十二弟子の選び<3> ー務めー
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書 3章13-19節
旧約聖書 ヨシュア記 1章1-9節
使徒について
 イエス様は深い祈りをもって、十二人を使徒としてお立てになりました。今日は、このことについて三回目のお話しになります。イエス様がこれらの十二人を選ばれたのは、彼らがふさわしい人間であったからではなく、彼らをふさわしい人間にするためでありました。そして、彼らはこの恵みに基づいた選びを、へりくだってお受けして、イエス様のそばに集まってきた、そこまでお話しをしてきたのです。

 14-16節を、もう一度読んでみましょう。

 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」

 イエス様は十二人を使徒に任命されたということが、二回繰り返して語られています。使徒というのは、「イエスの使者」という意味ですが、単なる使者とも違います。彼らは、どこにいても、いかなる場合にあっても、神の御子イエス・キリストの名誉と権威を代表する特命全権大使であると言ってもよいのです。

 聖書で「使徒」と呼ばれるのはこれらの十二人の他に三人だけです。ユダが自殺をしてしまったのでその欠員を埋めるために選ばれたマティア、そしてパウロとバルナバです。それだけ使徒というのは、弟子の中でも特別な力と仕事を与えられた人たちであると言ってもよいでありましょう。
私たちのキリストの弟子
 ただその一方で、私たちもキリストの弟子であることには違いありません。よくクリスチャンといいますが、それはどいう意味でしょうか。「キリストに隷属する者」ということです。「隷属する」というのは「言いなりになる」ことで、あまり良い言葉ではありません。もともとは異教徒の人たちがイエス様を信じる人々を嘲って、「お前たちはクリスチャンだ」と侮辱したのが始まりであったといいます。

 ところが、イエス様に従う者たちは「そうだ、我々はクリスチャンだ」と、むしろキリストに隷属すると言われることを喜んで、それを誇りに思って、自らクリスチャンと名乗るようになったというのです。

 『ペトロの手紙1』にはこのようなに言われています。

 「あなたがたは、キリストの名のために非難されるなら幸いです。・・・決して恥じてはなりません。むしろキリスト者(クリスチャン)の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(1ペトロ4:14,16)

 クリスチャンであるということは、どのような状況にあってもキリストの御名にために生きる者であるということであるのです。私たちが住んでいる日本は、まだまだクリスチャンが市民権を得ているとは言えない世界です。「洗礼を受けました」とか、「私はクリスチャンです」と表明しても、すぐには理解されないことが多いのです。場合によっては摩擦が生じることもあります。

 けれども、たとえあらぬ非難を受けようとも、必ずクリスチャンであることに誇りを持ち、喜びをもって生きていくことによって、キリストの御名の名誉と威厳が守られます。逆に、世間との摩擦を恐れて、自らクリスチャンであることを恥じたり、隠したりするならばどうでしょうか。キリストの御名の名誉と威厳に恥が塗られることになるのです。

 私たちは決して使徒でありませんが、次の聖書の言葉を忘れてはいけないと思います。『エフェソの信徒への手紙』2章10節

 「私たちは神に造られた者であり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリストイエスにおいて造られたからです」

 実は「造られた」という言葉と「任命した」という言葉は、訳し方が違うだけでまったく同じ言葉です。十二人が「イエス様によって使徒に任命された」ということは、そのように「キリストにおいて造られた」という意味ですし、私たちが「善い業のために、キリストにおいて造られた」ということは、そのように「キリストにおいて任命された」という意味なのです。私たちがクリスチャンにされたのは、そのようにイエス様の恵みによって造られたのであり、また任命されたということなのです。 
弟子の務め
 では、善い業とは何でしょうか。世のため、人のためになること、普通はそういう風に考えます。それは決して悪くない考えですが、一つ欠けているものがあるのです。それは「神のためになること」です。

 私たちのために、私たちの世のために、一番心を砕いてくださっているのはどなたかと言えば、それは神様です。神様は私たちを神の子にし、この世に神の国を来たらせようと、御子をも惜しまずに私たちのものとしてくださいました。そのことを思いますと、私たちが為すべき善い業とは何かと言いますと、神様にお仕えすることが一番なのです。世に対して生きる、人に対して生きるということも、常に神様に遣わされた者として生きるということです。

 ですから、地域の奉仕活動や、ボランティアをするということは善い業に違いないと思うのですが、それだけが善い業ではありません。

 たとえば家族に病人がいれば、その介護で一歩も外に出られないという人もいるでしょう。同じようなことは子育て中のお母さんにも言えます。そういう人は世のため、人のために何もできないかというと、そうではなくて、神様に遣わされた者として家族に仕える者となれば、必ず神様がそこにお働きになってくださるのです。そして、そこから人を神の子とし、この世に神の国を来らさんとする神様の素晴らしいお働きがどんどんと進んでいくのです。それが、何にも勝る善い業です。

 この世の仕事が忙しくて、世のため、人のためどころか、家族のためにすら何もできないという人もありましょう。それも同じ事でありまして、神様に遣わされた者として、その仕事を一生懸命にするということが大切なのです。そうすれば、そこに神様がお働きくださるわけです。

 そう考えますと、もう一つ大切な善い業がありまして、それが教会に仕えるということです。イエス様は十二2人を選ばれました。十二人というのは、かつてのイスラエル十二部族を表す数に違いありません。つまり、十二使徒というのは、十二部族に代わってイエス・キリストを信じる信仰によって生きる新しい神の民、新しいイスラエルを形成するために選ばれたのです。平たく言えば、教会を建てるために十二使徒を選ばれたということであります。

 聖書をみてみますと、イエス様が十二使徒を選ばれたのは、「彼らを自分のそばにおくため、また、派遣して、宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」とあります。かたや「自分のそばにおくため」、方や「派遣するため」とあります。まったく方向が逆なんですね。しかし、この両方を目的にするものとして建てられたのが教会であります。

 片方だけでは駄目なんです。世の中のことに無関心で、倒れている隣人をみても、世の中が悪い方向に向かっていても、何の関心を示さないで、ただ「神様、神様」と言っているのが教会ではありません。逆に、世のため、人のために社会運動や慈善事業ばかりをして、神様を礼拝していても世の中は少しもよくならないなんていうのも教会ではありません。神様を礼拝し、神様にお捧げし、神様の栄光を何よりも求めながら、世に出ていって愛の業に励み、世のため人のために仕える。これがイエス様がこの世に教会をお建てになった目的であるというのです。

 ですから、善い業とは何かという話ですが、それは神様に仕えることであり、神様に遣わされた者として世に対して、つまり人に対して生きるということなのです。両方が車の両輪のように一緒に動かないと駄目なのです。それは教会に仕えるということによって実現するのです。私たちが使徒たちと共に教会を建てる者になること、そうすることによって私たちは神様に仕える者になり、また世に対しても人に対しても神様の僕として生きる者にされるということなのです。
悪霊を追い出す権能
 最後に、「悪霊を追い出す権能」ということについてもお話しをしておきたいと思います。「悪霊を追い出す」などと言いますと、悪霊に取り憑かれた人がいて、その人に向かって「悪霊よ、出ていけ」とやる。そうすると、その人から悪霊が出ていってその人が正気を取り戻す。こういう話が実際に聖書にありますし、そういうことを言うのだろうと思う人も多いかと思うのです。

 中には、病気の人や、災難に見舞われている人を見ると、「あなたは悪霊につかれている。私が祈って追い出してあげましょう」という人もいるそうです。妙な話だと思いませんか。まるで病気や災難が悪霊の仕業だと言わんばかりです。これではまるで「鬼は外、福は内」の豆まきと代わりません。

 しかし、悪霊というのは健康な人にも、幸せな人も働くのです。もっと言えば、実を言うと世の中は悪霊だらけなのです。ことさら「あなたは悪霊につかれている」などと言わなくても、実はみんな悪霊の影響を受けていると言ってもよいと思います。正直に言いましょう。私も悪霊に憑かれることがあるのです。悪い思いに取り憑かれたり、希望をなくして暗く沈み込んだり、自分のことばかりを考えて愛する気持ちがなくなったり・・・、要するに私の魂が神様に満たされ、支配されていなければ、その時は悪霊が私の魂を支配しているのです。

 しかし、これが恵みだと思うのですが、たとえ悪霊に支配されても、悪霊に支配され続けるということがありません。必ず神様の恵みの力が私の中の悪霊の力に打ち勝って、私を再び神様のものにしてくださるのです。これが神様の御国の力なのです。私はよく思います。私のように心が弱く、誘惑に弱い人間が、もしイエス様につながっていなかったらどんなに堕落した人生を送っていただろうか、と。

 悪霊を追い出す権能を持つというのは、この悪霊の支配下にある世界に、神の国の支配をもたらすことです。空しいことに身を任せている人に天の宝を追い求める真の願いを与え、他人を恨んでいる人に赦す心を与え、悲しんでいる人に天の慰めを与え、落胆している人に清い希望を与える、そのためには「悪霊よ、出ていけ」と言ったって駄目なので、神の国の愛と力をその人の上に呼び下す、真剣なる執り成しの祈りが必要なのです。私たちが、神の子らとしてそのような祈りを神に捧げることができる、そして神様は私たちの祈りに答えてくださる、それが「悪霊を追い出す権能」です。

 どうぞ、天から祝福を呼び下すような、祈りの僕になりたいとねがいます。そのような祈りをもって、神に仕え、人に仕える者になり、また教会に仕えるイエス様の弟子になりたいと願うのです。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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