてなのか、私は芥川にもトルストイと似たような間違いがあったのではないかと想像するのです。 |
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では、山上の説教という御言葉の森の全体を見渡すと、いったいどういう構造になっているのでしょうか。正直に言って、一回や二回読んだぐらいでは、なかなかこの説教の構造は見えてきません。ただ色々な教えが並べられているなというぐらにしか見えないのです。それもそのはずで、実は、聖書学者たちは、これは一つの説教ではなく、イエス様が色々なときに、色々なところで仰ったことを、マタイが一つに集めてまとめたものだと説明します。それならば、あまり理路整然とした構造がなくても仕方がないと思うのです。
しかし、よく読んでみますと、一つの構造がはっきりと見えてくるのです。今日、しっかりと抑えておかなければいけないのは、イエス様は、この説教を祝福をもって初めておられるということです。
これは大切なことです。貧しい人たち、悲しんでいる人たち、柔和な人たち、義に飢え渇く人たち、憐れみ深い人たち、心の清い人たち、平和を願う人たち、義のゆえに迫害される人たち、信仰にゆえに迫害される人たち。このような人たちは皆、この世の小さき者たちであります。この世の無常とか、人間の惨めさということを身をもって知っていて、それにゆえに神の国を切望している人たちなのです。イエス様は「その人たちは神を見る」と祝福してくださるのです。必ずや憐れみを受け、満たされ、天の国が与えられ、神の子と呼ばれるようになるであろうということです。
人間は、祝福なしに新しく生まれ変わることはできません。どんな良いお話しや、教えを聞いても駄目です。「幸いなるか、貧しき人」「幸いなるかな、悲しむ人々」という祝福がなかったら、決して新しく生まれることはできないのです。トルストイのような強い人もそうだったのです。まして、弱くて小さな人が新しく生まれるなんてことはできないのです。
イエス様は貧しき人も、悲しむ人も、重荷を負う人も、虐げられている人も、迫害される人も、みんな祝福してくださいました。何がなくても、この祝福を心の拠り所とするならば、必ず新しい人として立ち上がり、生きていく力を持つことができるようになる、それがこの山上の説教で最も肝心な点です。 |
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最後に、ちょっと順序が逆になったように思いますが、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」「イエスは口を開き、教えられた」と書いてあることについて、お話しをしたいと思います。
考えてみますと、祝福は教えではありません。教えならば誰が話したって同じ事になりますが、祝福はそうはいかないのです。すると、ここにイエスさまの目が群衆に向けられて、イエス様の口からその群衆に向かって祝福の言葉が語られる、そこにたいへん大きな意味があるわけです。
単なる教えならば誰の口から語られても同じです。しかし、祝福は誰から語られているかということが一番肝心なのです。みなさんは聖書を読むと、その意味を知りたいと思うかも知れません。しかし、言葉の意味を勉強しても祝福された気持ちになりません。祝福というのは、私たちへの愛に満ちたイエス様のご人格から溢れてくる言葉なのです。
祝福は勉強によって手に入れるのではなく、イエス様を信じ、イエス様に耳を傾け、それを聞くこことによって私たちのものになるわけです。私たちを祝福するイエス様の御言葉の力が、私たちの心の中に、人生の中に働き、私たちを祝福するのです。
どうか、聖書を通して、イエス様に出会い、イエス様が私たち一人一人に語っておられる言葉を聞くことができますように。そして、祝福がみなさんのものとなり、新しい命がみなさんの中に力強く働くものとなりますように。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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