十二弟子の選び<2> ー応召ー
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書 3章13-19節
旧約聖書 イザヤ書 57章15節
恵みによる選び
 今朝は十二弟子の選びについて二回目のお話となります。イエス様は山に登り、そこで徹夜をなさいました。翌朝、弟子たちを呼び集め、そのうちの12人を選び、「使徒」つまりイエス様の使者に任命されたというお話しであります。

 先週は、「選び」についてお話しをしました。どうして、彼らが選ばれたのかということであります。決して彼らが他の人々よりも見込みのある人間だったわけではありません。人間的に言っても真に欠けの人々でありました。それなのに彼らが選ばれたというのは、一言で言えば、そこにはイエス様の深い祈りと恵みがあったのだということであります。
彼らはそばに集まってきた
 今日は、さらにもう一つのことをお話ししたいと思います。それは「弟子たちの応召」、つまりイエス様の召し出しに応える弟子たちということです。

 13節をもう一度お読みしてみましょう。

 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」

 「彼らはそばに集まってきた」とあります。これは、何でもないことを言っているように思うのです。イエス様が呼び寄せられたから、それに応えてそばに集まってきたということなのです。けれども、みなさん、この何でもないことがなかなか出来ないということが、人間にとって最大の問題なのではないでしょうか。

 イエス様のたとえ話にもこんな話があります。ある王様が王子の結婚を祝ってもらうために祝宴を開き、人々を招待なさったというのです。宴会の時刻になったので、王様は人を遣わして、招いていた人々に「用意ができましたから、どうぞお越しください」と言わせました。ところが招待されていた人々は次々とそれを断り始めます。「畑を買ったのでそれを見に行かなければなりません」「牛を買ったのでそれを調べに行かなければなりません」「妻を迎えたばかりなので行けません」・・・このようにみんな勝手な言い訳ばかりをして、王様がせっかく準備万端用意してくださった食事の席に誰一人としてこようとしなかったというたとえ話です。

 なんとも言えない寂しい話でありますけれども、イエス様はこのたとえ話によって、神様の招きに応えることができないということが、人間にとって最大の問題であるということを教えてくださっているわけです。

 神様のもとには私たちのために用意された素晴らしい救いがあります。祝福があります。それらはすべて私たちが価なしに受け取ることができるものです。しかし、招きに応えることができなかったらどうでしょうか。どんなに神様が私たちのために心を砕き、素晴らしい祝福の数々を用意してくださっていても、私たちは何一つ手に入れることも、味わうこともできないのです。そればかりか、神様をひどくがっかりさせてしまうことになるのです。

 そう考えますと、「彼らはそばに集まってきた」という御言葉が、どんなに大切なことを私たちに語っているかということを思わざるを得ないのです。彼らは何のふさわしさもない人間だったかもしれません。欠点の多い人間であったかもしれません。たくさんの罪を犯してきた人間であったかもしれません。しかし、イエス様の招きに応えることができる人間であったということは、何にも勝る彼らも長所でありました。

 それはこの時だけではありません。これから先、彼らは幾たびも迷ったり、さまよったりするのです。しかし、その度にイエス様の招きがあり、彼らはそれに応えてみ側に集まってきました。そして、イエス様の恵みの中で、真の弟子として成長させられていったのであります。
ユダと他の弟子たちとの違い
たとえば、19節にイスカリオテのユダのことが記されています。

 「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」

 ユダがイエス様を裏切ったというのは有名な話であります。なぜ、イエス様はこのようなユダを使徒に選んだのか? イエス様の全知全能もユダの裏切りまでは見通すことができなかったか? そんな風に思う方もいると思うのです。

 しかし、真実を言えば、裏切ったのはユダだけではなかったのです。聖書には、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)と書かれています。みんなイエス様を裏切ったのです。

 その中で二人だけ、捕らえられて連れて行かれるイエス様にこっそり従おうと弟子がいました。ヨハネとペトロであります。しかし、ヨハネは途中で捕らえられそうになると、着ていたものを脱ぎ捨てて裸で逃げてしまったと書かれています。ペトロは、イエス様が裁かれる大祭司の家の庭までこっそりとやってきました。しかし、「あなたも、あのイエスの弟子ではないか」と見咎められると、「わたしはあんな人を知らない。まったく関係ない」と、三度も弟子であることを否定しまったのです。ですから、裏切ったのはユダだけではなく、みんなイエス様を裏切ったのです。誰一人、十字架にかかるイエス様に従い得なかったのです。

 しかし、ユダは自分のしてしまったことを悔いて首をつって自殺をしてしまいます。それに対して他の弟子たちは、もう一度、イエス様の招きに応えて、み側に集まってきました。聖書には、復活なさったイエス様が、弟子たちをもう一度山の上にお集めになったと書いてあります。そして、ご自分の権能をもう一度彼らに授けて、福音を宣べ伝えなさいとお命じになったのです。

 その時、弟子たちは自分たちが裏切り者に過ぎないことを百も承知していました。そういう自分を赦せなかったに違いありません。しかし、こんな私たちを赦して、なおも招いてくださるイエス様の恵みに、にへりくだって応えたのであります。そして、もう一度、イエス様のみ側に集まり、弟子として新しい歩みを始めたのです。

 大切なことは、弟子にふさわしいかとか、弟子としての力があるとか、そういう問題ではなく、イエス様が招き応えて、み側に集まる心をもっているかどうか、そのことなのです。それだけが大事なのです。
招きに答えるためには
 では、どうしたらイエス様の招きに応えて、み側に集まる人間になることができるのでしょうか。それは、うち砕かれ、へりくだった人間になることです。

 今日はイザヤ書57章15節を合わせてお読みしました。

 「高く、あがめられて、永遠にいまし
  その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
  わたしは、高く、聖なる所に住み
  うち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
  へりくだる霊の人に命を得させ
  うち砕かれた霊の人に命を得させる」

 「神様はうち砕かれた者、へりくだる者と共におられるのだ」と言われています。実は、旧約聖書を読んでいますと、たいへん素晴らしい働きをした神の僕たちであっても、最初はなかなか神様の招きにこたえられなかったのだということが分かります。そういう人が、神様の招きに応えるためには、必ず神様にうち砕かれ、へりくだった人間にされてるのです。

 たとえば、モーセは口べたでありました。そのために、神様がエジプトに行ってわが民を救えと言われた時、「わたしなどはふさわしくありません。もっと適任者がいるはずです」と、5回も神様の招きを否み、とうとう神様を怒らせてしまったというのです。しかし、神様が「誰があなたにその口を授けたのか」と言われると、モーセは自分の能力ばかりを見て、神様の力を見ようとしなかったことに気づき、神様の召し出しに応える者になったというのです。

 それから、今日はギデオン協会の方々がいらしていますが、ギデオンというのはミディアン人からイスラエルを救い出した神の勇者の名前ですね。ところが、このギデオンというのは勇者どころから、たいへん小心者でありまして、ミディアン人の襲撃を恐れて隠れているところに天使が現れるのです。「神様があなたと共にいます」と祝福すると、ギデオンは「神様がいてくださるなら、なんで私たちはこんな苦しい目にあっているのですか」とくってかかるのです。すると、天使は「大丈夫です。神様は、イスラエルを救うためにあなたを選びました」というと、「とんでもない。私のような者には何もできません」と尻込みをしてしまう、そういう人間です。しかし、そんなギデオンがたいへん素晴らしい神様のお仕事を成し遂げることができたのは、ギデオンは「神様がしてくださる」という信仰をもったからなのです。

 預言者エレミヤも、神様の招きに応えるのに苦労した人間の一人です。神様は、エレミヤに、「わたしはあなたが生まれる前から、あなたを預言者にすると決めていた」と言われました。ところが、エレミヤは「わたしは若者に過ぎません。こんな者が人々に何を語れば良いのでしょうか。」と応えたのでした。しかし、神様は「年齢など関係ない。あなたは自分の経験や知識を語るのではなく、私が教えることを恐れずに余すことなく人々に語れば良いのだ」と仰いました。それで、エレミヤはようやく預言者として立ち上がります。自分の経験や知識ではなく、神の言葉の器となって、それをまっすぐに伝えれば良いのだということが分かったからであります。

 モーセも、ギデオンも、エレミヤも、最初は神様の招きになかなか応えられないのです。自分はふさわしくないとか、できっこないとか、まだ未熟で経験がないからとか、そういう言葉が出てきてしまうのです。しかし、それは謙遜なようで実は謙遜ではありません。自分が一生懸命に働いて神様を助けなければいけないんだという考えがあるから、出来るとか、出来ないとか、そういう言葉が出てきてしまうのではないでしょうか。しかし、神様はあなたの力、あなたの助けが必要だ、だから私を助けてくれ、なんてことは言っていないのです。

 そうではなく、私を必要としてくれる人が必要なのだと言っておられるのです。神を必要として、神の恵みを心を尽くして求め、神の力に全身全霊を傾けて頼む人を、神様は求めておられるのです。そういう人こそ、神を畏れ、へりくだった者であり、神様と共にいることができる人であり、神の器となって御業を世になす人なのです。

 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」

 どうぞ、私たちもうち砕かれ、へりくだって、み招きに応え、イエス様のみ側に集まる者でありたいと願います。
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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